難波和彦+界工作舎
HOME 難波和彦 難波研究室
箱の家 PROJECT 青本往来記
AND OR
石山修武 第40信 作家論・磯崎新16 2012年05月14日(月)
作品論2「再び廃墟になったヒロシマ」

ドローイングあるいはそれに類するモノも作品として重要である。時にそれが実作、つまりは地上にある質量を具体化して作られたものよりも重要かも知れぬ、そう考えさせるのが作家としての磯崎新に焦点を当てる意味の一つだ。

特にわたくしにとっては。

わたくしにわずか計りの価値らしきがあるとすれば、あって欲しいからこそこの作家論を書いているのだが、建築家としての実作の多さ、その質量に拠り所を求めるのは不可能である。それはすでに痛い程に自覚している。それでは地上に残す質量以外に何かを残せるかと考えれば、単純極まるけれども質量を欠いた無重な情報としてのドローイングの類い、謂わゆる俗に言ってしまえば計画案という事にならざるを得ない。これには厄介な依頼主も必要としない。だから建築家らしきに必須なある商売のセンスが薄くっても何とかなる。

ただし必要なのは純然たるとは言わぬ、細密な世界の構築力である。世界のと言っても、それを言語によって構築しようとするのではない。物体らしき、あるいはそれを想わせる物体イマージュを描き出す事によって、あるべき世界を描写する事ではあろう。あるべきと言うと来たるべき未来という楽観的世界を想定してしまうやも知れぬが、それはちがう。過去へ過去へと遡行を続け、その涯に辿り着くもう一つの現実であるのかも知れない。

ここのところ、この作家論に少なからぬ時間とエネルギーを費やしてしまい、か細くなってはいるがほとんど毎日の如くにドローイングらしきは続けている。それが自分には最も適した表現方法であると考えるに至ったからだ。

かと言って、わたくしは芸術家では無いと自覚している。自分で自分を芸術家かなと考えるには、わたくしは余りに建築家らしきであり過ぎる。何を描いても、それがある種の物体らしきを描こうとするに至るのだ。建築という古い形式らしきから逸脱するのが多かろうが、それはやはりある種の物体を目指そうとしているのを知るのである。

磯崎新にはアンビルト(※1)と名付けられた著作があり、それは中国語にも訳されて、多くの中国人読者も獲得しているようだ。でも、それは磯崎新特有の、あるいは大建築家に独自な未来ビジネスモデルとしての計画案群である。壮大なキャピタリズム世界での営業行為でもあるだろう。わたくしはそれ等には多くの関心を持たぬ。

磯崎新の中国大陸での仕事には作家論を書く上では関心を持たざるを得ぬが、それは磯崎新にそれこそ特有な九州という場所の、群島世界状態を先験的に示さざるを得ぬ地政学の帰結としてであるか、あるいは磯崎新の本体でもあろう既存社会の破壊願望を奥深く内部の資質として持つ、作家本来のマグマの、隠そうにも隠し切れぬうごめきの、そのどちらかしか無いのである。

磯崎新の最良のエッセイはより精確に言えば自身を現実にさらしたものは処女作の「都市破壊業KK」(※2)である。まだ磯崎新は書き続けるであろうから、これは2012年春現在としなければならぬが、歴然としてこのエッセイには磯崎新の全てがある。そして本性もザックリと露出している。あまりにも露呈され過ぎているので、廻りの社会=読者=観客が、まさかの斜め読み、つまり滑ってしまう位のものだ。

ここに書かれている、あるいは不気味に表明されているのはより深くは磯崎新自身の二重性、あるいは両極性の伴走である。それは言説と実作表現の双子状態でもある。しかもシャム双子(※3)の合一性を持たずに分離され、あるいは意図的にしたまま生を、創作を進行させるという、まさに木の葉隠れ(※4)とでも呼びたい自己隠蔽術、そして俗に言えば方法とも、手法とも呼び得た二頭性である。つまり、極論すれば、磯崎新の創作群と言説群とは見事なくらいに分離している。更に言えば分裂している。しかも鏡像の如くにそれぞれが分離しながら自走を続けてきたのである。作品解説の如くの自己証明の類の中にもそれは時に歴然として浮上する。

ただ、ここに磯崎新のマグマとも呼ぶべき作家本来の本能的な近現代に対する嗅覚が在る。それ故にこそ、わたくしもこの作家論にいささか度外れた熱中をしている。

「都市破壊業KK」のマニフェストの典型とも言うべき作品がある。

「再び廃墟になったヒロシマ」(※5)である。

この作品は磯崎新の終末観=建築観の初期的表現であるばかりではなく、作家の身をとり囲む現実、観念的であろうが私的な現実であろうが、それに対する破壊願望がある。奥深くある。

アイロニーと自身を知的に装うまでもなく、その願望が露出している。この作品は磯崎新の自画像である。

観客は、つまりはこの作品の受け手はそうは考えない。ヒロシマの現実、実際その原爆投下による都市の破壊は20世紀最大級の悲劇であり、破壊でもあった。戦争の極度の表出でもあった。そこに我々は眼がゆきがちであった。

でも、これは磯崎新の自画像でもある。良く、まあこの作品を提示しながら、建築家として戦後資本主義社会をしのいできたなと驚くのである。この作品は磯崎新自身である。この作品を磯崎新は言説の如くにコラージュとして発表した。あるいは芸術家の一人として社会に提示した。それ故、社会はそれを容認し得たのだ。

おそらく「都市破壊業KK」は今でも磯崎新の中心である。


※1 『UNBUILT/反建築史』磯崎新、TOTO出版、2001年1月。1960年代以降の磯崎の作品から実際に建つことのなかった案を集め、同名の展覧会(ギャラリー間、2001)が開催されている。『反建築史』の冒頭エッセイ「流言都市」には、「都市破壊業KK」において現れたS(SIN)とA(ARATA)の分裂した磯崎の2つの鏡像が再登場し、1960年代から40年を経た21世紀においても、依然として分裂的で、弁証法的な論理の展開すらも拒む自身の根拠不在の作家性を表明した。

※2  「都市破壊業KK」(1962年) 1962年に書かれた磯崎新の寓話的エッセイ。単一の個人(=建築家)の構想力によってでは組立てることができなくなってしまった都市の動向に対する反動的帰結として、「できあがりつつある都市を壊す」という道化的な論理を立てる。磯崎自身の、分裂した二重人格的な作家であらんとする意志を自己批判的に描き、同時にその枠組をそのまま都市に投じることで社会全体への批判として提出した。なお、初出は1962年9月号の『新建築』で、当時の”批評性”を重視する編集者によって仕立てられた場でもあった。

※3 シャム双子 結合双生児の俗称。「シャム」とは現在のタイの旧王朝名を指し、シャム双生児の語源は、19世紀にタイで生まれた結合双生児、チャン&エン・ブンカー兄弟の欧米でのサーカス巡業の際の興業名「The Siamese Twins」にちなむものと言われている。彼らは肝臓のみを共有し接合部を比較的伸縮させることができた。彼らはそれぞれ別々の女性(彼女らも双子であった)と結婚し、21人の子供をもうけたという。62歳まで生きた彼らだが、死期の際、兄のチャンが気管支炎で亡くなると、約2、3時間の差で弟のエンも追って亡くなったと言われている。

※4 木の葉隠れ 木の葉隠れの術と言えば、横山光輝作の忍者comics『伊賀の影丸』の主人公、影丸であろう(初出は1961-66年の『週刊少年サンデー』の連載)。黒装束に鎖帷子という忍者の視覚イメージを確立させたこの漫画は一方で、様々に登場する人物それぞれが固有の特殊能力を持つという、戦後アクション漫画の一つのスタンダードを作り上げた。それはまた、次第に仮面ライダーや超人的能力とその必殺技を駆使して戦うヒーロー像の生成の萌芽であったとも言える。

※5 「再び廃墟になったヒロシマ」 1968年、磯崎新。ミラノトリエンナーレでのインスタレーション「エレクトリック・ラビリンス」にて出品された。未来から現実を振り返る形で眺める、レトロスペクティブな視点から、いわば廃墟に未来の廃墟を重ねたドローイング。事件や災害によって現れ出た終末的な世界の光景が、平時の社会構造そのものの破綻と暴走が向う未来の姿に極めてリアリティを持って接近しうるという、心象のイマージュを鮮やかに描き出している。ビルトでもなく、アンビルトでもない、どちらかの断定も許容しない幻影(=バーチャル)への彼の志向性は当時から現在に至るまで一貫している。

注釈:佐藤研吾


▲TOP

Copyright (C) 2003 KAZUHIKO NAMBA+KAI WORKSHOP. All Rights Reserved.
No portion of this web site may be reproduced or duplicated without the express written permission.
This web site is written in Japanese only.