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「コンバージョンと都市再生」原稿
歴史と都市計画の統合 -クリアランス型まちづくりから、再生型まちづくりへ:

地方都市に元気がない。最近の都市の状況を見ていると、東京への一極集中が急速に進んでいるようである。手元に具体的なデータがあるわけではないが、2003年に大阪の大学から東京の大学へ移動したとき、盛り場の雑踏、街の活気、道路や交通機関の込み具合、建設用クレーンの数といった条件から推測して、東京のパワーは大阪の優に数倍以上はあるという印象を受けた。地方都市を訪れると、その傾向は一段と強く感じられる。日曜日でも駅前は人通りがまばらで、盛り場も閑散としている。右肩上がりの高度成長の時代には、まったく予測できなかった事態である。
21世紀の日本は、緩やかな成長か、あるいは右肩下がりの時代になるのは必至だといわれている。総人口は徐々に減少し、高齢化社会に突入することは間違いない。そうした時代のまちづくりとは、一体どのようなものになるだろうか。それはこれまでとどのような点において異なるのだろうか。その鍵はおそらく「歴史と都市計画の統合」にあるというのが僕の予想である。

第2次世界大戦後の近代的な都市計画思想を確立したのは、CIAM(近代建築国際会議)だといわれている。CIAMは1928年に近代建築家の国際的交流を目的として創立され、その先導者はル・コルビュジエだった。CIAMの第4回会議は1932年にマルセイユーアテネ間を航行する客船の中で開催され、会議の結果は『アテネ憲章』としてまとめられた。戦後の都市計画の方向性を決定づけたのは、この『アテネ憲章』である。
ル・コルビュジエは『アテネ憲章』の起草に決定的な役割を果たした。それは実質的にル・コルビュジエの都市計画思想をまとめたものである。そこにはル・コルビュジエが1920年代に提案したパリの「ヴォアザン計画」や「輝く都市」などの一連のプロジェクトの成果が盛り込まれ、未来の都市計画のあり方が提案されている。彼の都市計画思想を一言でいうなら「機能的な都市」である。ル・コルビュジエは機能がはっきりと分離されている都市を「機能的な都市」と定義し、未来の都市計画の鍵は4つの都市機能、すなわち「住居」「労働」「余暇」「交通」の明確な分離にあると主張している。第2次大戦後の世界中の都市計画は、基本的にこの考え方にもとづいて展開されたといってよい。日本の戦後の都市計画も例外ではない。機能毎に地域を分割し、そこに建設される建物の用途を規制した「都市計画地域」の規制は、その起源を『アテネ憲章』すなわちル・コルビュジエの「機能的な都市」に遡ることができる。

1987年生れのル・コルビュジエが「ヴォアザン計画」や「輝く都市」などにおいて近代建築によるパリの改造を提案していた頃、同じパリをまったく異なる視線で注視する若者がいた。1892年生れのユダヤ人、ヴァルター・ベンヤミンである。ベンヤミンは19世紀半ばにセーヌ県知事オースマンが行ったパリの大改造の結果を、歴史家としての微細な眼で観察した。ベンヤミンがとくに注目したのは19世紀初期に生まれた半屋外的な都市空間パサージュである。ベンヤミンはパサージュの魅力に取りつかれ、そこに展開する社会的・文化的過程を事細かに記述した。ベンヤミンの眼は移ろいゆくもの、失われてゆくものへの哀惜の念に満ちている。ベンヤミンの膨大な量のメモは『パサージュ論』として残された。『パサージュ論』の大部分は、他の人間が書いた19世紀のパリに関する記述の引用から成っている。ベンヤミンは他者の文章の引用だけによって一冊の本を書くことを夢見ていたといわれている。これを読むと、19世紀都市パリの都市空間の陰翳を孕んだ豊かさと、それを生みだした錯綜した社会・経済状況が浮かび上がってくる。

ル・コルビュジエは19世紀の都市パリを都市計画家の眼によって、近代的に改造すべき都市空間としてとらえた。一方、ベンヤミンは歴史家の眼によって、19世紀の都市パリが重層的な意味を湛えた魅力的な都市空間であることを発見した。ル・コルビュジエの眼は「未来の変革」に向かい、ベンヤミンの眼は「過去の発見」に向かっていたといってもよい。近代の都市計画においては、両者は決して交差することはなかった。

CIAM以降には「機能的な都市」の思想を批判する建築運動が展開する。しかしいずれも未来志向の点においては変わりなかった。近代建築の第2世代のチーム召蓮崚垰圓離灰◆廚鯆鶲討掘丹下健三は「東京計画」を発表した。メタボリズムやアーキグラムはメガストラクチャーによる未来都市を提案した。1960年代末の世界的な文化革命は、そうした未来志向一辺倒の都市計画に対する批判的な運動であった。1970年に開催された大阪万博は近代的な都市計画の最後の壮大な試みであった。しかし1973年のオイルショックは、それまでの近代的都市計画の底の浅さを暴露し、未来志向の幻想を打ち砕いた。1970年代以降に展開するポストモダニズムは、一転して過去ヘと目を向けることになる。しかしポストモダニズムは個別の建築の歴史性には眼を向けたが、都市からは撤退した。ポストモダニズム以降、建築家たちは正面から都市については語らなくなった。なぜなら都市計画においては、依然として未来志向が支配的だったからである。その傾向は20世紀末まで続いた。
都市計画の未来志向が転換するのは、社会全体が右肩下がりの時代の到来を自覚せざるを得なくなった1990年代からである。1980年代末から1990年代初めにかけての社会主義国家の崩壊は、モダニズムにおける「計画」の概念を根底から覆した。21世紀の低成長時代にふさわしい成熟した社会においては、単なる未来志向の都市計画は通用しない。僕たちは未来に眼を向けながら、そこに過去に向かう眼差しを取り込まねばならない。ル・コルビュジエの眼とベンヤミンの眼を統合する方法を模索しなければならない。

僕たちがまず見直す必要があるのは、ル・コルビュジエが提唱した「機能的な都市」の考え方である。『アテネ憲章』が教条化されたといってもよい現今の「都市計画地域」規制は、働く場所と生活する場所の分離を推進した。その結果、働く場所は都心に集中し、住居は郊外へと広がり、人々は毎日通勤のために長い時間を費やすことになった。戸建て住宅が広大な郊外地域を形成しているような都市は、日本にしか見られない。しかし人口が徐々に減少する低成長の時代には、巨大なエネルギー消費によって支えられたメトロポリスはふさわしくない。これまでの生活レベルを下げることなく、地球環境を持続させるには、働く場所と生活する場所が近接し、都市の諸機能が効率よく組織されたコンパクトでサステイナブルな都市こそがふさわしい。都市とは本来さまざまな機能が混在することによって成り立つ場所である。都心居住こそが近未来都市の居住形態である。そのためには「都市計画地域」規制は根本的に見直されねばならない。さらに都心と郊外の関係も再検討されねばならない。郊外は住む場所ではなく、新しい自然の空間として再編成されねばならない。都市問題とは郊外問題でもあるのだ。

では、そのようなコンパクトでサステイナブルな都市はどのようにつくられるのだろうか。これまでの都市再開発のように、マスタープランに基づいてすべてをクリアランスして建て直す「外科手術的」な計画によってではない。そうではなく、比較的小規模の個別的な開発を連動させ、漸進的に街をつくり変えていく「内科療法的」な計画によってである。個々の開発においては、建て直しももちろんあるだろうが、むしろリノベーションやコンバージョンが主役になるだろう。都心にはすでに大量の建築的ストックが蓄積されている。まず必要なのは、それらの建物を注意深く観察し、生みだされた経緯を調べ、潜在的な可能性を探り出す「歴史家の眼」である。そしてつぎに必要なのは、見出された微細な条件から新しい空間を発想し、新しい都市をうみ出す「都市計画家の眼」である。今までは交差することのなかった二つの眼を通して、歴史が重層したコンパクトで豊饒なサステイナブル都市が生みだされるだろう。21世紀の街づくりにおいては、ル・コルビュジエの眼とベンヤミン眼の統合が不可欠である。その歩みは始まったばかりである

 

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