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『建築雑誌』2004年10月号特集「デザインとエンジニアリングの融合」
「技師の美学」と「建築家の美学」

デザインとエンジニアリングの関係について考えるとき、いつも思い出すエピソードがある。1989年の講演会で聞いた、今は亡きピーター・ライスの話である。ある高名な建築家が、レンゾ・ピアノとの共作であるメニル・コレクション美術館(1986 図1)について、次のような質問を投げかけた。
「この建築のデザインを特徴づけているのは、ダクタイル・アイアン(鋳鋼)のトラスとフェロセメントのリーフ(反射板)です。どちらも現代ではほとんど使われない特殊な技術ですが、どのようなデザイン・プロセスを経て、これらの技術を選定するに至ったのでしょうか。」
この質問に対し、ピーター・ライスは怪訝な顔をしながら、次のように答えた。
「ご質問の趣旨がよくわかりません。レンゾと私はダクタイル・アイアンとフェロセメントが好きだったので、いつか使ってみたいと考えていました。メニル・コレクションこそ、この技術に相応しいプロジェクトだと二人の意見が一致し、いかにうまく使うかをスタディしただけです。」
この二人のやりとりに、デザインとエンジニアリングの関係についての対照的な考え方を見ることができるだろう。前者の質問は、次のような技術観から発せられているといってよい。
「技術とは、人間実践(生産的実践)における客観的法則性の意識的適用である」
『弁証法の諸問題』(武谷光男:著 勁草書房 1968)
この定義によれば、科学が客観的法則を明らかにし、それを具体的な目的に適用するのが技術である。そして、目的としてのプログラムや空間に相応しい技術を選定するのが、デザインということになる。しかしピーター・ライスの発言からもわかるように、現実の技術は目的を実現するための単なる手段ではない。たしかに技術は客観的法則性なしには成立しない。しかし、それが明らかにされ意識的に適用されなくても技術は成立してきた。歴史的に見れば、むしろ技術の方が先行し、そこから客観的法則が明らかにされるといった方が正しい。上の定義は、結果から遡って見た事後的な技術観である。19世紀以降の近代建築の歴史が、それを証明している。

技師の美学:19世紀
ル・コルビュジエが『建築をめざして』でいったように、19世紀は「技師(エンジニア)の美学」の時代だった。そして「技師の美学」は、徹底して「建築家の美学」と対立していた。典型的な例が、水晶宮(1951設計:ジョセフ・パクストン 図2)である。この建築は、世界初の万国博覧会の会場としてロンドンのハイドパークに建設された。設計を担当したパクストンは、建築家ではなく温室技師であり、この建築もすべて温室の技術を用いて建設された。建築家の案を差し置いて彼の提案が採用されたのは、コストと工期を満足する構法が、彼の案以外に存在しなかったからである。水晶宮は一般市民には絶大な人気を博したが、建築家たちには一様に戸惑いと反発を持って迎えられた。ウィーンの建築家ゴットフリ?ト・ゼンパーはこの建築を見て「建築とはもっと重厚でなければならない」と評した。近代建築運動の創始者といわれるウィリアム・モリスは、工業部品によって組み立てられたこの建築を忌み嫌った。水晶宮はそれまでの建築に比べると、あまりに透明で軽すぎるために、建築家の感性を逆撫でしたのである。しかし現在から振り返ると、水晶宮には、その後の近代建築が追求することになるテーマ、すなわち工業化、部品化、システム化、工期短縮化、軽量化、多機能化、透明化といったテーマが、すべて集約されている。
1879年のパリ万国博覧会を記念して建設されたエッフェル塔(図3)についても同様である。エッフェル塔の建設を設計したのは、実業家でありエンジニアでもあったギュスタフ・エッフェルである。この塔には、構造力学だけでなく、エレベーター設備の面でも注目すべ技術革新が見られる。芸術の都パリに300mの高さの鉄塔を建てることに対し、パリ中の文化人と芸術家が反対した。エッフェルはそうした障害を乗り越え、さまざまな妥協を受け入れることで実現させた。当初は期限つきで解体が予定されていたが、紆余曲折を経て生き残り、今やエッフェル塔はパリにはなくてはならないモニュメントになっている。
19世紀は、急速に進展するエンジニアリング技術に、建築家の感性が追いつかなかった時代だったといってよいだろう。

初期モダニズム:20世紀初頭
第1次世界大戦後の1920年代に勃興するモダニズム建築運動は、「技師の美学」を「建築家の美学」に取り込む運動だった。19世紀以降の技術の急速な進展は。建築家の感性を確実に変容させていった。『建築をめざして』(1924)の中でル・コルビュジエは、当時の最先端技術である車とギリシア神殿を同列に並べ、両者が共通の目標、すなわち「美」をめざしていると主張した。
ゴットフリート・ゼンパーの弟子オットー・ワグナーが設計したウィーン郵便貯金局(1906図4)のホールは、新しい近代建築美学の萌芽を表わしている。鉄とガラスによって構築された光溢れる無重力空間の至るところに、当時としては最先端技術のアルミニウム製建築金物がちりばめられている。
フランク・ロイド・ライトの建築は、表現としてはプレモダンではあるが、環境制御技術と建築空間との統合をめざした先駆的試みの宝庫である。たとえばラーキン・ビル(1906 図5)は、中央に吹抜空間を持つオフィスビルで、全体が空気の流れを制御する装置のような建築として設計されている。
ペーター・ベーレンス設計のAEGタービン工場(1910 図6)は、「技師の美学」が「建築家の美学」に取り込まれた典型的な例である。この点について、ユリウス・ポゼナーはこう言っている。
「ベーレンスがそこで試みたことは、「新しい構造技術」(鉄骨造のこと:筆者注)を古典的美学で抑制することだった。タービン工場側面の二階建て建物純粋にシンケル様式である。シンケルの劇場から取ったものだ。またその多角形ペディメント、そして支えのコーナー・パイロン、しかしそれは実は支えではなく、純粋に空間的な納まりである。また、側面ファサードにおける列柱の暗示と箱型エンタプレチュア。全ては側面の建物部分同様、古典的美学の支配下にある。」
『近代建築への招待』(ユリウス・ポゼナー:著 田村都志夫:訳 青土社 1992)
これとは逆に「技師の美学」を突きつめることによって「建築家の美学」を変革しようとしたのが、バックミンスター・フラーである。ル・コルビュジエの提唱する「住むための機械」に触発されて設計したというダイマクシオン・ハウス(1927 図7)は、実現されなかったが、その後のフラーの活動の原型となった。フラーの建築思想は20世紀末から今世紀にかけて活動を展開する技術志向の建築家にまで引き継がれている。

盛期モダニズム:第2次世界大戦後
第2次世界大戦が終結した1945年以降になると、モダニズム建築思想は世界中に広まっていく。戦後復興の一環として大量の住宅や公共建築を供給するために、戦時中に開発された技術が建築へ投入され、建築の工業化やシステム化が急速に進行する。同時にこの時代は、世界中のいたるところで民族国家の独立運動が勃興した時代でもある。高度成長を遂げた民族国家は、豊かな経済と高度な技術を背景にして国家を象徴するモニュメンタルな建築を実現させる。
バックミンスター・フラーは余剰となった航空機工場を住宅生産工場へ転用するために、ダイマクシオン・ハウスを改良したウィチタ・ハウス(1946 図8)を開発した。しかし大量に注文があったにもかかわらず、開発不足を理由にフラーは量産に踏み切らなかった。その後、フラーはより普遍的な構造物であるジオデシック・ドームの開発へと展開していく。
チャールズ・イームズ設計のイームズ自邸(1949 図9)は、「アート・アンド・アーキテクチャー」誌が、モダニズムのスタイルをアメリカ西海岸に普及させようとして企画した一連のケーススタディ・ハウスのうちの一つである。既製の建築部品を組み合わせて建設されたこの住宅は、その後の住宅の工業化とシステム化の範例となった。たとえばSCSD学校構造システム開発(設計:エズラ・エーレンクランツ 1960 図10)は学校建築のシステム化の試みで、学級編成の変更に伴う間仕切りの可変性と設備システムの組み込みを追求している。
ルイス・カーン設計のリチャーズ・メディカル研究所(1961 図11)は、プレキャスト・コンクリートによる精緻な構築性と、医学研究所に不可欠な換気ダクトをモニュメンタルなシャフトとして表現している点が特異である。この建築で提唱されたサーバント・スペース(奉仕する空間)とサーブド・スペース(奉仕される空間)という建築概念は、多くの建築家によって多様な形に展開された。この建築のエンジニアであるオーガスト・コマンダントは、ソーク研究所(1965)やキンベル美術館(1972 図12)でもカーンに協力している
オリンピック室内競技場として建設された丹下健三設計の代々木国立競技場(1964 図13)は、戦後の高度経済成長を遂げた日本が、世界に向けて発した建築的モニュメントだといってよい。この建築には当時の最先端の建設技術が日本的なデザインの中に統合されている。
デンマークの建築家ヨーン・ウツソンが設計したシドニー・オペラハウス(1973 図14)は、国際コンペを通じて選ばれた案を、オーストラリアが国家の威信をかけて建設したモニュメントである。ヨットの帆をイメージした巨大なコンクリート・シェルの屋根は、構造技術がストレートに表現されたモダニズム最後の建築だといわれている。

ハイテック・スタイル:1970年以降
1960年代の後半になると、モダニズム批判の動きが世界中に広がる。1970年に大阪で開催された万国博覧会は、戦後日本の高度経済成長の集大成であると同時に、モダニズム運動の終焉でもあった。
1970年代になると、世界中の建築界はポストモダニズム一色に転換するが、その中からエンジニアリング技術とデザインの新しい関係を模索する新しい潮流が出現する。その嚆矢がポンピドーセンター(1977 図15)である。当時30歳代だった若い2人の建築家レンゾ・ピアノとリチャード・ロジャーズは、エンジニア集団オブ・アラアップのピーター・ライスの協力を得て、パリの中心にエッフェル塔以来の問題作を出現させた。その革新的な構造は、ピーター・ライスが19世紀の鋳鋼と橋梁の技術を現代化したものである。この建築のもうひとつの特徴は、構造体だけでなく、配管・配線、エレベーター、エスカレーターといった設備システムが、すべて露出している点にある。
ほとんど同時期に完成したノーマン・フォスター設計のセンズベリー美術センター(1978 図16)は、単純な鉄骨トラス構造の箱を、屋根と壁の区別なく、軽いアルミ断熱パネルで覆ったモノリシックな建築である。その軽さと透明性を見たバックミンスター・フラーは、フォスターに「この建築の重量は?」と聞いたというエピソードが残っている。
その後、フォスターはルノー配送センター(1983 図17)や香港上海銀行(1986 図18)を、ロジャースはロイズ・オブ・ロンドン(1986図19)を、ピアノはIBM巡回パヴィリオン(1984 図20)やメニル・コレクション美術館(図1)を建てている。これらハイテック・スタイルと呼ばれる一連の技術表現的な建築は、建設技術の高度化と高性能コンピューターによる解析技術の進展によってうみ出されたものである。

サステイナブル・デザイン:20世紀末から21世紀へ
20世紀末になると地球環境問題が勃発する。建築は環境問題を左右する大きな要因として見直され、それまでのスクラップ・アンド・ビルドの思想の再検討が必要となった。環境との調和、気候制御装置としての建築、省エネルギー化と長寿命化、既存建築のリノベーション、建築材料のリサイクルや再利用といった新しいテーマによって、建築デザインの新しい展開が開始される。サステイナブル・デザイン運動の勃興である。今までは、構造技術が建築デザインを決定づける大きな要素だったが、サステイナブル・デザインにおいては、それに加えて環境制御技術が大きな役割を占めるようになる。
たとえばレンゾ・ピアノ設計の関西国際空港(1993 図21)では、ターミナルの屋根の形態は、構造的合理性からではなく、大空間を空調する際の空気の流れから決められている。屋根のムクリがシンメトリーではなく非対称な減衰曲線になっているのはそのためである。関西空港は目に見えない室内気候からデザインを決定した世界最初の建築だろう。
せんだいメディアテーク(設計:伊東豊雄 2001 図23)は、スチールパイプのラチスシェル・チューブとスチールプレートのスラブによって構成された単純明快な建築である。チューブは、構造体であると同時に、内部にエレベーター、階段、設備配管、空調ダクト、採光装置などを納めたサーキュレーション・シャフトである。近代建築が追求してきた構造、設備、機能というテーマが統合された20世紀最後の建築といえるだろう。
統合ドイツの議事堂ライヒスターク(2000 設計:ノーマン・フォスター 図22)は、第1次大戦前の議事堂のリノベーションであり、歴史的な記憶を保存しながら、議事堂の真上にガラスドームの展示場を載せ、新しいエネルギー技術を用いて建物全体の消費エネルギーを最小限に抑えている。政治的、社会的側面を含めて、サステイナブル・デザインの模範的な事例である。

非物質化とエフェメラリゼーション
19世紀以降の建築デザインとエンジニアリング技術の関係をたどってみると、一つの大きな方向性があることに気づく。技術の進展によって、建築、より軽く、より透明に、より多機能になっていることである。近代建築史家はそのような方向性を「非物質化dematerialization」と名づけたが、バックミンスター・フラーはより直接的に「エフェメラリゼーションephemeralization」と呼んだ。
「より少ないものから、より多くのものを得る工夫の積み重ねは、一つの機能を他の機能に組み入れて統合していき、その結果として、それはついには蜘蛛の糸のように繊細で、しかも鉄のように強靱な多機能のドームが、これまで建築、建設、美学というように分離されていた「文化」にとって変わるような現象が起こるのである。」
『バックミンスター・フラー』(マーティン・ポーリー:著 渡辺武信+相田武文:訳 鹿島出版会1994)
(了)

 


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