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建築文化2004年4月号 『サステイナブル・デザインが向かうところ』
巻頭対談:難波和彦×太田浩史

■集合と分散

太田 今日は「サステイナビリティと住宅」と、実に広範なテーマが与えられているのですが、最初は抽象的に、集合と分散という観点からお話をしていきたいと思っています。難波さんは「箱の家」の集合住宅ヴァージョンをつくられていますね。それと1戸建ての「箱の家」との間に捉え方、作り方に差異はあるのでしょうか。

難波 もちろん構造的には異なりますが、僕の頭のなかではあまり区別はありませんね。

太田 なぜそうお伺いしたかというと、いま住宅をめぐる問題のなかで、集合住宅と戸建て住宅というタイポロジーをどう捉えるかその中間点はありうるのかという話があると僕は思っています。つまり、集合住宅に公共空間はあるかとか、戸建て住宅は都市にどのように関わっていくかなど、集合的な論理に対して居住がどうアプローチしていくかについてです。
アルミエコハウス(2000)を拝見したときに、僕は難波さんに「これが集合住宅だったらどのような解がありえますか」とお聞きしたことがあるんですが、サステイナビリティ論では、都市居住を戸建住宅のように分散したものとして捉える方向と、集合住宅のように多数性の効果を捉えていく方向と、その前提が大きく違うと思います。エネルギー論的に言うと、燃料電池のような分散型の技術と、地域冷暖房のような集約型の技術の違いですね。難波さんも、集合住宅を手がけることによって、分散と集合の間で方法論を探っていかれるのかなと思ったんです。

難波 それはサステイナブルな建築の条件を突きつめていくと、集合住宅になるはずだという意味ですか。

太田 一貫して問題にされてきたのは集合の論理だという感じは持っています。しかしその一方で、個人的な空間というのはもっと先鋭化していくような気もする。戸建て住宅というよりも、黒沢隆さんのいう個室群住居のようなものですね。

難波 僕は夫婦と子供という捉え方はやめて、黒沢さんの個室群住居ほど閉じてはいないけれども、箱の家という一室空間のなかに個人のコーナーをつくっています。それを「箱の家版個室群住居」と言っていますが、箱の家も個人の集合としての家族という意味で、戸建てでも集合住宅として捉えているつもりです。だから箱の家のクライアントの半数に対しても、このぐらいの資金をかけるなら、集合住宅にすべきだという思いをもつこともあります。

太田 それは内部のフレキシビリティを確保して、家族の形態が変わっても対応できるようにするという意味ですか。

難波 それもありますが、そのほうが省エネだし、敷地も細切れにならないから都市にとってもいい。戸建て住宅というのは、社会学的な視点からみたら間違っていると思うのです。戸建て住宅は核家族制度に対応しているわけで、それが揺らいでいる以上戸建て住宅という定義もあいまいになりつつある。
以前、塚本由晴さんに「箱の家は一つひとつ固有な場所につくるのに、ティピカルなプランでかつ集合住宅のヴァリエーションのように設計するのはおかしい」と言われたことがあるんです。でも僕はそういう思いがあるからこそ、箱の家でティピカルなプランをやろうとするわけです。そこにしかない固有な解答を求めて設計している住宅はひとつもありません。

太田 佐藤考一さんが、最近の論文で「都市のすべての住宅を集合住宅ととらえるべきではないか」と言っていましたね。実際に現在の戸建て住宅をみてみると、二世代住宅のように集合の形式になっているものが多くて、我々が認識しているような近代の家族像に対応したものは意外と少ない。戸建てのスケールのなかで条件の変化に応じて流動的にコンバージョンされているわけです。「戸建て」に対する我々の認識と現実の間には、どこか距離があるような気もします。

難波 そうかも知れませんね。最近、面白いと思ったのは、僕が学生に「エコロジカルな住宅」というテーマで設計課題を出したら、かれらは「ライフスタイルのエコロジー」が重要だという。エネルギーを主題にする学生はあまりいないのです。家族関係が揺らいでいる中で、戸建て住宅がどう持続していくかというとらえ方をする。学生は問題の本質を直感的にとらえていると思います。

太田 ここ10年くらいの環境論の流れを大まかにとらえてみると、エコロジーという言葉で示されていた省エネルギーや自然保護の議論が、最近はサステイナビリティという言葉で社会の持続性の議論に移り、さらに都市論とドライな効率論がそこに混じってきているような気がします。そこには集合の論理の気配があるから、それがサステイナビリティという言葉にかわって、もっと分かりやすいものとして出てくるんじゃないかという予感がするんですけどね。

難波 だから次の新しい言葉を探さなきゃいけないということですね。エコロジーといっても、たとえば70年代にグレゴリー・ベイトソンが言い出した「精神のエコロジー」という考え方や、最近では斎藤環さんのように、オタクの精神構造をエコロジカルな視点でみるような人もいる。森川嘉一郎さんの『趣都の誕生-萌える都市アキハバラ』(幻冬舎)も、「精神のエコロジー」からきた都市論でしょう。エコロジーといっても、もう少し広い意味があるんじゃないでしょうか。

■物質のパフォーマンスを高める

太田 僕は物質論がベースにありますので、イメージをそこからお話しさせていただきますね。エツィオ・マンツィーニという人が80年代に『マテリアル・オブ・インベンション』という凄い本を書いているんですが、そのなかで彼は「デンス・オブジェクト」という言葉を使っていて、オブジェクトにいかにスマートにデザインするか、オブジェクトに多量の情報量を与えることでいかにパフォーマンスを上げるか、それが現代のデザインのなんだと力説するんです。
ですから彼は、力学の最適解のとおりに強化繊維が配向された複合素材を例に挙げて、「これこそがデザインなんだ」という言い方をする。エコロジーというよりも、もっと具体的にパフォーマンスの向上、つまり単純な操作で大きな効果をあげることを重要視するわけです。そうした発想の源泉はフラーの「ダイマキシオン」にあるようにも思いますが、スニーカーや一体成形の家具など、プロダクトの分野では顕著にその傾向があると思うんです。そういう深い次元での物質の操作は、エコロジーやサステイナビリティともちょっと違う技術の論理を提出しているような気がします。
建築におけるその最も先鋭的な例が、難波さんのアルミエコハウスの部材のデザインだったと僕は思うんですね。部材を開発して軽い建築を実現させる。そういうと簡単に聞こえるけれど、そこでは物質が成立するプロセスや社会背景までが設計対象になっていて、物質操作によってその背景までもが再編集されている。そういう複雑性が建築もしくは住宅論のベースになっていくような気がします。

難波 そういうところが僕と太田さんの興味が共通しているところですね。池辺陽が『デザインの鍵』のなかで言っていることも、実は同じことです。「複雑な機能が単純なかたちになり、単純な機能は複雑なかたちになる」といって、彼が挙げた例は蚊取線香です。いまの学生には蚊取線香といってもわからないかな(笑)。蚊取線香は除虫菊の練物を板状に成形し、螺旋状の切れ目を入れてコンパクトに箱に収めたものです。燃やすときは螺旋状の線材に解体し、中心を支えれば重力は常にバランスがとれて、しかも長時間使用できる。製法と使用法が完全に一致しているところが最高のデザインだというわけ。

太田 なるほど。

難波 機関車は、走るという単純な機能を実現するために、大きくて複雑な機械を積んでいるけれど、自分がやりたいのは蚊取線香のようなデザインだと。蚊取線香は、製造や運搬、そして実際に使うときの性能も全部備えたデザインでしょう。「ライトネス」や「最小限の資源で最大限の効果を」という考え方は、フラーもそうだけれども、意外とジャパニーズなんじゃないかという感じがするんです。戦後の日本の復興は、ほとんどその技術が担ってきたわけです。ウォークマンや自動車とかは、みんなそうじゃないですか。原理はすべて欧米のものだけれども、それをコンパクトでかつ高性能にした。住宅もそうなるといいな、という意識はあります。

太田 そのときの方法論ですが、技術的なアプローチ、たとえばアルミニウムに機能性をさらにインテグレートしていくのか、それとも社会的なことも含めて進めていくのか、どちらに関心がありますか。

難波 両方ですよ。住宅というのは社会的な側面が抜けたら持続も何もありませんから。でも、それを逃げにはしたくないですね。季節の気候に触れるのが自然な生き方だという主張がありますが、建築家は技術的なことができないときに、それを逃げに使うことがあるでしょう。トップライトをつけたことによって室内が暑くなってしまったとき、夏は暑いんだからしようがないと言ったりする建築家もいるけれど、トップライトをつけても暑くないようにきちんとコントロールできればいいと思うし、建築家はそうすべきだと思う。そうしたうえで夏の暑さを考えるべきです。
いま僕は、室内の表面温度を年間平均23℃にすることを目標にしているんです。これは水蓄熱式床暖房を開発したエンジニアが導き出した数値ですが、これくらいあれば真冬でもTシャツで過ごせる。外がどんなに暑かろうが寒かろうが、床・壁・天井の温度を23℃にしておいて、窓を開けたい人は開ければいい、という方向でやりたいですね。社会性を浮かび上がらせるためにはテクノロジーがなければできない、でもテクノロジーを補完するのに社会性を使いたくはない。

■建築の美学とテクノロジー

太田 僕はサイボーグのヒーローとかをテレビでみて育った世代ですから、人工的なものと自然が混じり合っているところというものを見るとたまらない。これはもう、「たまらない」としか言いようがない感覚なんです(笑)。
例えばビョークというアーティストの「オール・イズ・フル・オブ・ラヴ」のプロモーションビデオで、ロボットが同士がセックスをするシーンがあるんですが、それを怖いと思いながらも、すごくエモーショナルだとも思うんです。人工世界をどれだけ拡張できるかというフロンティアの部分、つまりテクノロジーが身体を侵食しているようなラディカリズムのようなものを感じるんですね。サステイナブルもしくは省エネルギーの建築は、そういうフロントラインで実験をしているところがある。そこに何かタブーに触れているようなものを感じて、もうたまらないんですね。

難波 たとえばどういうところにタブーを感じるの?

太田 たとえば、ノーマン・フォスターのSwiss Re Headquarters(2004予定)の考え方は、外壁に人工的に竜巻をつくろうとするようなものですね。つまり本当のクライメットを建築を使って実現させている。嵐を起こしたり雨を降らしてしまうような、いままで操作したことのないものを操作するということが、サステイナビリティの建築には技術として出てくるわけですね。そこが面白い、というか先鋭的で挑発的だと感じるんです。

難波 僕もそこまでできたら素晴らしいと思いますね。そういうデザインの端緒が関西国際空港(1994)の屋根ですね。大空間をいかに空調するかを検討し、ジェット気流を吹き出したときの減衰曲線を、そのまま屋根の形にしたと岡部憲明さんが言っていますが、そういう目にみえない流れをかたちにすると、いままでの構造的合理性とは違う屋根の形ができてくる。ただ、あの空港の建物配置は、飛行機が飛ぶ方向で決められていますが、飛行機は風に向かって離着陸するから、室内の風と外の風向きは直行する形になっている。屋根の機密性は完全ではないから、負圧によって室内の空気の流れは撹乱されているでしょう。技術がかたちを決めるひとつのモチーフにはなったけれど、結果的には想定していたような空気の流れは起こっていない可能性が高い。このように、これからの技術にとって、コンテクストのパラメーターをいかに精確にとらえるかが最大のテーマですね。

太田 そうですね。サステイナブルな内部環境をつくるために、内と外を切ってしまうことで建築が自律して閉じていく傾向にある。そこで息苦しさみたいなものが出てくる感じがあるかもしれませんね。

難波 だから決定的なのは境界条件ですね。技術というのは必ず境界条件を設定しないと解けない。それを微細かつセンシティブにとらえれば、フォスターのようなことができるようになる。境界条件をどうとらえるか、技術論で無視されているのはその点で、特に構法研究者においてはそれが最大の問題ですね。コストも重要な境界条件のひとつで、コストなしで原理だけで技術論を論じるということはありえない。コストを無視するという前提を外せば、面白い技術があり得ると思うし、その境界をずらす努力がコストを変えていくことになると思うんです。

太田 たとえば、ヴェルナー・ゾーベックのR128(2000)はどう捉えていますか。

難波 完全なガラスの箱ですね。それもトリプルガラスの。僕も一度やってみたいですね、コストのことを考えなければ(笑)。日本の場合は気候条件がまったく違うから難しいでしょうね。あんなにクリアなものはできないんじゃないかな。

太田 そうですね。家族像も単純化されているところはあります。

難波 敷地もそうですね。でもドイツやスイスでは、その辺が非常にクリアに出てきますね。それは価値観がはっきりしているからじゃないかと思います。ドイツのサステイナブル建築には、テクノロジー指向のエコテック派と自然指向のバウビオロギー派が、対立しながらもクリアに存在しているから、建築家もひとつの答えとして作品を提示すれば、それがそのまま政治的メッセージとしてもとらえられる状況にある。日本では、なかなかそれができないですね。

太田 日本でも政治にはなっていると思いますね。ただエコロジーやサステイナビリティといったときには、バウビオロギー的な思考のほうが支配的ですから、難波さんの箱の家というのは、そのなかで孤立しているようにみえるし、同時に先端にいるという感じがします。

難波 箱の家はポピュラーな技術でできているから先端的ではないですが、同じことを続けているということ自体が変なんですよ。この前も藤森照信さんに「100個もやったら、もう変えたほうがいいんじゃないか」と言われた(笑)。
話が少しずれるかもしれないけれども、僕は技術や構法をテーマにしていて、表現を追求しない建築家だと藤森さんや石山修武さんに言われています。要するに、箱の家は詩的言語を励起しない建築だと。たしかに僕は「かたちは箱でいい」と言ったりするからね。でも美学について語っていないから、美学がないというのはちょっと読みが浅いんじゃないか。だって批評の際に一番信用していけないのは、作者自身の説明でしょう。

太田 僕も前に手がけた住宅(「Duet」2002年)で、空間には興味がないとわざと言ってみたんですが、とたんにみんなサッと引いちゃって、「この人は技術的なことしかやってないんだな」という受け止め方をされましたね。

難波 そういうとらえ方は矮小ですね。技術的な側面を追求すれば、必ず空間は変わるはずで、間接的に表現を変えようとしているわけです。いわゆるアノニマスなデザインというのは、それを無意識にやっているけれども、僕らの場合はかなり意識的にやろうとしている。表現を変えないような技術には、僕は興味ありません。
それと美学には2つの側面があって、ひとつは技術抜きの視覚的な美学、もうひとつはエレガントな技術がもたらすシステムの美学があるわけですね。かたちの美しさというのももちろんあるけれど、ハイパフォーマンスでコンパクトな技術というのは美しいじゃないですか。

太田 その美しさこそ「たまらない」魅力なんですが、そこにどう詰め寄るかですよね。たとえば、素材というのは具体的な次元の話だと一般的には考えられていると思いますが、僕にはどうやっても抽象的にしか見えないんですよ。たとえばこのペンにしても、これをつくるためには精密な金型がいろいろあるわけです。ペンの素材は10%ぐらいの物質と、90%のデザインですよね。だから素材というのは抽象のプロセスそのものだと思っているんですが、一般的に素材を語るときには、手触りとか、見えとの関係でしか語らないようなところがある。美しさも、具体的な世界の出来事だと思われているんじゃないでしょうか。

難波 素材は抽象的だとおっしゃいましたが、近代的な技術を経過したからこそ、そう見えるんだと思います。その視点は木に穴を掘ったりする藤森さんも実は共有している。彼の素材に対するアプローチは、モダニズムに対するアンチとして成り立っているけれど、実はレヴィ=ストロース的な「野生の思考」をやろうとしているのです。「野生の思考」はきわめて抽象的な思考ですね。

■サステイナブルデザインに求められる編集能力

太田 建築においてのサステイナビリティとは、今のところ、建築というオブジェクトにそれ以外の外部情報を移し込む作業のことだと思うんです。さっきの社会性とか、外部空間とかクライメットとか。そういうものを編集することがサステイナブル建築では求められていて、建築家はその編集の方法を蓄積している段階だと思います。美しさに至る段階というより、さしあたって編集能力が問われている。

難波 サステイナナブル建築の最大のポイントはインテグレーションにあるという意味でね。

太田 そうです。

難波 インテグレーション、あるいは編集のボキャブラリーをできるだけ増やすということでしょうが、そのボキャブラリーのなかに唯一欠落しているのが、時間というか、歴史ではないか。それが現在のサステイナブルデザインの最大の課題だと思うんです。たとえば風化という変数は、いまのサステイナブルデザインでは編集の対象にはならないでしょう。

太田 そういえばジャック・ヘルツォークはまさにウェザリングを表現していましたね。

難波 雨だれを外壁に垂らしている「レミーツァーグ・スタジオ」ですね。ちょっとアート指向な作品だけど、あそこまでちゃんとできたらすごいと思います。それは近代的な秩序とは反対のもので、歴史といったほうがわかりやすいかな。ゲニウス・ロキとまでは言わないけれど。

太田 アルド・ロッシが『都市の建築』のなかで、都市にはいろんな出来事があって、建築はそれを固着していくものだと言っていますね。それによって都市ができていくと。あの本はコンバージョンの話から始まりますが、いまおっしゃった時間の話は、公共性とか都市性にストレートにつながっていく部分だと思います。

難波 でもそういうテーマはテクノロジカルなサステイナブル・デザインにはなかなか結びつきにくいですね。時間がデザインの要素として取り込めれば、エコテック派とバウビロギー派という対立が止揚できるような気がしますけど。

太田 『SD』で素材特集(「挑発するマテリアリティ」1999年5月号)に関わったときに発見したのですが、素材というのは忘却を前提としている言葉のようなんですね。たとえば、しなベニヤという製品をつくると、しなという素材が森のなかで育ったという履歴が消える。しなベニヤを素材として本棚を作ると、今度はしなベニヤがどのように流通されてきたかという情報が後退する。その本棚を別の用途にリサイクルすると、今度はそれが本棚だったということが次第に忘れられていく。モノを「素材」と呼ぶことによって、かなり多くの人が、身のまわりのものはヴァージン材でできているという錯覚をもってしまっていると思います。

難波 アルミニウムはリサイクルしたときに、含まれている合金がすべて履歴として残っていて、それをどう制御するかが大きな問題です。だからもっと技術が微細になれば、履歴が必ず問題になりますよ。そうなれば時間と歴史が技術に取り込まれるかもしれない。

太田 建築はまだ粗い技術の上で考えられているということですね。

難波 そう。アルミニウムのリサイクルには、ヴァージン材をかならず何割か入れることで不純物をコントロールしています。鉄もそうです。そもそもリサイクル技術というのは、履歴を制御する技術だと思います。

太田 僕もそう思います。『SD』の特集のためにBMWの開発者に話を聞いたときに、車のスクラップは再生しても車には使えないから、建築のH鋼とかにすると口走られてしまってけっこう複雑な気持ちになりました。でもそれ以降、鉄骨造の建物を見るとこれもBMWだったのかなと、愛おしくみえるところがあります(笑)。

難波 金属はもともと自然の素材だけど、人工的で近代的な材料だと思われている。でも木は素材として、まだ吹っ切れていませんね。僕は初期の「箱の家」では無垢の木を使っていたけれど、40番ぐらい以降は一切使っていない。精度の問題もあるんですが、自分の旗色を明確にする意図もあって、集成材やLVLなどのエンジニアリングウッドに移行したんです。ただ、集成材はなかなかリサイクルが難しいらしいですね。

太田 移行の効果はどんなものでしたか。

難波 精度がどんどん高くなるし、ジョイントも明確になって、だんだんアルミや鉄骨に近くなっていく。

太田 物質性としては複雑な方向ではなくなるけれど、それを統御する思考力というか、抽象度は上がってくるわけですね。

難波 そうですね。

太田 コンバージョンやサステイナブルというのは、フローの管理という技術の上にあるんじゃないかという感じはします。その操作のファクターの数は、ものすごく多いような気がする。
去年、南泰裕君と一緒に「populous SCAPE」という世界の人口を棒グラフで表現したムービーをつくったんです。世界の都市の人口動態を高解像度にすることで、操作可能なものとして世界が見られるかどうかやってみたかった。MVRDVの「DATA TOWN」などを見てもそういう視点があると思いますが、アルミエコハウスや箱の家の解像度を上げていく方向も同じような気がしていて、そこにサステイナビリティの次の言葉の鍵があるような気がしているんです。

■都市のデスクトップとテーブルトップ

太田 昨今のユビキタス論などを見ていくと、モダニゼーションやアーバニゼーションの展開として、いろんなものをデジタル化して高解像度に記述していくんだという感じがありますよね。人間にチップを埋め込むというのは簡単には実現しないでしょうか、虹彩認識とかを使って、どこどこのコミュニティに住んでいる誰というのではなくて、何番の誰といきなり個人が特定される。コミュニティを介さない個人というあらわれが基本になってきて、それがさっきの個室群住居のような家族像につながっていくのではないかと思います。
個人の輪郭がはっきりしてくると、共有空間でそれをいかにプレゼンテーションするか、いかに関係を結ぶかということが重要になってくるでしょうね。人と社交するとか、広場でどう過ごすかいうことが、個室にひきこもるのと同じくらい強く志向されるはずで、それを空間として表現することが僕らのテーマになると思います。

難波 それが非常に不思議なかたちで出たのが秋葉原ですよ。森川さんは、個室がそのまま都市化したという言い方をしていますね。

太田 そうですね。たとえば日曜日にスターバックスコーヒーに行くと、音楽を聴きながら手紙を書いている人の隣には他人が座っていて、その人は全然違うことをやっていたりする。自分の居間でやることがそのまま都市に出てきてしまっているというのは面白いですね。

難波 若くて体力のある人は、空間的な距離と心理的な距離を切り離すことができるんですよ。満員電車のなかでも、隣の人との間に巨大な壁があるというルールをつくれるパワーがある。そのとき人間は物理的に入ってくる複雑なノイズを頭で処理しているんだけど、子供と年寄りにはそれができない。だから、箱の家のような空間は小さい子供と年寄りのために必要なものであって、スターバックスに行って孤独になれる人には必要ないかもしれない(笑)。

太田 住居の機能のうちデスクトップでの作業というのは、スターバックスでもできると思いますが、テーブルトップというのがまだ残されていると思うんです。人と話したり食事をしたりするテーブル的なものは都市にないと。

難波 テーブルというのは個人的な場ではないということですか。でもいま僕らが話をしているこのテーブルは、テーブルトップじゃないの?(笑)

太田 テーブルトップは複数の人間で使われることを前提としていますよね。他者や外部がどれだけ考慮されているかということだと思います。他者を前提とした空間、たとえば共用空間や窓際のテーブルなどのつくり方が住居のテーマじゃないかという気がしているんです。都市のなかにそういうテーブルトップがあるといいと思っていて、僕らは公共空間に社交の場をつくろうとピクニックのプロジェクトをやっているんです。
つまり、いま都市論が盛んになっている背景には、ひきこもり的な個人の世界をつくりあげていく一方で、個人間の新しい交通を再定義しようとするような傾向があるような気がするんです。自閉を破るものとしての都市論というのがあるんじゃないか。

難波 そういうものなのかな。都市論というのは。

太田 僕はそう思っています。

■ピクニック=都市の社交場

難波 太田さんたちの世代はよく都市の話をしているでしょう。エネルギーの問題にしてもサステイナブルを論じるにしても、都市の話が必要不可欠だというのはよくわかるけれど、それを実践に移すときにどういう回路があるのかが、僕は今ひとつつかめなかった。これは60年代末の、都市から撤退した野武士以降の世代のトラウマなんですね。メタボリズムまで続いてきた都市への志向に対するアンチで、それ以降建築家は都市について語らない時代があった。僕もその世代の尻っぽにぶら下がっているので、現在もう一度都市の話を出してくるときに、どういう実践ができるのか、その辺を太田さんにぜひ聞いてみたいと思っていたんです。
さきほど挙がったピクニックのプロジェクトでは、どんなことをしているんですか?

太田 僕のまわりでやっている東京ピクニッククラブでは、公開空地や廃線跡地でピクニックをしようというブラウンフィールド・ピクニックと、公園や緑地を対象にしたグリーンフィールド・ピクニックという2つの方向があるんです。いまピクニックセットをつくっているんですが、グリーンフィールド・ピクニックセットはバスケットでできていて古典的なデザインですが、ブラウンフィールド・ピクニックセットはゴム製で軽量化したバズーカ砲みたいなかたちにして、それをもってゲリラ的に空き地でピクニックをしようと。そういう都市のなかの荒涼としたところでも社交ができるようなメンタリティとツールを提案しているんです。

難波 ピクニックというのは社交なの?

太田 そうです。ピクニックは都市の社交として、ロンドンで公園の誕生とともに生まれたんですよ。簡単に言うと合コンなんですけれど(笑)。実際に東京フォーラムの公開空地にラグを敷いてみんなで紅茶を飲んでいたら、警備員に怒られましたけど(笑)。

難波 60年代に寺山修司やハイレッド・センターなんかがそういうことをやっていましたね。久しぶりにそういうことをやる人たちが出てきたのか、面白いなあ。

太田 ピクニッククラブでは紅茶のセットなんかも開発していまして、今度展覧会で出展する予定です。このクラブはランドスケープデザイナー、フードコーディネーター、写真家、グラフィックデザイナーなどが参加していて、まさにクラブ活動(笑)。

■コンバージョンに求められるエレガントな技術

太田 僕らのピクニックの活動も、よく考えたらコンバージョンの話ですね。

難波 そうかもしれない。コンバージョンというのは、僕も最初は粘り強くやればできるものと思って、松村秀一さんがやっている研究グループに入ったけれども、そこに参加している若い建築家のデザインを見ていると、みんななかなか跳べないんです。
テクノロジーには対象物のなかにいかに情報を集積させるかというテーマとは別に、どうってことないものに意味や機能を発見するというテクノロジーもあって、コンバージョンはほとんど後者の技術だと思います。建物のもっている潜在的な可能性の読み方によって、まったく違うデザインが生まれる。だから設計者の発見能力がすごくはっきり出ますね。だからコンバージョンのデザインはゼロからつくるのに比べるとすごく難しいんです。現在のコンバージョンの事例が今一なのは、潜在的な可能性を発見するエレガントな技術を持ったひとがいないからでしょうね。でも唯一、石山修武さんはそれができる人ではないかと思います。

太田 研究会では何をコンバージョンの対象としているんですか。

難波 いろんなオフィスビルをコンバージョンするんですが、性能をアップさせながら魅力的な空間が提供できないと新築のマンションに負けてしまうわけです。でもデザインよりも排水などの技術的問題を口にする人が多くて、綿密な調査をした上で、跳んだ発想を持ち込むのはなかなか難しい。本当に重要なのはライフスタイルとイメージなんです。

太田 そうかもしれませんね。

難波 飛躍したデザインが生まれた後に、それをどう解決するかでハードな技術が必要になる。コンバージョンの場合、ハードな技術からデザインが出てくることは、ほとんどありません。

太田 ジャン・ヌーヴェルが「建築の柔道」というようなことを言っていましたね。相手が猛然と攻めてきたらその力を利用して背負い投げにすればいいんだと(笑)。いまの大学ではそういう教育はあまりしていない。でも実際に都市で設計をしていると、向こうから都市が向かってくるような感じがしますよね。更地のなかにあなたの世界をつくりなさいということだけやっていくと、相手が猛然と向かってきたときにひるんでしまうんじゃないかな。

難波 学生の課題作品を見てがっかりするのはそこですよね。「この敷地はどういう場所なの」と聞いても「行っていないからわかりません」と平気でいうからね。今のデザイン教育は、猛然と向かってくる相手を受け付けないような能力を植え込んでいる。僕はそこを変えるべきだと思っているんです。

■建築にユーモアを発見する

太田 最近、久が原のロッジ(2003)という集合住宅ができたんです。敷地は交差点に面していて、商店街と住宅地の風景ががらっと変わる境界で、目の前には交番があるという目立つところなので、お施主さんに「みんなが記念撮影するような建物にしてください」と言われたんです。
たくさんの人がその建物の前を歩くから、ちょっとユーモラスにしようと思って、船のようなかたちにしたんです。いつも下を向いて歩いている人が上を向いて歩いてくれるとうれしいじゃないですか。でも表現としては古いと思っていて、足場が取れるまで自信がなかった。でも見に来てくれた人が笑ってくれたとき、肩の荷が降りたというか、うれしかったですね(笑)。
ここは外国人の留学生のためのドミトリーというプログラムで、オーナー住居のほかに9つの個室と大きな共用空間があるんです。この共用空間には、さきほどお話したようなテーブルトップをつくりたいと思って、留学生が共同で使える大きなキッチンと窓際にテーブルを置きました。留学生がカレーとか豆料理とか、、民族料理をつくって食べているのが交差点から見えるといいなと。

難波 ジェームズ・スターリングの建築みたいだね。彼はユーモアの人ですね。セント・アンドリュース大学の学生寮(1968)では、学生が食堂に向かって歩く通路について「ここは試験管のなかを人が流れるんだ」と言っていました。面白いことをやる人だなと思いましたね。

太田 僕はプロダクト分析が趣味なんですが、90年代のインダストリアル・デザインをみていると、コンテクスチュアリズムがベースにあるから、真面目に解くというよりも、まずユーモアでかわそうとするわけですよ。それがかなりのバリエーションをつくっていて、どれも一発芸的なんですが、猛然と向かってくるものを軽くいなすという技術が成立している。それがプロダクトデザインのカギを握っているんですね。

難波 僕が言うのも変ですが、建築もユーモアが大切なんでしょうね。

太田 だから大学でもユーモアを教えたほうがいいんじゃないですか(笑)。

難波 講評会の時に、僕がユーモアの必要性を強調したら、安藤忠雄さんや伊東豊雄さんに大笑いされました。僕はユーモアを解さない人間だといわれていますからね(笑)。そういう人間がユーモアについて語ること自体がユーモアなんです。サステイナビリティやエネルギーの話のなかにもそういうユーモアが必要なんじゃないかな。ユーモアこそサステイナブルデザインの最大のテクノロジーかも知れませんね。

 

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