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現代建築におけるテクノロジーとデザイン:ITがもたらすデザインの社会化

難波和彦

資本の世界的浸透がもたらしたグローバリゼーションは、建築デザインを大きく変え始めている。グローバリゼーションは、情報技術(IT)の高度化に支えられている。建築も例外ではない。高度なITは、一方で建築デザインの情報化をもたらした。すべてのデザインはイメージ化され、商品化されて世界中に流通している。高度なIT技術によって、お金さえかければどのようなデザインも可能になったのである。他方で、IT技術は、高度な環境制御技術をうみ出した。地球環境と都市・建築のデザインの関係に注目するサステイナブル・デザインは、高度な環境制御技術抜きには成立しない。現代の建築デザインは大きく2極に分解しているように見える。

このような建築デザインの大きな潮流を理解するには、テクノロジーが爆発的に進展した19世紀以降の近代建築の展開を振り返ってみる必要がある。ヨーロッパにおいて工業技術が急速な発展を遂げるのは19世紀である。18世紀に英国で始まった産業革命は、19世紀になるとヨーロッパ全体に浸透し、社会構造を急速につくり変えていった。しかしながら19世紀の建築家たちは、社会の急速な変化について行けず、建築デザインは過去の歴史様式のリバイバリズムをくり返していた。ニコラス・ペヴスナーは、19世紀を「建築家が自信を失った時代」と評している。一方、エンジニアは過去の様式にとらわれることなく、つぎつぎと新しい建造物を生み出していった。1851年にロンドンで開催された世界初の世界博覧会の会場となったクリスタルパレスや、1879年にパリで開催された世界博覧会のモニュメントとして建設されたエッフェル塔が、その代表例である。ル・コルビュジエが『建築をめざして』でいったように、19世紀は「技師の美学」の時代だったのである。
1914年から1918年まで続いた第1次世界大戦は、ヨーロッパの社会構造を根底から覆し、人々の世界観に革命的な変化をもたらした。「精神の危機」(ポール・ヴァレリー)は建築家の思想や感性にも大きな影響を及ぼした。第1次世界大戦後の1920年代に勃発するモダニズム・デザイン運動は、こうした世界観の変化を受けて、新しい社会構造にふさわしい新しい建築表現をうみ出そうとする運動だった。同時に、第1次世界大戦を通してテクノロジーが巨大な進歩を遂げたことも忘れてはならない。コンクリート、鉄骨、ガラスを中心とする新しい工業材料が本格的に建築に取り入れられるようになったのも、この時代である。
しかし第1次世界大戦の戦後処理の失敗によって、モダニズムの時代は長くは続かず、1930年代末に再び第2次世界大戦が勃発する。第2次世界大戦は1945年に終結するが、この戦争によってヨーロッパ社会は疲弊し、指導力をアメリカとソ連に譲り渡すことになった。冷戦時代の始まりである。ソ連は一国社会主義をめざし、建築デザインにおいてはモダニズムに対して反動的な方針をとったため、戦後の建築デザインは完全にアメリカに先導されることになる。このときアメリカが行ったのは、モダニズム・デザインをマニュアル化し、強大な資本と工業生産力を背景にして世界中に浸透させることだった。国際様式(インターナショナル・スタイル)の誕生である。これによって世界中の大都市に、コンクリート、鉄、ガラスによる箱形のビルが林立することになった。
1960年代の後半になると、テクノロジーの進展に対する幻想が徐々に崩壊し、モダニズムに対する反省が叫ばれるようになる。テクノロジーの急速な進展が公害をもたらし、貧富の格差を拡大することが明らかになったからである、さらに1970年代初めには、第3世界の石油産出国の台頭によってオイルショックが勃発し、ヴェトナム戦争の敗戦を通じてアメリカ経済にも陰りが見られるようになった。こうした潮流を受けて、全世界でモダニズム・デザインの均質性や反地域性に対する反省が叫ばれるようになる。そこから生まれたのがポストモダニズムである。ポストモダニズムは1970年代から1980年代にかけて世界中を席巻した。それはテクノロジーの進歩に疑念を投げかけ、歴史的様式の再評価を前面に押し出した。その意味でロシア・アヴァンギャルドを再評価しようとしたデコンストラクショニズムもポストモダニズムのひとつの表れである。ポストモダニズムを通して、モダニズムは完全に歴史化されることになった。
ポストモダニズムの時代に、先進国のテクノロジーは新しい位相に突入する。重化学工業から情報テクノロジー(IT)への移行、すなわちハードテクノロジーからソフトテクノロジーへの転換である。ポストモダニズムのように、単にテクノロジーの進展を否定したのでは現代社会は成立しない。重要なことは、テクノロジーを効率化し、その進展を制御すること、バックミンスター・フラーの言葉を借りるなら「More with Less」なテクノロジーを開発することである。この時期にコンピュータの高性能化と小型化が急速に進み、建築デザインにおける工学的な解析・予測技術が急速な発展を遂げた。こうした背景のもとに出現したのが、複雑な構造・設備システムをストレートに表現したハイテック・スタイルである。ハイテックは建築テクノロジーのハードな表現をめざしているように見えるが、それを支えていたのは、むしろ複雑なモデル解析を可能にするITの普及である。ハイテックの嚆矢はパリのポンピドー・センター(1977)であり、それは1980年代から1990年代にかけて世界中に広がっていった。
1980年代末から1990年代にかけて、社会主義体制が一斉に崩壊し、冷戦が終結する。世界全体が資本主義化され、グローバリゼーションが急速に進展する。これに伴ってテクノロジーの拡大はますます加速化し、地球規模の環境問題を引き起こすようになった。世界各地で開催された環境サミットでは、全世界が共同でテクノロジーの進展を制御する必要性が提唱された。こうした動きを受けて、1990年代になるとハイテックはエコテックへと進化する。建築テクノロジーの中でも、目に見える構造・構法テクノロジーだけでなく、目に見えない環境制御テクノロジーを重視する方向への転換が進行する。21世紀に入ると、環境問題はさらに大きな視野で捉えられるようになる。単体の建築やエネルギー技術だけでなく、都市や歴史を視野に入れて環境問題にとり組む必要性が主張されるようになる。それがサステイナブル(持続可能な)デザインである。21世紀の課題は、サステイナブル・デザインを通して建築テクノロジーを総合化することになるだろう。

このようなテクノロジーと建築デザインの歴史的展開を、透徹した眼で明らかにしたのは、今は亡き建築史家レイナー・バンハムである。彼は『第1機械時代の理論とデザイン』(1961)において、テクノロジーの進展が近代建築のデザインに与えた役割を明らかにした。そして『環境としての建築』(1966)においては、これからの建築デザインにおける環境制御技術の重要性を先取した。30年後にマーティン・ポーリイはバンハムの史観を引き継ぎ『第2機械時代の理論とデザイン』(1991)を書き、1980年代のポストモダニズム時代におけるテクノロジーと建築デザインの関係を社会的な視点から論じた。そして2000年に英国で開催されたサステイナブル・デザインに関する会議の報告である『反機械時代における建築デザイン』(2001)では、21世紀におけるサステイナブル・デザインのあり方について様々な意見が紹介されている。このような建築デザインの歴史を通底しているのはテクノロジーの進展である。テクノロジーの重心はハードからソフトへと展開し、いまや人間を組織化するテクノロジーへと移行している。テクノロジーの対象が社会へと向かうことを通じて、建築デザインは今まで以上に社会的生産物としての重要性を増しているように思える。(了)

 

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