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住宅建築2005年6月号 

生産・寸法・生活:難波和彦氏に聞く工業化・部品化の課題

MUJI+INFILL
無印良品の住宅の開発に当たって考えたのは、建築を構成する全ての部位において部品化、標準化を徹底し、より安く、より高性能にすることでした。まず考えたのはモデュールです。これは徹底させることできて、家具も含め全てがモデュールシステムにぴったり納まるし、天井高も収納棚の高さで決まりました。この点は成功したと思いますが、問題はコストと構法でした。不思議なことに、工場生産で耐力壁と断熱材と内部仕上げを兼ねたパネルを、現場に運んでフレームに張る構法よりも、在来の大工がすべて現場で施工した石膏ボードパテしごきペイント仕上の方が、コストが安いんです。住宅生産技術に詳しい南雄三さんは、材料を工場で部品化し、現場に運ぶ過程で、運ばれる度にモノが大きくなるし、マージンも上乗せされるから、流通と運搬の費用で高くなるのではないかと言っています。だから現地で採った木を製材して、そのまま使った方が安くできると。しかし木材の場合は国産材より外材の方が安いのだから、そうとも言い切れない。大工は多能工だし、見積りが甘いからなのか。それとも合板や石膏ボードは運営会社が大量に買い付けるから仕入れが安いのか。
結局、最初に建てたモデルハウスは、ほとんどの構法が現場作業になりました。部品化は、骨組み、バスユニット、枠廻りぐらいです。工業化、部品化という面においては、「箱の家」のシステムよりも後退してしまいました。
ただし、モノさえきちんとできれば良いというわけでもないのです。

人の問題
かつて工業化・部品化は、新しい技術を使って高性能で大量に安く造るという目標に対して様々な回答を出しましたが、基本的に良いモノを安くつくればいいという価値観で共通していたと思います。しかしユーザーにとっては、それと同等かそれ以上に、そこでどんな生活を送るかが重要なんです。かつては近代的な技術を住宅産業に取り込めば、近代的なライフスタイルが実現される。技術と生活は平行して進むんだというイメージがあったのだと思います。しかし一九七〇年代に消費社会になって、セキスイハウスM1がその典型ですが、何も内装せずにインフィルを相手に任せたとき、設計者のビジョンを共有しない営業担当者や理解しないユーザーは、自分の生活の仕方や欲望などを、その中にすべて盛り込もうとして、収拾がつかなくなってしまった。
この点はMUJI+INFILLの仕事でもヒシヒシと感じました。MUJIには、装飾がなくて性能の良いモノを使って生活しようというライフスタイルの提案があります。しかしユーザーは、間仕切りや壁の色など、色々なことを求めてくるわけです。そこに開発者としての僕がいれば説得できるけど、営業担当者は、一室空間という「箱の家」のライフスタイルの根拠を十分に理解していないから、ユーザーを説得することができない。すると当初のコンセプトから段々、後退していくわけです。要するに、工業化・部品化と商品化の決定的な違いは、モノや性能の違いというよりも、むしろ人間の問題なんです。それを売る人、買う人の理解の度合いによって、当初のコンセプトは単なる方便になり、何でもできる一つのバックグラウンドに過ぎなくなるのです。
たしかに良いモノを安くつくることは前提条件です。しかしそこで展開される生活と形の関係まで意識を共有できないと、工業化・部品化は成立しません。現代では、ライフスタイルの提案を取り込まないと、部品化、工業化は、商品化につながらないのです。

ライフスタイルを提案する
池辺陽が立体最小限住宅を設計した頃は、核家族が一室空間で民主的な生活を展開していこうという気概がありました。しかし現代は若い夫婦にとって家族のあり方が分からないから、結婚して子供ができたりすると、とりあえず一番単純な形に自分たちを置けば、家族らしきものができるんじゃないかと考える。つまり家族を繋ぎとめる最後の砦として、一室空間の「箱の家」に来るケースが増えました。ライフスタイルはそれから決めていくわけです。初期の頃の「箱の家」は。それなりに確立した家族のためにつくっていたのですが、50番ぐらいから逆転してきました。もちろんこれが普遍的な回答だとは考えていません。一室空間はかなり過激なライフスタイルの提案ですから、一般化するわけがない。ライフスタイル、生産方式、デザインを一体化させることは、ハウスメーカーはどこもやってないしできるわけがない。だから逆に言えば、僕はハウスメーカーにはなれないんです。
池辺陽による住宅の工業化が水廻り、特にキッチンに集中した理由は、一つは女性の解放、つまり民主化でした。キッチンを合理化すると、料理をする女性が住宅の裏から表に出て、一室の中で仕事しながら話もでき自立できると考えたわけです。それに水回りは人体寸法との関係が深いので、寸法を合理化しやすく、客観的な設計ができる。そして小さい空間にたくさんの価値を盛り込めるので工業化しやすく、コストパフォーマンスがいいんです。
池辺は1952年の『建築文化』に立体最小限住居と同時にキッチンレスキッチンというプロジェクトを発表しています。これはガラスの箱の中央に、丸いキッチンユニットがあるだけの住まいです。つまり未来の家族は夫婦ともに働くから、食べるものも外で買ってくる。冷蔵庫で食品を貯める必要がない。台所という部屋ではないキッチンを提案しているわけです。現代なら十分あり得ますよね。

生産の仕組みをつくり直す
建築家はどのレベルまで生産に関わるべきか。松村秀一さんは、建築の生産を素材、部品、構法という三つの段階に分けると、建築のデザインに決定的な影響を及ぼすのは、構法だといっています。構法のレベルで素材や部品をどう組み合わせるかを考えるべきだという主張です。その際、素材の性能をデータとして知っておくことは、もちろん大前提です。たとえば建築家の徳井正樹さんが提案したのは瓦自体というより、金属屋根と瓦でダブルスキンにするという構法だったわけです。
素材自体をつくる現場はとても面白いのですが、結局は、ジョイント、取付方法、他の材との取り合い、そういったレベルで、どう組み上げるかが勝負です。僕が構法の単純化に拘る理由の一つは、大工の腕が信用できなくなったからで、現場で専門の職人でなくともできるようなシステムにどんどんシフトしています。僕や伊東豊雄さん、山本理顕さんが関わっているアルミの住宅もそうです。鳶職がいれば、アルミのフレームは簡単に組み立てられます。
現在アルミの住宅はSUSというアルミ建材を製造販売している会社が、不二サッシと共同で施工していますが、いずれサッシメーカーもフレームも含めて独自に手がける可能性があります。これは鉄骨屋でもなく工務店でもない職種が住宅をつくる試みです。住宅生産の仕組みをつくり直すわけです。なかなか足を踏み込めない、しかし面白い領域です。

モデュールの自由な世界
池辺さんの考案したGM(ジェネラル・モデュール)は2進法に基づく寸法体系でしたが、とことん世の中の寸法体系とは合いませんでした。日本はいまだに寸と尺です。尺といっても30センチ、寸は3センチですが、パネルも3×6判、4×8判、3×9判ですから。セキスイハイムのようなトラックの大きさと道路に合わせた寸法では、既製品の寸法と調整が難しい。かといって、まったく新しい寸法体系を確立するのも難しいでしょう。
モデュールへの関心が薄れたのは、60年代、70年代に入って、モダニズムの培ってきたものをすべて否定する気運が高まったことと、一方で、ISO(国際標準化機構)で建築の世界的な標準寸法を決めようとして各国の寸法をすり合わせた結果、10センチという数字にしかならず、それで建築家の熱が冷めてしまったのかもしれません。
寸法システムを決めると設計が不自由になるとよく言われますが、それはまったくの嘘です。
たとえばル・コルビュジエが考案したモデュロールは、フィボナッチ数列によって黄金比に近い等比級数の数列を人体寸法に結びつけた寸法システムで、それが頭の中に入っていたから、ラ・トゥーレット修道院の波動式の窓割や、ロンシャン教会の窓の一見ランダムな配列ができたわけです。寸法システムは文法みたいなもので、複雑な文法を持っていると、言葉が幾らでも展開できるわけです。ただ、いちいち辞書を引くのではなく、頭に入っているからこそ、言葉が自然に出てくるわけで、何度も反復して繰り返していれば、使いこなせるようになるし、そこまで突き詰めれば自由が生まれるんです。あるルールを決めて、それをとことん突きつめない限り、本当の自由は生まれないと思います。

 

 

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