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『10+1』連載 「現代住宅論」第7回     難波和彦      080320

「技術と歴史」      

前回の「建築的無意識」では、ヴァルター・ベンヤミンの『複製技術時代の芸術作品』からヒントを得て、建築空間が身体化・無意識化され、さらに、それが形による働きかけを通して揺り動かされるプロセスについて論じた。今回はこのアイデアをさらに先へ推し進め、「建築的無意識」を揺り動かし再編成する作業としてのデザイン行為と、それを支える技術の歴史的変容について考えてみたい。

二つの技術
ベンヤミンは同書の中で、技術を「太古の技術」と「現代の技術」の二種類に分け、その違いについて、以下のように述べている。

「第一の技術は、自然を制御することをめざしていた。しかし第二の技術はむしろ、自然と人間との共同の遊戯をめざすものであって、こんにちの芸術の決定的な社会的機能は、まさにこの遊戯を練習することなのだ」
『複製技術時代の芸術作品』(ヴァルター・ベンヤミン:著 野村修:訳 岩波文庫 1994)

本書でベンヤミンは、第二の技術を駆使する代表的な芸術として映画に注目し、それが大衆の無意識的知覚を根底から転換するはたらきについて論じている。しかしながら、現代の技術から振り返ると、ベンヤミンが提唱する二つの技術は「近代的な技術」と「ポスト近代的な技術」の対比としてとらえ直す方がより有効であるように思える。その傍証のひとつとして、マルティン・ハイデガーの技術論を取りあげてみよう。ハイデガーは近代科学と技術の関係について、次のように述べている。

一般の通念では、技術とは数学的・実験的物理学を自然力の開発や利用に応用することだと解されています。そしてこの物理学の成立のなかに、西欧的近代すなわちヨーロッパ的なるものの始まりが認められています。では一体、この近代自然科学だけが持っている特質とは何によってきめられるのでしょうか。この自然科学なるものは、自然現象があらかじめ算定できるものだということを、確保するような知識を追求するものです。(中略)この自然科学の根本性質は、かかる意味での技術的なるものであって、それが何よりも近代物理学によって初めて、まったく新しい独自な形態をとって現れてきたのです。
『技術論』(マルティン・ハイデッガー:著 小島威彦+L・アルムブルスター:訳 理想社 1965)

自然を「立て上げ、挑発する」という点において、近代の自然科学は本質的に技術的な存在だとハイデガーは主張する。ハイデガーは近代科学に対する批判的な立場から技術論を展開しているが、対照的に、近代科学と技術の関係をポジティブな立場からとらえようとするのがマルクス主義な技術論である。たとえば理論物理学者の武谷光男は、モダンな技術について、以下のような明解な定義を提唱している。

技術とは人間実践(生産的実践)における客観的法則性の意識的適用である。
『弁証法の諸問題』(武谷光男:著 勁草書房 1968)

武谷によれば、客観的法則性を明らかにするのが近代科学であり、なんらかの生産的な目標に向けて、それを意識的・計画的に適用するのが技術である。このような武谷の技術論は、60年代以降の日本の建築家や都市計画家に大きな影響を与えた。現在では、これがもっとも人口に膾炙した技術の定義になっている。技術の一般的な定義は、武谷によって確立されたといっても過言ではない。
否定的にとらえるか、肯定的にとらえるかという決定的な対立はあるにせよ、ハイデガーと武谷による技術の定義が、ベンヤミンがいう「第一の技術」に当てはまることはいうまでもないだろう。第一の技術は近代科学によって明らかにされた客観的法則を、なんらかの目的を達成するための手段として利用する。目的と手段を直接的に結びつけようとする点において、モダンな技術は「目的的技術」と呼ぶことができる。これに対して、ポストモダンな技術は、ベンヤミンに倣って「第二の技術」と呼ぶことができるだろう。第二の技術の特質について、ベンヤミンはこう述べている。

第二の技術の根源は、人間が初めて、そして無意識の智慧を働かせて、自然から距離をとりはじめたところに求められよう。言い換えれば、その根源は遊戯(シュピール)にある。    
『同上』

遊戯には達成すべき目的はない。あえていうならば、遊戯の目的はひたすらそれをやり遂げることにしかない。ポストモダン思想にしたがって、目的的技術が「生産的実践」をめざすのに対し、遊戯的技術は「消費的実践」をめざすといってもよい。しかしながら、目的的技術と遊戯的技術をむやみに対立させてとらえるのはまちがっている。ベンヤミンによれば、目的的技術から遊戯的技術への転換の要因は「自然から距離をとりはじめた」点に求められる。自然からの距離によって定義できるのだとすれば、二つの技術は不連続ではないはずである。では「技術が自然から距離を取るようになる」とは一体どういうことだろうか。それは、技術の対象が自然とは別のものになるといった単純な話ではないだろう。私見では、それは、自然を対象とする技術が多様化・複雑化し、階層的なシステムに再編成されることではないか思う。
前回の「建築的無意識」で紹介した、マイケル・ポランニーの暗黙知の理論やグレゴリー・ベイトソンの無意識の理論が明らかにしたように、システムの要素が多様化・複雑化すると、要素は互いに結びついてネットワークを形成する。そのネットワークが特定の構造を持つと、自律的なサブシステムを形成し、個々の要素の集合とは異なるはたらきを示すようになる。システム理論において、このような現象を「創発emergence」と呼ぶ。このとき、自律的なサブシステムの内部構造はブラックボックス(暗黙知・無意識)化される。さらにシステムが複雑化すると、サブシステムのレベルでもネットワーク化が生じ、システムは複雑な階層構造を形成するようになる。
このようなシステムの階層化プロセスは、人間の身体組織と脳、あるいはコンピュータのハードウェアとソフトウェアの関係をイメージすると分かりやすい。人間の身体組織の一部である脳は、明らかに自然法則に従っているが、脳のはたらきから生じる意識現象は、自然とは独立した世界を形成している。あるいはコンピュータのハードウェアは物理的存在だが、ソフトウェアが組み込まれることによって人間の意識に似た現象が生じる。
技術の進展においても、同じようなことがいえる。技術が多様化・複雑化すると、個々の技術はサブシステムを形成し階層化される。このとき自然との直接的関係を持っていた技術は、サブシステムの内部にブラックボックス化されていく。かくして技術のサブシステムは当初の自然との直接的関係から離れ、自律的な挙動を示すようになる。これが「技術が自然から距離を取るようになる」ことの意味であり、遊戯的技術の本質だといってよい。遊戯的技術は目的的技術の複雑化・システム化によって、創発的にうみ出されるのである。

19世紀における技術と美学の相剋
目的的技術から遊戯的技術への創発的なシステム転換のケーススタディとして、19世紀から20世紀にかけての建築の変遷を取り上げてみよう。
19世紀は鉄筋コンクリート、鉄骨、ガラスといった新しい建築技術が出現し、伝統的な「建築的無意識」を大きく揺り動かした時代である。20世紀初頭にル・コルビュジエがいったように、19世紀は「技師(エンジニア)の美学」の時代だった。そこでは「技師の美学」が「建築家の美学」と鋭く対立していた。
19世紀において、技師の美学が建築の美学を大きく揺るがした代表的な例は、1951年に世界最初の万国博覧会会場として、ロンドンのハイドパークに建設された水晶宮(クリスタルパレス)である。設計を担当したのは、建築家ではなく温室技師のパクストンだった。パクストンの案が採用された経緯には興味深いエピソードがある。当時、英国王立建築家協会には、高名なエンジニアであるイサンバード・キングダム・ブルネルがいた。ブルネルは当時の先進的な鉄骨技術を駆使して、鉄道、橋、船の建造といった幅広い活動を展開していた。万国博覧会場の当初案の設計は、協会に所属する建築家とエンジニアに委託され、ブルネルが中心となって案が作成された。しかしブルネルの案は古典的な美学に囚われた重厚なデザインであり、工期とコストにおいて実現不可能だった。これは先進的な技術者であっても、公的な建築においては、伝統的な美学(建築的無意識)を払拭することができなかった好例である。この結果、会場の設計は公開コンペティションとなり、最終的に温室の技術だけを用いて建設するパクストンの案が採用された。王立建築家協会の案を差しおいて彼の案が採用されたのは、コストと工期を満足する構法が、彼の案以外に存在しなかったからである。
水晶宮は一般市民には絶大な人気を博したが、建築家たちには一様に戸惑いと反発を持って迎えられた。たとえばウィーンの建築家ゴットフリートゼンパーは、この建築を見て「建築とはもっと重厚でなければならない」と評した。近代建築運動の創始者といわれるウィリアム・モリスは、工業部品だけによって組み立てられたこの建築を忌み嫌った。水晶宮はそれまでの建築に比べると、あまりに透明で軽すぎるために、建築家の伝統的な美学(建築的無意識)を根底から揺り動かしたのである。おそらく設計者であるパクストン自身も、自家薬籠中の温室技術を用いて短期間に巨大な展示会場を実現しただけであり、それがどのような空間を生み出すかを予測できなかったに違いない。彼には拘るべき美学がなかったといってもよい。しかし現在から振り返ると、水晶宮にはその後の近代建築の展開において追求される技術的なテーマ、工業化、部品化、システム化、工期短縮化、軽量化、多機能化、透明化といったテーマがすべて集約されている。ここには技術の自律的な展開が、それまでの伝統的な美学を揺るがし、新しい美学をうみ出す典型的な例を見ることができる。
1879年のパリ万国博覧会を記念して建設されたエッフェル塔についても同様である。エッフェル塔を設計し建設したのは、実業家でありエンジニアでもあるギュスタフ・エッフェルだった。鉄骨造の塔には、構造力学だけでなくエレベーター設備の面でも注目すべ技術革新が見られる。「芸術の都」パリに300mの高さの鉄塔を建てることに対し、パリ中の文化人と芸術家が反対した。すべての鉄骨を露出した塔は、伝統的な石造の街並みを破壊すると考えたからである。エッフェルはそうした伝統的な美学による反対を乗り越え、足元に装飾的な要素を付け加えるなど、さまざまな妥協を受け入れることによって塔を実現させた。当初は期限つきでいずれは解体される予定だったが、紆余曲折を経て生き残り、今やエッフェル塔はパリの美学にはなくてはならないモニュメントになっている。
このように19世紀は、急速に進展するエンジニアリング技術がうみ出す新しい建物が、建築家の伝統的な美学と感性、すなわち建築的無意識を揺り動かし続けた時代だったといってよいだろう。
モダニズム建築運動が最盛期を迎える以前の、建築家の美学の変容を示すいくつかの例を挙げよう。ゴットフリート・ゼンパーの弟子オットー・ワグナーが設計したウィーン郵便貯金局(1906)のホールは、新しい近代建築の美学の萌芽を表わしている。鉄とガラスによって構築された光溢れる無重力空間の至るところに、当時としては最先端技術のアルミニウム製建築金物がちりばめられている。フランク・ロイド・ライトの建築は、表現としてはプレモダンだが、環境制御技術と建築空間との統合をめざした先駆的試みの宝庫である。たとえばラーキン・ビル(1906)は、中央に吹抜空間を持つオフィスビルで、全体が空気の流れを制御する装置のような建築として設計されている。ペーター・ベーレンス設計のAEGタービン工場(1910)は、「技師の美学」が「建築家の美学」に取り込まれた典型的な例である。この建築について、ユリウス・ポゼナーはこう述べている。

ベーレンスがそこで試みたことは、「新しい構造技術」(鉄骨造のこと:筆者注)を古典的美学で抑制することだった。タービン工場側面の二階建て建物純粋にシンケル様式である。シンケルの劇場から取ったものだ。またその多角形ペディメント、そして支えのコーナー・パイロン、しかしそれは実は支えではなく、純粋に空間的な納まりである。また、側面ファサードにおける列柱の暗示と箱型エンタプレチュア。全ては側面の建物部分同様、古典的美学の支配下にある。
『近代建築への招待』(ユリウス・ポゼナー:著 田村都志夫:訳 青土社 1992)

ベーレンスが成し遂げたのは、技師の美学と建築家の美学との統合だろうか。あるいは古典的な美学に対する技師の美学の屈服だろうか。いずれにせよ19世紀とは逆に、モダニズム建築における技術と形の関係は、建築家の美学が先導することになる。

モダニズムにおける技術と美学の統合
19世紀以降の技術の急速な進展は、新しい技師の美学をうみ出し、建築家の美学と感性を確実に変容させていった。第1次世界大戦後の1920年代に勃興するモダニズム建築運動は、変転する技師の美学を建築家の美学に取り込む運動だったといってよい。『建築をめざして』(1924)の中でル・コルビュジエは19世紀の建築を、技術が一方的に形態を決定した結果うみ出された建築ととらえた。そして形態を自律したサブシステムとして再編成し、技術と形態を統合することが、近代建築家の使命だと主張した。この点についてル・コルビュジエは以下のように述べている。

工学技師の美学、建築、この二つは互いに連帯し相援けるものだが、前者はまさに隆盛をきわめており、後者は情けない衰退に瀕している。
工学技師は、経済の法則に立脚し、計算によって導かれて、われわれを宇宙の法則と和合させてくれる。かくて調和に達する。
建築家は、形を整頓するという彼の精神の純粋な創造によって秩序を実現し、形を通じて、我々の感覚に強く訴え、造形的な感動を起さしめる。そこにうみ出された比例によって、我々に深い共鳴を目醒ましすし、世界のそれと和しているかと感じられる秩序の韻律を与え、われわれの情や心のさまざまな動きを確定する。その時、われわれは美を感じるのだ
『建築をめざして』(1924刊 ル・コルビュジエ:著 吉阪隆正:訳 鹿島出版会 1967)

さらにル・コルビュジエは本書のなかで、当時の最先端技術である車とギリシア神殿を同列に並べ、両者が共通の目標、すなわち「美」をめざしていると主張している。

建築の古典的美学と技術の統合を完成させたのは、いうまでもなくミース・ファン・デル・ローエである。ミースは1950年のイリノイ工科大学での講演『技術と建築』においてこう述べている。

技術は単なる手法をはるかに越えるものであり、それ自体がひとつの世界である。手法としてもほとんどあらゆる観点ですばらしいものである。しかし、工学的な巨大構造としてそれ自体が表されているところでのみ、技術はその本当の性質を見せている。
明らかなのは、有用な手段であるということだけでなく、それ自体が一つの、それ自体の内に、意味と力強い形態を持つものであるということだ。事実、非常に力強く、名づけるのも難しい。はたしてこれはやはり技術なのだろうか、建築なのだろうか。
そしてこれが、建築が時代遅れとなって技術に取って代わられると確信する人々が存在する理由であると思われる。そのような決め付けは明確な思考に基づいていない。逆も起こる。技術が真に臨界点に達したところでは必ず、それが建築へと超越していくのだ。
『ミースの作品におけるモダニズムと伝統について』ケネス・フランプトン:著
『ミース再考』(澤村明+EAT:訳 鹿島出版会 1992)所収

コーリン・ロウは、ミースの建築の古典性について論じた論文『シカゴ・フレーム』(『マニエリスムと近代建築』所収 伊東豊雄+松永安光:訳 彰国社 1981)の中で、19世紀末のシカゴ派の高層ビルにおける鉄骨フレームと、1920年代のヨーロッパにおける鉄骨フレームとを対比させ、前者を「事実としてのフレーム」、後者を「観念としてのフレーム」と呼んでいる。そして前者の鉄骨フレームは投機を目的とする高層ビルの実利的手段として採用されたのに対し、後者の鉄骨フレームはモダン空間を表現する普遍的システムとして象徴的意味を帯びており、ミースはアメリカに渡ることによって両者を統合したと主張している。
初期のミースは「建築」ではなく「建物」をめざすと主張し、技術の結果としての建物というヴィジョンを提唱した。しかしその後のバルセロナ・パヴィリオンやチューゲントハット邸では、技術=構法と表現=建築とが微妙なズレを起こしている。そしてアメリカに渡ったミースはイリノイ工科大学キャンパス計画(IIT)において、技術の徹底化が建築へと超越するというヴィジョンに到達する。たしかにロウもいうように、レイクショアドライブ・アパート(1951)、ファンズワース邸(1951)、IITクラウンホール(1956)はかろうじて技術=建築というミースのヴィジョンに近づいている。上に紹介したミースの講演は、この時代の彼の技術観を表明しているといってよい。しかしそこでも技術がストレートに表現されているわけではなく、古典的構成を実現するために構造的・構法的合理性は必ずしも最優先されていない。その傾向はシーグラムビル(1958)以降さらに強まっていく。ミースが生涯の最後に設計したベルリンの新国立ギャラリー(1967)は、鉄骨格子梁の重厚な屋根スラブとモニュメンタルな鉄骨柱によって構成された、まさに現代の神殿とでも呼ぶべき建築である。この建築においてミースは、師のベーレンスを通り越し、18世紀の新古典主義の建築家カール・フリードリヒ・シンケルヘと回帰したのだといってよい。

バックミンスター・フラーのシナジェティックス
「建築家の美学」に「技師の美学」を引き寄せたル・コルビュジエやミースとは対照的に、「技師の美学」を突きつめることによって「建築家の美学」を変革したのがバックミンスター・フラーである。
フラーはアメリカ人であり正式な建築教育を受けなかったため、ヨーロッパの建築的伝統にとらわれることがなかった。それでも1920年代のモダニズム運動に触発されて、彼はいくつかのプロジェクトを提案している。彼は世界中に運搬・建設が可能な建築を実現するには、工業化を通じた軽量化が最重要課題だと考えた。ル・コルビュジエの提唱する「住むための機械」に触発されて設計したダイマキシオン・ハウス(1929)は、中心に圧縮支柱を持つ六角形平面で、外周を引っ張り材によって固定されている。圧縮材と引張材を組み合わせた軽量構造は、当時の飛行船の張力構造に影響を受けたもので、その後のフラーの主要モチーフとなる。設備配管類は中心の支柱まわりに集められ、外装はアルミニウム合金であるジュラルミンによって覆われている。この住宅は計画案に終わったが、その後もフラーはこの住宅のシステムを改良し、銅板をプレス加工しメッキ仕上げを施したダイマキシオン浴室(1937)の原寸大モックアップを製作している。一体成形による浴室ユニットの考え方は、第2次大戦後、材料はプラスチックに変わったが世界中に普及する。
フラーは「建築は社会のために貢献すべきである」というモダニズムの思想には共鳴したが、モダニズムのデザインに対しては批判的だった。その理由はモダニズム・デザインが技術や機能を追求すると主張しながら、無意識のうちにスタイルを優先していたからである。フラーはモダニズム建築の中に隠されている伝統的な美学に気づいていたわけである。
バウハウスがアメリカにもたらしたインターナショナル・スタイル(国際様式)について、フラーはこう評している。これは近代建築における技術と表現の乖離を鋭く抉り出している。

バウハウスの革新者たちによってアメリカにもたらされた「国際様式」は、構造力学や化学の科学的基礎知識の必要もなく流行の移植を誇示した。したがって国際様式の「単純化」というのは、表面的なものにすぎなかった。それはきのうの外面装飾をひきはがし、その代わりに、捨てられたボザールに外飾を可能にさせたのと同様の近代的合金の隠れた構造的要素によってつくりあげられた疑似-単純性という儀式ばった新奇の衣をまとわせただけのことであった。それは結局ひとつのヨーロッパ服であった。(中略)バウハウスも国際様式も標準の配管設備を使用し、思い切ってやったことといえば、管の把手や栓の表面とか、タイルの色、サイズ、配管を変えるよう製造業者にすすめたぐらいであった。国際的バウハウスは配管を見るために壁の内側を調べたことはなかった。(中略)かれらは衛生設備それ自身の全体的問題を探求したことなどなかった。(中略)要するに、かれらは最終製品の表面上の変様の問題を見ているだけのことだった。ところがこの最終製品というのは、本来、技術的に遅れた世界の補助機能にすぎないものだったのである。
『第一機械時代の理論とデザイン』 レイナー・バンハム:著
石原達二+増成隆志:訳 原広司:校閲 鹿島出版会 1976

フラーのヴィジョンは科学とそれにもとづく技術によって世界を変えることだった。したがって彼の興味は建築に限らず技術の生産物すべてに及んだ。彼は航空機の技術を応用したダイマキシオン・カー(1933)を発明しシカゴ万博に出品したが、その性能の高さにもかかわらず技術的問題から生じた事故によって開発は失敗に終わった。第二次大戦中にフラーはダイマキシオン展開型ユニット(DDU 1940-41)を開発している。これは波形鉄板を円形に加工して大量生産された穀物貯蔵庫を住宅に転用した住宅で、戦時中の緊急宿舎として大量に使用された。終戦後にフラーは戦時中の航空機産業の技術転換として住宅産業を提案し、航空機技術を応用したダイマキシオン居住装置(ウィチタ・ハウス1945)を開発している。これは既存の住宅概念とはまったくかけ離れた革命的な工業化住宅だった。この住宅において、初めてエネルギー技術が取り上げられたことは注目されてよい。この住宅がサステイナブル(持続可能な)デザインのパイオニアだといわれるのは、その点においてである。しかしこれほど革命的な住宅ではあったが、開発は最終的に頓挫する。フラーはこの住宅の開発、生産、販売のために会社を設立し、実際に37000戸あまりの注文があったにもかかわらず、さらなる改良を主張し、本格的な生産を承認しなかったからである。しかしながら現在においても、技術革新と工業化を住宅産業に適用した点において、この住宅を越えるような試みは出現していない。
第二次大戦後のフラーの活動は建築から大きくはみ出していくが、彼の活動がもっともめざましく展開したのはジオデシック(測地線)ドームの開発においてである。その集大成ともいえるのがモントリオール万博アメリカ館(1967)である。これはスチール製の星形テンスグリティ(完全張力構造)トラスで構成した直径76mのドームに、透明なアクリルをはめ込んだ単純明快なパヴィリオンで、これは彼が生涯を通じて主張した「最小限の構造体で最大限の空間を包み込む」技術を 世界中に知らしめた。こうしたフラーの主張は「エフェメラリゼーションの原理」に集約されるだろう。エフェメラルとは「蜉蝣のような」という意味である。マーティン・ポーリーはそれをこう定義している。

それ(エフェメラリゼーションの原理)によれば、より少ないものから、より多くのものを得る工夫の積み重ねは、一つの機能を他の機能に組み入れて統合していき、その結果として、それはついには蜘蛛の糸のように繊細で、しかも鋼鉄のように強靱な多機能のドームが、これまで建築、建設、美学というように分離されていた「文化」にといって変わるような現象が起こるのである。
『『バックミンスター・フラー』マーティン・ポーリー:著 
渡辺武信+相田武文:訳 鹿島出版会 1994

エフェメラリゼーションとは、技術革新を通じた機能の集積化と軽量化によって、最終的に技術と表現が統合されるという原理である。この考え方は、表現の自律性を認めていないために、建築家にはほとんど受け入れられなかった。フラーの思想は、ポストモダニズムが勃興する1970年代にはまったく省みられることがなかった。しかし1980年代以降になると、技術的表現を追求するハイテック建築によって再評価され、さらにその展開型であるエコテック建築やサステイナブル・デザインへと受け継がれていく。
晩年のフラーは、アインシュタインの相対性理論を幾何学的に再解釈し、自らの技術論をシナジェティックスと名づけた宇宙論的幾何学へと展開させた。シナジェティックスとは、原子レベルのシステムが社会的・文化的システムへと統合され、さらに宇宙システムへと拡大されていくシステム生成のプロセスについて研究する学問である。小さなシステムから大きなシステムがうみ出されるプロセスを追求する点において、シナジェティックスは明らかに創発的な階層システムをめざしている。しかしながらフラーは、社会・文化レベルのシステムは宇宙論的な物理システムに還元できると主張し、それぞれの階層の自律性を認めなかった。文化や政治の問題は、すべて物理的な技術によって解決できるという考え方は一種のテクノクラシー(技術至上主義)である。しかしながら技術の階層が異なれば、そこではたらく論理や法則も異なる。ある階層を他の階層に還元しようとすれば、必ず矛盾が生じる。
たとえばフラーが発明したジオデシックドームは、宇宙を構成する基本単位である正四面体を組み合わせたもっとも効率的な構造である。空間に方向性が存在しない原子スケールと宇宙スケールにおいては確かにもっとも効率的な構造となるが、重力によって上下の方向性が存在する中間的な地球スケールにおいては、必ずしもそうではない。生物の進化や文明の発展は重力のなかで展開してきた。生物の身体や文明のシステムには、なんらかの形で重力による空間の方向性(建築的無意識)が埋め込まれ、人間の空間感覚や思考の構造を支配しているだろう。建築や都市は、そのような論理と法則にもとづいて建設されてきた。ジオデシックドームは宇宙的な普遍性を持っているが、地球上の建築や都市にうまく適合しないのは、その原理が技術の階層性からずれているからである。
とはいえ、技術の進展が建築を変えるというモダニズムの教義を極限まで推し進めて見せた点において、フラーのエフェメラリゼーションやシナジェティックスの考え方は、古典的な建築概念を引きずりつづけたモダニズム建築に対する強烈な批評になっている。技術の階層性の中に適切に位置づけることができれば、フラーの思想は現在でも十分通用する可能性を持っていることは間違いない。

遊戯的技術と歴史
ベンヤミンが提唱した二つの技術、「目的的技術」と「遊戯的技術」から、技術の階層性が導出された。そして技術の階層性は、技術と美学の相互作用という形で、近代建築の歴史にも見出されることが明らかになった。では、現代建築における遊戯的技術とは、一体どのような技術なのだろうか。
ベンヤミンは、遊戯的技術をもっとも有効に駆使するのは近代芸術であり、その典型的なジャンルは映画であると主張した。ベンヤミンが映画に注目したのは、モダニズム建築が興隆する1920年代である。映画はさまざまな技術によって支えられているが、最終的な成果は映像(と音)である。映像はモノではなく記号であり、そのはたらきは何らかのメッセージを伝えることにある。文字や絵画も同じような記号だが、映画はより複雑な階層性の高い技術によって支えられている。映像によるメッセージの伝達が主要な機能である点において、映画はポストモダンの時代において爆発的に進展した情報技術(IT)の原型となった。
遊戯的技術はITにおいてもっとも明確な形をとるように思われる。ITの原理はすべてを記号化する点にある。たとえば『形の合成に関するノート』においてアレグザンダーが示した「デザインプロセスの3段階」を想起してもらいたい。そこで彼はすべての条件を記号化し、その内部構造を明らかにすることによって、形を合成する方法を提唱した。これは典型的なITの方法である。ITにおいては、すべての対象を一旦記号化し、記号化された現実のモデルを構築する。記号の操作能力が大きければ大きいほど、現実の精緻なモデルが得られる。記号化によって現実の構造をモデル化し、その挙動を探る作業をシミュレーションという。シミュレーションは記号化によって現実との直接的な結びつきを絶たれた、一種のゲーム(遊戯)だといってよい。ポストモダンなITが遊戯的技術であるのは、このような意味においてである。
現実を記号化し、計算可能なモデルに構築できさえすれば、どのように複雑なモデルであっても、原理的にはシミュレーション可能である。最近ではコンピュータの小型化・高性能化によって、誰にでも複雑なモデル化とシミュレーションが可能になった。しかしモデルがいくら複雑で精巧であっても、シミュレーションが保証しているのは、記号操作の精確さと論理的一貫性だけである。建築や都市のデザインにおいては、シミュレーションの結果を最終的に現実に結びつける必要がある。記号化とモデル化の実効性を確かめるには、技術の階層を下り、記号化・モデル化と現実の構造の対応を検証しなければならない。
遊戯的技術は階層化された技術である。モダンな目的的技術は自然の物理的階層を対象にしていた。ITに代表されるポストモダンな遊戯的技術は、目的的技術を内部に取り込みながら、記号化した情報を対象にしている。物理的階層も情報の階層も、それぞれ自律的なサブシステムを形成し、一方を他方に還元することはできない。このように遊戯的技術が世界の階層性に対応しているのだとしたら、技術の階層性の限界はどこにあるだろうか。おそらくその限界は、世界の不連続な階層性をうみ出した創発的な時間、すなわち歴史にあるように思われる。歴史を対象とするとき、技術の階層性は完結する。歴史の法則が明らかになれば、それを意識的に適用する技術が可能になるだろう。ダーウィンは自然史の中に進化論という法則を見出そうとし、ヘーゲルやマルクスは人類の歴史の中に法則を見出そうとした。しかしながら現在では、歴史の法則を見出すことは原理的に不可能であることが明らかになっている。創発的な時間は一回性で不可逆だからである。
過去の歴史に法則を見出すことは可能だが、それを未来に適用することはできない。したがって歴史は技術の対象にはなり得ない。技術の進展それ自体が歴史の中に置かれている。とはいえ遊戯的技術の可能性の中心は、可能な限り現実を記号化・モデル化し、シミュレーションをくり返すことによって創発的なデザインをうみ出すところにある。そのためにはまず、現実を注視し、そこに潜む可能性を発見する眼を持たねばならない。

ベンヤミンは、未来を先取する直観力によって『複製技術時代の芸術』という予言的な論文を書いたが、同時に、都市空間に埋め込まれた歴史的痕跡を、繊細な注視によって抉り出した『パッサージュ論』という歴史書を著している。前者は注視する視覚が無意識的な触覚へと沈潜する構造を明らかにし、後者は都市空間に埋め込まれた大衆の夢の覚醒をめざしている。ハンナ・アレントの『過去と未来の間』に倣っていうなら、前者は政治家の立場であり、後者は歴史家の立場である。前者は未来へ向かい、後者は過去を向いている。モダニズムの建築家は、過去の歴史を否定し未来へ向かった。彼らにとって、過去は克服すべき桎梏に過ぎなかった。しかしこれからの建築家とって、新しい建築は既存の都市空間の上に、新たな層として重ね合わせられるものである。このとき過去の歴史は、微細な眼を通して読み取られるべき条件となる。ベンヤミンが提示した遊戯的技術論と歴史観は、そのための壮大な可能性を暗示している。(完)

 

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