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『 清家 清』(『清家 清』編集委員会:編 新建築社 2006)書評 『建築技術』11月号

 

「ゆるやかなシステム」

 

清家清とは一度だけ会ったことがある。僕の大学院時代の師である池辺陽(1920-1979)が亡くなった直後に、池辺と清家の関係についてインタビューするため、植田實につれられて清家が主宰する(株)デザインシステムを訪ねた。清家と池辺は戦後モダニズムの住宅を先導した2人のプロフェッサー・アーキテクトとして「ダブル・キヨシ」と呼ばれていた。清家は池辺との建築観の違いを平面図と立面図になぞらえながら、「池辺はひたすら平面図を追求したが、僕は立面図の方に興味を持っている」と語った。なぜなのか問うたところ、清家はアトリエに勤める女性所員を呼んで、僕たちの前に立たせ「ほらね、女性は立面図の方がずっと重要だ。平面図は面白くないよ。」と煙に巻かれた。
もうひとつ忘れられない記憶がある。構造家・佐々木睦朗の協力を得て、下町のゼロメートル地帯に、地下室の浮力と上部構造の重量をバランスさせた超軽量の鉄骨造住宅をつくったとき、掲載された雑誌を見て清家から「実物を見たい」という連絡があった。僕は案内できなかったが、清家は一人で現場を訪ねたと聞く。月評を担当していた清家は、トリッキーな構造システムを見抜き「伽藍堂の住宅」と評した。
このふたつの想い出を反芻しながら本書に眼を通しているうち、いくつか気付いたことがある。ひとつは、清家は決して平面図に関心がなかった訳ではないということである。むしろ単純明解な平面図を追求しているといってもいいくらいである。しかし清家の平面図には池辺のような切り詰められたシステムは見られない。清家の平面図から浮かび上がるのは緩やかに漂う空間である。清家は空間の広さを、池辺のように動線やアクティビティからではなく立面図の比例から決めていたのではないか。だからこそ平面図の中にシステムに回収されないような「遊び」が生まれたのではないか。
もうひとつ気づいたのは、清家の作品に鉄骨造がきわめて多いことである。僕は戦後モダニズムの中で、鉄骨造を追求した建築家は池辺陽と広瀬鎌二くらいだと思っていた。清家がこれほど多くの鉄骨造の建築をつくっていたことは意外な発見だった。鉄骨造では構造のシステムだけでなく建築要素の構成がストレートに表現される。鉄骨造の特徴は明解なシステムの表現にあるといってよい。しかし本書で佐々木睦朗も指摘しているように、清家の鉄骨造には構造的合理性とは別のフォトジェニックな側面がある。清家は平面図と同じく鉄骨造においても、池辺や広瀬のようにシステムを突きつめることを良しとしなかったのではないか。
清家の平面図と鉄骨造に共通して見られるのは、ひとつのシステムを突きつめるのではなく、そこに別の要素を持ち込むことによってシステムを緩やかな状態に止めている点である。僕はそこにモダニズムの巨匠ミース・ファン・デル・ローエとの共通性を見る。アメリカに渡って鉄骨造のシステムを極めた後期ミースではなく、レンガ造からスタートしてバルセロナ・パヴィリオンとチューゲントハット邸において鉄骨造に到達した初期ミースである。林昌二は「私の家」の子供室の窓にチューゲントハット邸と同じメカニズムを見出し、藤岡洋保は「伊豆・三津シーパラダイス」にミースの弟子であるクレイグ・エルウッドとの共通性を見ているが、僕は「乃村工藝社東京社屋」とミースの「IIT校舎」に同じようなディテールへ拘りを見る。
清家と初期ミースに共通する緩やかシステムが、現代建築における二人の「可能性の中心」であることは言うまでもないだろう。

 

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