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「住宅の原体験 - 建築家が育った家」
 
『昭和住宅メモリー』所収 『HOME』 特別編集No5 2005年8月号

『近代と前近代のはざまで』

柳井の町家
僕の両親は終戦直後に結婚し、サラリーマンとして大阪に住んでいました。僕と弟が生まれて、親子4人の典型的な近代核家族でしたが、農地改革法が施行され、農業を営んでいた祖父が急遽、父を故郷に呼び戻し、僕が4歳の時に祖父母と一緒に生活することになりました。父の故郷は山口県の東端にある柳井という小さな町で、僕は子供の頃、祖父の農作業をよく手伝わされました。両親は嫌々故郷に帰った訳ですから、祖父の農業には一切手を出しませんでした。母は当時としては進んだ女性で、経済的にも自立していたから、祖父母との生活には馴染めませんでした。ぼくはそうした近代の二面性を見て育ったわけです。

瀬戸内海に面した柳井は室町時代からある小さな町で、今でも当時の古い商家が残っています。僕が育ったのは町の中心である古市から東に伸びる新市通りに面した町家です。新市は元禄時代に浅い内海を干拓してつくられた地区で、北に5分も歩くとすぐ山、南は10分くらい歩くと瀬戸内海に達する東西に細長い地区の名称です。この地区を東西に貫く新市通りは、長さが約500mあり、通りの南北に面する町家は、ほとんどが間口3間、奥行18間の「ウナギの寝床」です。新市という名前からも分かるように、通りに面した1階は店(見世)で、中央部が生活空間、一番奥は農作業の場所、その裏が水田という兼業農家の町家でした。
この町家に僕は4歳から18歳までいましたが、両親と弟2人、それに借家人家族が数人住んでいました。母親は仕事をしていましたから、家事の面倒を見る住み込みのお手伝いもいました。多いときで総勢10人くらい住んでいた記憶があります。祖父母は裏の離れに住んでいました。僕は弟たちと一緒に奥の棟の2階の和室にいましたが、高校に入ったとき、表の棟の2階座敷を与えられました。受験勉強に集中するために両親が独立した部屋をあてがってくれたのだと思います。僕にとって空間の原体験といえば、明らかにこの町家です。今でも時々2階の座敷や薄暗い階段の夢を見ます。

もう一つの原体験は師匠としての池辺陽の教えです。建築家としての僕のアイデンティティ形成にとって、住宅に限らず池辺の思想のすべてが決定的でした。池辺を通して僕は日本の近代化のあり方を学びました。僕の目にはいつも池辺と両親とが重なって見えていました。どちらにも近代の二面性が潜んでいたからです。

町家の改築
1970年代の終わり、僕が池辺研究室を卒業した頃に、両親が柳井の町家を取り壊したいといってきました。両親は住み始めた頃から、町家は前近代的で機能的でないと嫌っていました。確かに土間の台所はジメジメしているし、食堂と段差があり、冬は底冷えがしました。中庭はありましたが、住まいの和室や土間は昼間でも薄暗いのです。でも、なぜか僕はそういう町家の空間が好きでした。建具だけで部屋がつながり、ボーッと薄暗い感じが何ともいえなく心地よかったのです。僕の妻は東京生まれの東京育ちですけど、2階の座敷で寝たら座敷童が出たと言っていました。確かに欅板張りの天井を見ていると、木目がいろんな形に見えたのです。
両親はそういう町家を明るくて機能的な家に建て替えたいといってきたわけです。僕は取り壊すのではなく、街並を残しながら改築すべきだと両親を説得して、明るくて風通しのいい住まいに直すことを条件に改築することになりました。池辺が亡くなったのは1979年で、僕にとってその年は大きな境目ですが、町家の改装は池辺の死後にはじめて手がけた仕事になります。着色波型スレートの階段状の屋根を架け、吹抜で1階と2階をつなげ、光と風が抜けるようにしました。

新市地区は、表は都市ですが裏は村の延長でした。都市と田舎の中間というか、都市空間としては両方が併存しているのですが、人間関係はあきらかに農村共同体でした。1980年代に広島大学の建築学科の研究で、新市地区に住む人たちのアンケートをとったことがあります。その結果では、ここに住み続けたいと答えた人は一人もいませんでした。その理由を聞くと、町家は人付き合いが大変だという回答でした。では、どこに住みたいかという質問に対しては、山の上の一軒家に住みたい。山の上というのは町の北側の斜面を造成した新興住宅開発地で、東京の建売住宅みたい住宅がポコポコ建っていたんですけど、そこに住みたいという回答が大勢を占めていましました。
僕も町家の空間は好きでしたが、町家のコミュニティは苦手でした。幼稚園の頃から学校の成績や受験の噂などが飛び交うし、東京大学の受験に受かったときは地方新聞に出たりして大変でした。街を歩いても皆が僕の顔を覚えていて、挨拶をしないとすぐに「難波の倅は生意気だ」という噂が広まるのです。そういう陰湿な共同体が僕は大嫌いで、東京に来て初めて新宿の雑踏の中を歩いたとき、誰も気に留めないので本当に解放された気がしました。これこそ僕が生きる空間だと感じました。

東京の大学に来てしばらくは転々と下宿を変えましたが、1972年に結婚して妻の実家に住むようになりました。妻の両親が援助してくれて、住まいの一部を改築し、一室空間の住居をつくりました。さらに客間を改築して設計事務所にしました。敷地にゆとりがあったので、その後、事務所を増築し、以後25年くらい職住近接の生活を送りました。後で考えてみると、柳井の町家での職住近接の生活を反復していたことになります。
今度、この住まいを改造することになり、最初はリノベーションを考えたのですが、既存の木造住宅の構造があまりに脆弱で、やむを得ず新築することになりました。新しい建物も住まいと事務所が一体になった職住近接住宅ですが、敷地の条件もあって柳井の町家によく似た構成になりました。結局、原体験を逃れられないというか、歴史の反復を感じています。

住宅設計の目指すところ
町家で育った経験は、一つは細長い空間に対する愛着として、もう一つは職住近接に対する拘りとして残っています。仕事場と住まいの一体化は僕の原体験です。世界中の高密度な都市を調べてみると、職住近接の住宅が多いことが分かります。そんなことから僕は、高密でサステイナブルな未来都市、つまりコンパクト・シティの住まいは職住近接住居であることを確信するようになりました。

僕を含めて、多くの建築家が住まいに対する考えを、客観的な言葉で述べていますが、結局のところ自分の個人的な住体験を一般化しているだけではないでしょうか。建築家という人種は、個人的な意見を客観的な言葉に翻訳するのがうまいので、個人的な体験をいかにも社会現象のように言い換えているわけです。もちろん本を読んだり統計を調べたりして、自分の意見を検証してはいるのでしょうが、出発点は間違いなく個人的な住体験のような気がします。というか、そうでないと説得力というかリアリティは生まれないと思います。伊東豊雄さんや山本理顕さんが書いているものを読むと、自分の体験をうまく説明してるなあと感心します(笑)。逆に、評論家や社会学者が住宅について書いているものを読むと、自分の住体験とは無関係な単なる社会現象としてしか見ていないので、まったくリアリティを感じません。

「箱の家」をつくり続けていて強く感じるのは、僕の場合、住宅の設計は住宅というモノを通して一種の家族幻想を提供しているということです。クライアントはこれからの自分たちの生活をどうすればいいか、その方向をはっきりさせるような住宅を依頼しに来るのです。そういうクライアントに一室空間的な「箱の家」を提案することは、煎じ詰めると家族が一体であるという家族幻想を提案しているわけです。これは進行する家族の解体という現象に抵抗しているというか、明らかに現実に適合していないわけだから、社会学的に見れば間違いということになるかもしれない。既存の生活に合わせて家をつくる人もいるのかも知れませんが、「箱の家」のクライアントは生活を変えるために家をつくろうとします。家づくりには大なり小なりそういう面があると思うのです。現実に合わせて家をつくるという考え方は嘘じゃないかと思います。

「箱の家」には「箱の家版個室郡住居」というのがあります。これは家族のメンバーがそれぞれ自分のコーナーを持ちながら、なおかつ一室空間的な住居であるような「箱の家」です。僕は、家族は少しずつ緩やかな共同体になっていき、いずれは一種のアソシエイションというか契約的な共同体に向かうと考えています。契約関係で一緒に住みながら、誰かが倒れたら助け合うというような共同体です。つまり「箱の家版個室郡住居」は一戸建ての住宅でありながら集合住宅でもあるのです。高齢化社会には、そういう共同住宅が求められているのではないでしょうか。そういう幻想の共同体を含めて、少し先の住宅を提案していきたいと思っています。

2005年3月24日、東京大学難波研究室にて


難波和彦(なんば・かずひこ)1947年生まれ。建築家。「箱の家」シリーズを展開する。難波和彦+界工作舎 顧問、東京大学大学院教授。著書に『箱の家に住みたい』(王国社)、『戦後モダニズムの極北−池辺陽試論』(彰国社)、『難波和彦「箱」の構築』(TOTO出版)など。

 

 

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