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ギャラリー間 空間術講座19  佐々木睦朗「建築と構造のディスクール」レポート

難波和彦

僕の担当は磯崎さんがゲストである第3回のレポートだが、佐々木さんが3組4人の建築家とどのような対話を展開するのかに興味を持ったので、すべての回に参加した。ここでは全3回の対談を概観しながら、磯崎さんの回にスポットを当ててレポートし、最後にFLUX STRUCTUREの可能性について考えてみたい。

第1回 ゲスト講師:伊東豊雄 「ゆるやかな構築性について」
佐々木さんによれば、FLUX STRUCTURE(流動的構造)を追求するきっかけになった建築は「せんだいメディアテーク」である。コンペの際に伊東豊雄さんが描いたイメージ・スケッチはあまりにも有名だが、この建築に限らず、伊東さんの建築のイメージはもともと流動的である。「せんだいメディアテーク」の場合、それは緩やかにうねるチューブに象徴的に表れている。しかし佐々木さんは構造的な面で、直立するチューブとうねるチューブとの決定的な相違を明らかにすることができなかった。つまり伊東さんの流動的なイメージに合理的な根拠を与えることができなかったわけである。FLUX STRUCTUREに向けての佐々木さんの闘いはそこから始まった。
伊東さんの流動的な建築のヴィジョンは、論理やシステムを越えた建築へ向かっている。伊東さんはそれを「言葉を越えた建築」という。一方、佐々木さんは伊東さんのイメージに論理とシステムを与えようとする。それはイメージを現実につなぎ止めるために必要不可欠な作業なのだが、それ以上に佐々木さんにはデザインの構造的根拠を明らかにしようとする構造家としての倫理的な美学がある。その闘いの中から、流動的な建築を合理的に創成するFLUX STRUCTURE、すなわち「ゆるやかな構築性」が生まれた。伊東さんにとって、それは論理やシステムを越えた建築の可能性を示している。しかし佐々木さんにとって、それは1次元ステップアップした論理とシステムにほかならない。このように同一の建築的問題に対して、まったく逆の方向からアプローチしている点において、伊東豊雄×佐々木睦朗は、もっとも意外性のある生産的なコラボレーションとなった。その豊穣な可能性は、伊東さんが紹介するさまざまなプロジェクトに余すところなく現れている。

第2回 ゲスト講師:SANAA(妹島和世+西沢立衛)「身体性について」
SANAAの建築はミース・ファン・デル・ローエの延長上にあると佐々木さんはいう。ただしアメリカ時代の後期ミースではなく、ヨーロッパの時代とりわけバルセロナ・パヴィリオンやチューゲントハット邸の初期ミースである。初期ミースの空間は中心性やヒエラルキーがなく流動的だが、後期ミースの空間は古典的秩序を持ち、結晶のように硬質である。SANAAの建築には初期ミースの単純明快さ、非中心性、流動性をさらに昂進したイメージがある。評論家はそれをスーパーフラットと名づけた。佐々木さんはそのようなSANAAのイメージの可能性を探り出し、先進的な技術によってリアリティを与えようとする。SANAAに対する佐々木さんの役割は、イメージの潜在的可能性を発掘する考古学者のような立場である。初期の協働作品は鉄骨の繊細な分散構造による透明な空間であり、FLUX STRUCTUREというよりもFLUX SPACE(流動的空間)といった方がいい。その後、徐々に線が面へと移行し、最近のEPFLラーニングセンター(スイス)では、ついに床と屋根面が立体曲面、すなわちFLUX STRUCTUREへと変容した。しかしその曲面はなだらかで、表現性は最小限に抑えられている。おそらくSANAAがめざしているのはオブジェ性を消去した「場」としての建築、つまり身体的に体験される空間ではないだろうか。対話の中ではタイトルにある「身体性」という言葉は一度も語られなかった。しかしSANAAの建築の特異性は、概念からではなく、彼らの身体から発想されている点にあるように思える。

第3回 ゲスト講師:磯崎新 「リダンダンシーについて」
「リダンダンシー」とは一般には「冗長性」や「余剰性」を意味するが、建築においては構造の安全性に関わる概念として用いられている。リダンダンシーは関西大震災や9.11以降に、構造の多重な安全性を意味する言葉として構造家から提唱された。これからの構造物は適切なリダンダンシーを持たねばならないと佐々木さんは主張する。こうした背景の元に、佐々木さんは「最適化とリダンダンシー」という対立概念によってFLUX STRUCTUREの理論を説明した。
FLUX STRUCTUREの曲面形態は、初期条件として与えられた曲面形態から出発し、感度解析によるひずみエネルギーの最小化へと導くことによって生成される。その曲面形態の内部応力を均一にする方向に導いていくと最終的には、構造的には最適な形態だがリダンダンシーのない形態へと収斂する。FLUX STRUCTUREの自由曲面形態は、初期条件の設定の仕方に応じて、複数の回答へ収斂させることができる。それはリダンダンシーを持った一歩手前の限定された合理化だといってよい。佐々木さんによれば、適切なリダンダンシーを判断する客観的基準を探り出すことはこれからのテーマだが、少なくとも自由曲面によって構成されたFLUX STRUCTUREは、リダンダンシーを持った構造形態であることは確かなのである。
一方、磯崎さんはリダンダンシー概念を歴史的コンテクストから説明しようとする。磯崎さんは9.11の歴史的な位置づけからスタートし、ダニエル・リベスキンドのグラウンド・ゼロ・タワー案やピーター・アイゼンマンのデコン・スタイルを批判し、その上で、たとえばバックミンスター・フラーの理論のような極限的な合理主義理論による最適化の追求がリダンダンシーを浮かび上がらせるという主張を展開した。リダンダンシーの概念はモダニズムの延長上にあるという主張である。他方で磯崎さんは最近の遺伝学や免疫学を参照しながら、目標=マスタープランを掲げ、技術を動員して合理的に目標に到達するという近代的な計画理念に代わって、試行錯誤を通じて部分を積み上げて行く生成的・創発的なモデルを提唱し、それを可能にするのが過剰性=リダンダンシーであると主張した。生物科学の新しい展開が新しい計画モデルをもたらしたというわけだが、僕の考えでは、こうした磯崎さんの主張においては、最適化とリダンダンシーは対立概念というより、むしろ相補的な概念というべきだろう。磯崎さんのいう意味での過剰性=リダンダンシーは、合理化の残余として事後的にしか明らかにならないからである。社会や都市は無数の変数を持つので、最適な合理化など本来定義不可能なのである。
リダンダンシーに関連して、僕には磯崎さんにどうしても聞いておきたい疑問があった。リダンダンシーと「大文字の建築」の関係である。講演の後、磯崎さんにこの質問を投げかけてみた。その回答は「関係ないでしょう」だった。確かに「大文字の建築」を西欧に発する建築の形式概念としてとらえれば、リダンダンシーはそこから大きくはみ出した概念である。しかし「大文字の建築」にはもうひとつメタ建築としての意味すなわちconstructionの概念がある。とすれば磯崎さんもいうように「大文字の建築」の追求は最終的に決定不可能性に陥り、リダンダンシーを浮かび上がらせるという解釈が成り立つ。見方を変えれば、リダンダンシーとはdeconstruction概念でもあるのである。

FLUX STRUCTUREの可能性
最後に、3回の対話を通して感じたFLUX STRUCTUREの可能性について考えてみよう。
まず、構造設計の方法に関する可能性である。これまでの方法は、与えられた構造計画を構造解析によって検証し、それが所定の基準をクリアしているかを確認するという手順をとっている。この手順であれば、コンピュータを駆使した現代の解析技術は、自由曲面シェルであっても十分に解析できるレベルに達している。しかしこの手順には構造計画にまでフィードバックする回路はない。当初の構造計画の安全性を確認することはできても、力学的根拠を潜在的に保証するものではないから、代替案を示すことはできないのである。これに対しFLUX STRUCTUREは、全面的に構造計画にフィードバックし、コンピュータに形態を決定させようとする。概略的な初期条件は建築家と構造家が設定するが、最終的な形態は構造的合理性(歪みエネルギーの最小化)にもとづいてコンピュータが生成するのである。この方法によれば、構造計画は初期条件の設定に還元されることになるだろう。その時に問われるのは、建築家や構造家の建築的・構造的なセンスであり、いかに多様なオルタナティブを提案できるかという建築的ヴィジョンの豊かさである。

次に、自由曲面シェルの建築表現上の可能性について考えてみよう。初めてFLUX STRUCTUREを見たとき、誰もが奇妙な違和感を抱いたと思う。しかしワルター・ベンヤミンが『複製技術時代の芸術』でいったように、建築とは「慣れの芸術」である。僕が3回の講座すべてに参加したのは、自分の眼をFLUX STRUCTUREに慣れさせるためだった。その結果はっきり分かったことがひとつある。FLUX STRUCTUREには建築の原型を揺るがす可能性があるということである。建築理論家のジョセフ・リクワートは『アダムの家』の中で、建築には2つの原型があるといっている。「見出された洞窟」と「つくられたテント」である。前者は大地への回帰願望の表れであり、後者は大地からの飛翔願望の表れである。FLUX STRUCTUREは両者を合体させる可能性をもっている。それはつくられた洞窟であり、見出されたテントである。その意味では、今のところSANAAのEPFLラーニングセンターがFLUX STRUCTUREの潜在的な可能性を最も引き出しているといえるかもしれない。

最後に残されたのはFLUX STRUCTUREをいかに現実化するか、つまり施工の問題である。FLUX STRUCTUREの最大の問題点は、構造設計における先進性と施工方法における後進性の併存にある。FLUX STRUCTUREに対しては、視覚的な違和感よりも方法上の違和感の方が大きいかもしれない。この問題について佐々木さんは、現状が過渡的な段階であることを認めている。伊東さんはアイランドシティの公園施設の施工において、型枠工や配筋工がパソコンを片手に工事に携わっていることを報告し、新しい職人像の誕生を期待すると主張した。しかしそれはあくまで過渡的な施工法のように思える。僕の考えでは、FLUX STRUCTUREがコンピュータを駆使したデジタル(離散的)な方法によって生み出されたように、施工においてもデジタルな方法が追求されるべきだと思う。佐々木さんは、FLUX STRUCTUREの生成モデルは植物の成長プロセスにあるという。だとするなら施工方法も鉄筋コンクリートのようなアナログ構法ではなく、部品化・工業化された構造部材による離散的な構法に向かうべきではないだろうか。その時の最大のテーマは、構造部材そのものよりも、それらを相互につなぎ自由曲面を構成するフレキシブルな接合部のデザインである。(完)

 

 

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