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『ディテール・ジャパン』2005年10月号別冊「世界の建築」所収

非物質化とサステイナブル・デザイン      

難波和彦 

序:グローバリゼーション
 建築デザインをテクノロジーの側面から見るとき、最近の建築に何か共通した傾向があるだろうか。工業製品とは異なり、建築は土地に結びつき、地域固有のコンテクストのもとに実現されるから、共通性よりも差異のほうが際立って見えるのは当然だと考えられている。にもかかわらず現在の最先端と見なされる建築には、何かしら共通性があるように見えるのはなぜだろうか。それはグローバリゼーションによって先端的なテクノロジーが世界中に浸透し、それが生み出す建築に対するデザイナー感性が、一種の同時代性を帯びているからではないだろうか。
モダニズムの時代にミース・ファン・デル・ローエは「建築家は世界精神を表現する」と宣言した。その時、彼の念頭にあったのは、近代テクノロジーに支えられた民主的な社会と、それにふさわしいユニバーサルな空間であった。現代の建築家はミースのような時代精神は持たないかもしれないが、世界中をネットワークするメディアは絶え間なく発信する新しい情報によって建築家たちを結びつけ、無意識のうちに世界精神のような感性を生み出しているかも知れない。その具体的な現れが、具体的な建築となって展開しているとはいえないだろうか。

本書には1995年から2005年までの最近10年間に完成した、世界でも先進的な建築のディテールが紹介されている。これらは現在の建築デザインをリードする建築家たちの作品である。グローバリゼーションによって世界中に資本が流動し、先進国相互の建築交流は急速に進んでいる。掲載された作品は、そのような国際的交流から生まれたものが多い。このような潮流の中で、世界の建築は現在どのような状況にあり、今後どのような方向に向かおうとしているのか。ここでは材料や構法などのテクノロジカルな側面に焦点を当てながら、現代の建築デザインを分析し、そのようなテクノロジーを支えている社会的背景についても考えてみたい。

現代建築の歴史的位相
 最近の建築デザインの潮流を理解するには、テクノロジーが爆発的に進展した19世紀以降の近代建築史を振り返ってみる必要がある。
ヨーロッパにおいて工業技術が急速な発展を遂げるのは19世紀である。18世紀に英国で始まった産業革命は、19世紀になるとヨーロッパ全体に浸透し、社会構造を急速につくり変えていった。しかし19世紀の建築家は、そうした社会の急速な変化について行けず、建築デザインは過去の歴史様式のリバイバリズムをくり返していた。ニコラス・ペヴスナーは19世紀を、建築家達が自信を失った時代だと評している。一方、エンジニアは過去の様式にとらわれることなく、つぎつぎと新しい建造物を生み出していった。1851年にロンドンで開催された世界初の世界博覧会の会場となったクリスタルパレスや、1879年にパリで開催された世界博覧会のモニュメントとして建設されたエッフェル塔が、その代表例である。ル・コルビュジエが『建築をめざして』でいったように、19世紀は「技師の美学」の時代だったのである。

1914年から1918年まで続いた第1次世界大戦は、ヨーロッパの社会構造を根底から覆し、人々の世界観に革命的な変化をもたらした。「精神の危機」(ポール・ヴァレリー)は建築家の思想や感性にも大きな影響を及ぼした。第1次世界大戦後の1920年代に勃発するモダニズム・デザイン運動は、こうした世界観の変化を受けて、新しい社会構造にふさわしい新しい建築表現をうみ出そうとする運動だった。同時に、第1次世界大戦を通してテクノロジーが巨大な進歩を遂げたことも忘れてはならない。コンクリート、鉄骨、ガラスを中心とする新しい工業材料が本格的に建築に取り入れられるようになったのも、この時代である。

しかし第1次世界大戦の戦後処理の失敗によって、モダニズムの時代は長くは続かず、1930年代末に再び第2次世界大戦が勃発する。第2次世界大戦は1945年に終結するが、この戦争によってヨーロッパ社会は疲弊し、指導力をアメリカとソ連に譲り渡すことになった。冷戦時代の始まりである。ソ連は一国社会主義をめざし、建築デザインにおいてはモダニズムに対して反動的な方針をとったため、戦後の建築デザインは完全にアメリカに先導されることになる。
このときアメリカが行ったのは、モダニズム・デザインをマニュアル化し、強大な資本と工業生産力を背景にして世界中に浸透させることだった。国際様式(インターナショナル・スタイル)の誕生である。これによって世界中の大都市に、コンクリート、鉄、ガラスによる箱形のビルが林立することになった。

1960年代の後半になると、テクノロジーの進展に対する幻想が徐々に崩壊し、モダニズムに対する反省が叫ばれるようになる。テクノロジーの急速な進展が公害をもたらし、貧富の格差を拡大することが明らかになったからである、さらに1970年代初めには、第3世界の石油産出国の台頭によってオイルショックが勃発し、ヴェトナム戦争の敗戦を通じてアメリカ経済にも陰りが見られるようになる。こうした潮流を受けて、全世界でモダニズム・デザインの均質性や反地域性に対する反省が叫ばれるようになる。そこから生まれたのがポストモダニズムである。ポストモダニズムは1970年代から1980年代にかけて世界中を席巻した。それはテクノロジーの進歩に疑念を投げかけ、歴史的様式の再評価を前面に押し出した。その意味でロシア・アヴァンギャルドを再評価しようとしたデコンストラクショニズムもポストモダニズムのひとつの表れである。ポストモダニズムを通して、モダニズムは完全に歴史化されることになった。

ポストモダニズムの時代に、先進国のテクノロジーは新しい位相に突入する。重化学工業から情報テクノロジー(IT)への移行、すなわちハードテクノロジーからソフトテクノロジーへの転換である。ポストモダニズムのように、単にテクノロジーの進展を否定したのでは現代社会は成立しない。重要なことはテクノロジーを効率化し、その進展を制御すること、バックミンスター・フラーの言葉を借りるなら「More with Less」なテクノロジーを開発することである。この時期にコンピュータの高性能化と小型化が急速に進み、建築デザインにおける工学的な解析・予測技術が急速な発展を遂げた。こうした背景のもとに出現したのが、複雑な構造・設備システムをストレートに表現したハイテック・スタイルである。ハイテックは建築テクノロジーのハードな表現をめざしているように見えるが、それを支えていたのは複雑なモデル解析を可能にするITの普及なのである。ハイテックの嚆矢はパリのポンピドー・センター(1977)であり、それは1980年代から1990年代にかけて世界中に広がっていった。

1980年代末から1990年代にかけて、社会主義体制が一斉に崩壊し、冷戦が終結する。世界全体が資本主義化され、グローバリゼーションが急速に進展していく。これに伴ってテクノロジーの拡大はますます加速化し、地球規模の環境問題を引き起こすようになった。世界各地で開催された環境サミットでは、全世界が共同でテクノロジーの進展を制御する必要性が提唱された。こうした動きを受けて、1990年代になるとハイテックはエコテックへと進化する。建築テクノロジーの中でも、目に見える構造・構法テクノロジーだけでなく、目に見えない環境制御テクノロジーを重視する方向への転換が進行する。

21世紀に入ると、環境問題はさらに大きな視野で捉えられるようになる。単体の建築やエネルギー技術だけでなく、都市や歴史を視野に入れて環境問題にとり組む必要性が主張されるようになる。それがサステイナブル(持続可能な)デザインである。21世紀の課題は、サステイナブル・デザインを通して建築テクノロジーを総合化することになるだろう。

以上のような歴史的視点を踏まえながら、最近の建築デザインの潮流を読み取ってみよう。

プログラム:フレキシブルなプログラムと歴史との対話
 まず建築をうみ出す社会的背景と、それがもたらす建築のプログラムについて考えてみよう。新しい建築デザインの背景に、資本の世界的な流動化とグローバリズムがあることは明らかである。先進的な建築家たちは国内だけでなく国外でも活発な活動を展開している。本書で紹介されている建築にも、そのような事例が多数見られる。国家相互の政治的境界は、現在でも明確に存在するが、EUのように経済的境界は全世界的に消失し始めている。これによってかつてのような国家的モニュメントとしての建築の意味も消失する。ナショナリズムの表象としての建築の時代は完全に終わったといってよい。それ代わって出現したのは、資本の流動性と民主的な政治形態を連想させる透明で軽快な建築である。その傾向は、掲載された作品全般に読み取ることができるだろう。グローバルな資本が生み出す建築においては、要求される建築的性能はますます高度化・複雑化していく。しかし他方では、資本の流動性は固定したプログラムではなく、フレキシブルなプログラムに対応できる空間を求めるようになる。性能の高度化とプログラムのフレキシビリティという矛盾した要求をいかに両立させるかが、現代建築の大きな課題のひとつだといってよい。伊東豊雄のMedia Centre in Sendai (せんだいメディアテーク)は、チューブ構造の鉄板スラブによって、均質な空間に揺らぎを発生させ、プログラムのフレキシビリティに対するひとつの解答を示している。

プログラムにおけるもうひとつの大きな課題は「歴史との対話」である。現代では過去の記念建築物だけでなく19世紀以降の近代建築も歴史的建築と見なされるようになった。近代建築は近代という歴史の記憶として保存すべき対象となったのである。さらにサステイナブル・デザインの視点からは、大量の産業廃棄物を排出するスクラップ&ビルドに代えて、既存の建築的ストックを現代的に再生するリノベーションやコンバージョンの方法が模索されるようになった。「歴史との対話」とは、過去のデザインに現代のデザインを重ね合わせる「時間のデザイン」である。ノーマン・フォスターのConversion of Reichstag Building into German Bundestag in Berlin(ドイツ連邦議会議事堂)はその模範的な例である。この建築では、歴史的建築物が保存され、新生ドイツの議事堂へとコンバージョンされているだけでなく、歴史博物館を納めたガラスのドームを議事堂上部に設置することによって、民主主義が市民の元に存在することを明示し、ファシズム・ドイツの記憶の保存とその克服を建築的に宣言している。さらにこの建築では、徹底した省エネルギーシステムが実現されていることも付け加えておこう。ヘルツォーク&ムーロンのTate Modern in London(テート・モダン)は、かつての発電所を美術館にコンバージョンした建築である。発電所の巨大な空間を生かしながら、そこに必要最小限の手を加えることによって展示空間に用途変更した手法は、歴史との対話が単なる保存ではなく、高度なクリエーションとなり得ることを例証している。

空間:スーパーフラット、場としてのランドスケープ、非物質化、
 現代建築はル・コルビュジエがかつて言ったような「光の下での幾何学的形態の戯れ」であることをやめ、柔らかな揺らぎを湛えた「場」のような空間に変容している。そこには光と影のコントラストはほとんど見られない。現代に生きる人々の感性は、中心性や軸性を持ったモニュメンタルな空間を避け、抑揚の少ない軽快で透明な空間、つまり「スーパーフラット」な空間を求めている。これは現代建築がプログラムのフレキシビリティを備えた均一な場を追求していることにも一因があるだろう。あるいは資本の流動や民主主義社会が、すべてを平準化しディスクロージャーしようとする傾向の表れかもしれない。たとえばレンゾ・ピアノのDepartment Store in Tokyo(メゾン・エルメス)は外装をすべてガラスブロックで覆った建築である。その室内は都心の喧噪から切り離され、ガラスブロックを通した柔らかな光が溢れる無重力空間である。あるいはヘルツォーク&ムーロンのPrada Aoyama Epicentre in Tokyo(プラダ・ブティック青山店)は、外形は明確な輪郭を備えているが、菱形の構造システムと歪んだガラス面によって、場としての内部空間をつくり出している。

現代建築に共通してみられるのは、オブジェとしての形態を消し、場のような空間をつくり出すことである。場としての空間には輪郭がない。輪郭のない建築はランドスケープ(風景)としての存在である。そこでは人々のアクティビティもひとつの風景となる。ドミニク・ペローのCycling Stadium in Berlin (オリンピック・ヴェロドーム)は明確な幾何学的形態を持っているが、半ば地中に埋められることによって輪郭の見えないランドスケープと化している。山本理顕のUniversity in Saitama(埼玉看護大学)は平面だけでなく上下方向にもグリッド・システムを徹底させることによって、建物全体をランドスケープ化している。ジャン・ヌーヴェルのCultural and Congress Centre in Luzern (ルツェルン文化会議センター)はプログラムに対応した空間を広大な屋根で覆うことによって、その下の空間をランドスケープ化している。SANAAのMuseum in Kanazawa(金沢21世紀美術館)は明快な円形平面を持っているが、外周をすべて透明なガラス面とし、軒高を低く抑えることによって円形平面の全体像を消し、室内にランドスケープのような場をつくりだしている。

軽快で透明な空間に向かう潮流は、近代建築初期に端を発している。近代建築の歴史はその展開過程だったといっても過言ではない。しかし初期近代建築の建築家たちは、そのような潮流を押しとどめようとした。たとえば温室技術者ジョセフ・パクストンが設計したクリスタル・パレス(1851)は鉄とガラスだけでできた建築であり、その透明で軽快な空間は当時の古典的な建築家たちの感性を逆撫でした。ゴットフリート・ゼンパーは近代建築への道を切り開いた建築家のひとりだが、彼はクリスタル・パレスを「非空間」あるいは「ガラスで覆われた真空」と呼び、建築はもっと重厚でなければならないと評した。当時の建築家の感性にとって、クリスタル・パレスは物理的にあまりに軽く、空間は透明であり過ぎたのである。あるいはモダニズム・デザイン運動を先導したバウハウスの初代校長ワルター・グロピウスでさえも、鉄骨構造においては構造計算によって決定される部材サイズが美学的に見ると細すぎるので、もっと太くしなければならないと主張した。このように近代建築には軽くて透明な空間に向かう傾向がある。建築ジャーナリストのユリウス・ポーゼナーはその傾向を「非物質化」と名づけた。それは近代建築を支えた新しい材料、すなわちコンクリート、鉄骨、ガラスが可能にした潮流である。非物質化に建築的な論理を与えたのがミース・ファン・デル・ローエであることはいうまでもない。彼は鉄とガラスの建築に古典的な秩序を与え、近代建築を伝統的な建築に結びつけた。
現代建築においても、非物質化は止まることなく進行している。非物質化は建築だけでなく、あらゆるデザイン・ジャンルに見られる傾向である。1980年代にフランスの哲学者ジャン=フランソワ・リオタールはポンピドー・センターにおいて「非物質展」という展覧会を開催した。その展覧会に出品した建築家のひとりがジャン・ヌーヴェルである。彼の一連の建築は非物質化に正面から取り組んだ作品である。Foundation Cartier in Paris(カルティエ財団ビル) はその代表的な作品だといってよい。

非物質化は鉄骨とガラスによって可能になった傾向だが、単層のガラス面では室内と外部を仕切るための十分な性能を確保できない場合が多い。現代建築では、その問題に対して、要求性能に対応した複数の柔らかな外装皮膜を重ね合わせる多層皮膜の方法が採られる。ダブルスキンはその典型的な例である。重厚な一枚の壁や屋根ではなく、多層皮膜による解決法は、非物質化を進めながら、建築に求められる高度な性能を達成するための手法だといってよい。建築史家のコーリン・ロウは、近代建築の透明性について論じた論文『透明性?虚と実』において、物質的な「実の透明性」と知覚的な「虚の透明性」とを対比させた。現代建築の多層皮膜が生み出す透明性は、そのどちらでもない「半透明性」とでも呼べる傾向を示している。こうした傾向は、レンゾ・ピアノのMuseum of Art(バイエラー財団美術館) 、ラファエル・モネオのCultural and Congress Centre in San Sebastian(サン・セバスティアン文化会議センター) 、アルマン・サットラー・ウアツのChurch of the Sacred Heart in Munich(イエスの聖心教会)、FOAのHotel in Groningen(ブルームーン・ホテル) などに見ることができる。

テクノロジー:工業化・エフェメラリゼーション・環境制御技術
 近代建築の非物質化を実現したのはテクノロジーの進展である。非物質化はそれ自体が目的ではなく、テクノロジーの進展が必然的にもたらした空間の変容である。近代建築が建築の工業生産化を採り入れたのは、高精度で高性能な空間をつくるためであった。それが結果として軽くて透明な空間を生み出したのである。
建築は土地に結びついているために、近代以前にはその土地の材料を用いて建設されていた。しかし現代建築では、建築を構成する材料のほとんどが工業生産化・部品化され、現場に搬入され、組み立てられている。アルヴァロ・シザのCentre for Contemporary Arts in Santiago de Compostela(サンティアゴ・デ・コンポステーラ現代アートセンター)は、建築の工業生産化・部品化がどこまで進行しているかを知ることができる格好の事例である。この建築の外装には全面的に石材が使用されている。石の外装はヨーロッパの伝統的建築にはごく一般的に見られる。しかしこの建築では、石は外装材として完全に工業部品化され、乾式工法によってカーテンウォールのように取り付けられられている。石の外装にも非物質化は確実に浸透しているのである。

テクノロジーは最小限の資源によって最大限の機能を生み出す方向(More with Less)へと向かう。テクノロジーのそのような方向性をバックミンスター・フラーは「エフェメラリゼーション(短命化)」と名づけた。非物質化とエフェメラリゼーションは連動している。しかしエフェメラリゼーションには、空間の質だけでなく、多機能で高性能という条件が含まれている。近代建築の非物質化を推し進めた素材は、鉄、コンクリート、ガラスである。最近では、そこにアルミニウム、ステンレス、チタン、プラスチック、カーボンファイバーなどさまざまな新素材が加わってきた。エフェメラリゼーションに向かうテクノロジーには、そのような構造や構法のテクノロジーだけでなく、さらに環境制御技術が加わらねばならない。1990年代におけるハイッテックからエコテックへの転換のポイントはその点にあった。熱、光、空気、湿度などを対象とする環境制御技術は目に見えないテクノロジーである。それは建築の表現にストレートに結びつかない。しかし環境制御技術はいずれ間違いなく建築を変えるはずである。

結論:非物質化とサステイナブル・デザイン
 サステイナブル・デザインはテクノロジーの進展なしには成立しない。その意味で21世紀初頭に生まれたサステイナブル・デザインは、20世紀初頭に勃興したモダニズム・デザインと共通の基盤に立っている。両者はテクノロジーの進展を支えにして、エンジニアリングとデザインを融合させようとする点で共通している。テクノロジーの進展に支えられている以上、サステイナブル・デザインも非物質化とエフェメラリゼーションへと向かうだろう。しかしモダニズムを支えたテクノロジーがハードテクノロジーだったのに対し、サステイナブル・デザインを支えるテクノロジーはITを中心とするソフトテクノロジーである。それは単にモノをつくるのではなく、モノを通してソフトな「意味」をつくろうとする。すでに存在するモノの新しい機能や意味を発見しようとする。そこには歴史や都市のコンテクストに対する視点がある。そうした視点を踏まえながら、最小限の資源によって最大限の効果を生み出そうとするのがサステイナブル・デザインの目標である。

サステイナブル・デザインは必然的に矛盾をはらんでいる。テクノロジーに支えられたモダニズムの伝統を引き継ぐ以上、サステイナビリティを追求していけば、最終的にデザインの自己否定に至る可能性があるからだ。進展する現代のテクノロジーを積極的に活用するか、あるいはそれに疑問を投げかけるかによって、サステイナブル・デザインの方向性は大きく左右されるだろう。これはライフスタイルや社会的な価値観に関わる問題でもある。したがってサステイナブル・デザインは建築家やデザイナーの社会性を占うリトマス試験紙なのである。

モダニズムはテクノロジーによって支えられた建築表現の革命だった。ル・コルビュジエが『建築をめざして』でいったように、モダニズムが「技師の美学」をてこにして建築の表現革命をめざしたのだとすれば、サステイナブル・デザインにも同じような方向性があるのではないだろうか。省エネルギー、リサイクル、再利用、リノベーションとコンバージョンといった新しいエンジニアリングの追求を通じて、あるいは歴史や都市のコンテクストとの新たな協力関係を通じて、建築の表現を変えることができるのではないか。非物質化とエフェメラリゼーションを歴史や都市に結びつけること。サステイナブル・デザインの最終的な目標は、そこにあるように思える。

 

 

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