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DETAIL JAPAN 2008年7月号別冊特集 『映画の発見』

わたしの10本

1)ブレードランナー(監督:リドリー・スコット 1982)
2)薔薇の名前(監督:ジャン・ジャック・アノー 1986)
3)雨月物語(監督:溝口健二 1953)
4)ノスタルジア(監督:アンドレイ・タルコフスキー 1983)
5)2001年宇宙の旅(監督:スタンリー・キューブリック 1968)
6)東京物語(監督:小津安二郎 1953)
7)ベルリン天使の詩(監督:ヴィム・ヴェンダース 1987)
8)ブリキの太鼓(監督:フォルカー・シュレンドルフ  1979)
9)フィッツカラルド(監督:ウェルナー・ヘルツォーク  1982)
10)サイコ(監督:アルフレッド・ヒッチコック  1960)

僕にとっての映画は、ワルター・ベンヤミンが『複製技術時代の芸術作品』でいったような「散漫な意識」において観るメディアではない。もちろん夢あるいは催眠術としての映画の働きに身を任せることにおいて、僕は人後に落ちないつもりである。だから正確には、観客と監督の立場を往還しながら、散漫な意識において受け止め、同時に注視しつつ観るというべきかもしれない。
この意味で『ブレードランナー』は多重な意味のエッセンスが詰め込まれた、ポストモダン映画の最高峰だといってよい。ポストモダンというのは、この映画は1980年代においてしかできなかったことを、すべて成し遂げているという意味においてである。人間のアイデンティティにおける記憶の問題をテーマにしているだけでなく、映像とSFXにおいてもアナログ時代の最後の作品である。ヴィジュアル・フューチャリスト、シド・ミードの近未来的なプロダクト・デザイン、ダグラス・トランブルの職人的なSFX、若くして亡くなったカメラマン、ジョーダン・S・クローネンウェスの逆光とスモークに満ちた映像もすばらしいが、何といってもヴァンゲリスの音響デザインは驚異的である。シンセサイザーの多重録音を駆使した音響は、映像と一体化し、時には映像を異化しながら無意識を揺さぶり続ける。前作の『エイリアン』も同じような意味で、僕にとっては忘れられない映画のひとつである。
『薔薇の名前』は建築記号論の創始者であるウンベルト・エーコの原作とともに、ヨーロッパの歴史の厚みを思い知らされた作品である。中世の修道院を舞台にした推理小説仕立てのSFといってもいいだろう。燃え上がる巨大な迷宮図書館はピラネージの地下牢やホルヘ・ルイス・ボルヘスの『バベルの図書館』そのものである。
『雨月物語』と『東京物語』は、俯瞰する朦朧とした映像と低視点のクリアな映像という対照的な映像を使っているが、いずれも日本の空間を典型的な形で捉えていると思う。
『惑星ソラリス』と『2001年宇宙の旅』は、カオスとノイズに対する1960年代のテクノロジーのイメージを対照的な映像で捉えている。僕の観るところ、この2つの映画を『サイコ』の手法によって統合したのが『エイリアン』であり『ブレードランナー』である。もうひとつの究極の可能性が『ノスタルジア』であることはいうまでもない。
『ベルリン天使の詩』は「ベルリンの壁」の存在を限りなく詩的に批評した名作である。ブルーノ・ガンツ演じる天使がベルリンの壁で出会うサーカスやハンス・シャロウンのベルリン図書館の広大な空間を忘れることはできない。
『ブリキの太鼓』は子供の眼を通して、歴史に翻弄されたポーランドの荒涼とした大地や都市を、愛情溢れる映像によって描いている。北海の漁で水揚げされる巨大な鰻を見て以来、しばらく鰻の蒲焼を食べることができなかった。
『フィッツカラルド』では、アマゾンの奥地にオペラハウスを建てようとした主人公が、船で遡る途中、洪水のため塞き止められた川を避け、船を山越えさせるのだが、リネンのスーツとパナマ帽で正装した主人公が、大雨の中をずぶ濡れになりながら山越えを指揮するシーンに強烈な印象を受けた。以来、僕にとってリネンのスーツとボルサリーノのパナマ帽が夏の正装になっている。

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