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jt 2003年4月号
「一室空間的住居の近未来」

難波和彦

家族の解体、女性の自立、子供のいない家族や単身家族の増加といった社会現象が進行しているが、それに関係があるのか、ないのか明らかでないが、なぜか一室空間的な住居が増加している。社会全体で見れば、近代的な核家族が解体し、個人が自立する傾向にあるが、通常ならそれにともなって独立した個室空間を持つ住居が増加するはずである。にもかかわらず一室空間的な住居が増えている。たしかに旧態依然とした建て売り住宅やマンションでは、依然としてnLDKタイプが支配的である。しかしそれらは上に述べたような社会現象を正面から受けとめていないだけで、早晩淘汰されるだろう。これに対し、クライアントの要求にセンシティブな建築家が設計する住宅に、一室空間的な住居が多いのはなぜだろうか。その理由について考えてみたい。

生活と住空間の対応:機能主義批判

まず、生活と住空間の関係について考えてみよう。当たり前のことだが、住居を設計するとき、僕たちは、そこでくり広げられる生活行為つまり機能と空間配列との対応を想定しながら設計する。近代建築における機能主義とは、そのような設計態度を徹底すべきだという主張である。正確に言えば、生活行為に対応していないような空間は設計すべきではないという主張である。近代建築批判は、主にこのような機能主義に対する批判として展開された。

機能主義批判の根拠を調べてみると、いくつかの側面が絡み合っていることが分かる。もっとも一般的な批判は「特定の機能を想定した空間配列は、自由な生活行為を規制してしまう」というものである。この批判は「空間配列は生活行為を決定づける」ことを前提にしている。しかしこの前提は疑わしい。たとえ前もって機能を想定したとしても、完成した住宅においては、生活行為と空間配列は必ずしも対応していないからである。これは当たり前の事実である。この批判は、機能が「壁」によって規定され、他の空間と切り離されているような場合に限り当てはまる。とくに単一な機能を想定した「壁」の場合がそうである。「壁」がなければ、生活行為を想定しても大きな問題は生じない。生活行為と空間配列の対応は、基本的に緩やかである。
これとは正反対の批判として、近代建築の巨匠ミース・ファン・デル・ローエによる「機能は時とともに変化するから、機能に対応した空間を想定すべきではない」という有名な批判がある。この考え方にもとづいて、ミースはすべての「壁」を取り去り、どんな機能にも対応可能な「均質空間=ユニバーサル・スペース」の概念を導き出した。しかしすべての機能を受け入れる空間は、いかなる機能をも受け入れない。ミース自身の建築はともかくとして、この批判に追従する建築家たちは、機能を省みない均質空間によって、世界中に単調な建築をまん延させた。

以上の対照的な二つの批判とは次元が異なる、もうひとつの批判がある。それは「機能は前もって想定されるだけではなく、新たに発見されるものでもある」という批判がある。僕の考えでは、これが機能主義に対するもっとも根本的な批判だと思う。この批判は、機能には二種類あることを主張する。設計の際に前もって想定される機能(事前機能)と、でき上がった空間配列と現実の生活行為との相互作用によって新たに発見される機能(事後機能)である。事前機能と事後機能とは一致しない。両者を明確に区別することによって、錯綜した機能主義批判を整理することができる。
ここで注意しなければならないのは、事前機能は現実を反映していると同時に、クライアントや建築家の「希望」や「幻想」を反映しているという点である。希望は現実化されたかどうかを検証できるが、幻想は現実によっては検証されない。事前機能は事後機能によって検証されるという単純な関係にはない。事前機能は事後機能の中にひそかに忍び込む。とりわけ住居の場合、クライアントや建築家の無意識的な生活像や家族像が、事前機能に色濃く投影される。この点については後で述べる。
いずれにせよ、住まいの設計においては、前もって生活行為と空間配列の対応(事前機能)は想定しなければならない。そうでないと生活行為に拠り所がなくなり、生活行為と空間配列との相互作用は生まれない。しかし両者の対応を「壁」によって一義的に規定することは、できるだけ避けるべきである。生活行為と空間配列を緩やかに対応させることが、新たな対応(事後機能)の発見を喚起する。このような考え方によって生み出されるのが一室空間的な住居である。

一室空間住居の実験:個人的体験から「箱の家」へ

実を言えば、生活行為と住空間の配列とを緩やかに対応させるという考え方は、僕自身の住まいの経験から学んだものである。30年前に結婚したとき、僕は20坪ほどの木造平屋の建物を改造して自邸をつくった。そのときに考えたのは、細かな間仕切りを取り払った上で、中心に比較的大きな空間を置き、その周りに小さなコーナーを付属させるという空間配列だった。台所やトイレも中心の空間に付属し、各コーナーと中心の空間はスライドカーテンによって仕切られているだけの一室空間住居である。中心の空間は約20畳の広さがあるが、寝室や書斎は4畳程度のアルコブ的な空間である。なぜこのような空間にしたのか、はっきりした理由は思い出せないが、僕の師匠である池辺陽が設計した一連の住宅が、ほとんど一室空間住居だったことと関係があるように思う。あるいは一時期、心酔していたクリストファー・アレグザンダーの「パタン・ランゲージ」の影響もあるかも知れない。建築を始めたころからミースの空間の魅力にとらわれていたことも大きな要因だろう。さらには、幼い頃に育った町家の空間体験が刷り込まれていたかも知れない。僕の育った町家は間口3間、奥行き18間のうなぎの寝床で、間仕切壁はほとんどなく、建具だけで仕切られていた。僕の部屋は年齢に応じて徐々にプライバシーの高い位置に移動したが、どこにいても建具を通して家族の気配を感じることができた。こうした体験の積み重なりが、一室空間住居になって現れたのではないかと思う。

結婚して10年目に娘が生まれた。赤ん坊のうちは家族3人で一緒に寝ていたが、娘が小学校に入った時、それまでの夫婦のアトリエ・アルコブを娘の個室に譲った。しかし扉は付けずスライドカーテンのままにした。家族で話し合い、通常はカーテンを開放しておきプライバシーを主張するときにはカーテンを閉めるというルールを決めた。現在娘は20歳だが、とくに大きな問題は生じていない。
この一室空間的な住居に30年間住んでみて学んだことは、壁のない空間に住むには何らかのルール(規則)が必要だということである。ルールが「見えない壁」となり、生活行為を規定する。物理的な壁は生活行為を一義的に規定し、除去するのも大変だが、見えない壁であるルールはフレキシブルに変更することができる。さらにルールを決めるには家族同士で話し合わなければならない。それによって家族のコミュニケーションが生まれる。子供は話し合いを通じてルールを学び、他者との間の見えない壁を少しずつ感受できるようになる。見えない壁はルールだけでなく、制度、言語、作法といった文化的な規則によっても形成されている。そうした文化的な規則を理解できるようになることが、子供の自立ではないかと思う。この自邸の延長線上に「箱の家シリーズ」があることは言うまでもない。「箱の家シリーズ」は僕の住体験から得た一室空間住居の仮説が、現代的な普遍性を持つかどうかの検証だと言っても過言ではない。

さまざまな建築家の住居論を読んで感じるのは、どの建築家も客観的な主張をしているように見えるが、実際は個人的な住体験を一般化しているだけではないかということである。建築家はたしかに住居の歴史や技術に関する知識を豊富に持っている。しかしこと住体験においては、一般の人と大差ないのではないかと思う。違いがあるとすれば、自分の住体験を相対化できることだけだろう。つまり多様な住体験の存在を認め、それを理解しようとする想像力を持っているかどうかという点である。当然そこには限界がある。クライアントはそのような建築家の相対化された住体験を、敏感に感じ取っているに違いない。

家族の変容:幻想と現実

家族の解体が進行し、近未来は単身家族が社会の大勢を締めるというのが最近の統計的趨勢である。あと十数年すれば、人口の大半を占める団塊の世代が高齢化し、本格的な高齢化社会が到来することは確実である。そうなれば夫婦と子供という核家族は、むしろ特殊な家族形態になるだろう。
この問題は二つの側面からとらえる必要がある。ひとつは単身老人の生活補助という側面であり、もうひとつは子供の養育という側面である。さらに身障者の生活補助の問題も含まれるだろう。要するにマイノリティの生活を、社会がどう支えていくかという問題である。

マイノリティの生活は、家族ではなくコミュニティが支えるべきだという考え方がある。老人や身障者に関しては、今後この考え方が支配的にならざるをえないと見られている。子供が自立し、夫婦だけ、あるいは単身者になれば、子供と同居するか、あるいは社会的補助を受けるしかない。前者は核家族の延長上にあるが、子供の人口は減少していくから、すべての老人を子供世代が支えることは不可能である。今後、中心になるのは後者であり、単身者のコミュニティや公的な社会福祉制度による生活補助であることは間違いない。
子供の養育に関する問題はもっと複雑である。男女が対等な立場になるには、夫婦は共働きによって経済的に自立すべきであり、そのためには子供の養育もコミュニティが支えるべきであるという考え方がある。子供は両親を離れても成育できるだろうか。子供の成育にとって両親はどのような役割を果たすのだろうか。この問題に早急な結論を出すのは難しい。しかしながら子供を育てるため近代的な家族形態、すなわち夫婦と子供という核家族制度は、今後も根強く残り続けることは間違いない。夫婦の自立を支える社会的な補助機能(保育所やベビーシッター)は今後ますます増加し、それにともない家族相互の結びつきは緩やかに変化していくだろう。しかしながら家族が完全に解体し、子育てがコミュニティに委ねられる可能性は低いように思える。

その理由のひとつが一室空間的住居の存在である。一室空間的住居には個人の自立に直接対応するような空間はない。閉じた空間がないからプライバシーは実質的に存在しない。にもかかわらずそれが受け入れられるのはなぜだろうか。最大の理由は、それが「家族」の一体感に対する「憧れ=幻想」を表現しているからだと思う。恋愛関係にあるカップル、結婚したばかりの夫婦、幼い子供のいる核家族はプライバシーを求めない。彼らにとって一体的な「恋人」や「家族」は幻想であると同時に現実でもある。さらに身体的・精神的な強さを持った彼らは、見えない壁であるルールを操り、どこにでもプライバシーをつくりだすことができる。彼らが一室空間的な住居を求めるのは、そこに自分たちが自在に見えない壁をつくりだすことができるからである。
しかしながら子供や老人などのマイノリティは見えない壁を操る身体的・精神的な力を持っていない。彼らは空間の物理的な特性に直接的な影響を受ける。自我を持たない幼い子供はプライバシーのない一室空間によって家族に同化し自立を妨げられるだろう。物理的な庇護に依存する老人はプライバシーのない一室空間には決してなじむことはできないだろう。どちらの場合も生活行為と空間配列のズレが大き過ぎる。

「箱の家シリーズ」の複合特性

「箱の家シリーズ」では、生活行為と空間配列を緩やかに対応させ、マイノリティが身体的に適応できるような住空間をめざしてきた。これまでの「箱の家シリーズ」は、すべて以下のような10項目の特性を持っている。「箱の家−1」から今日に至るまで、これらの特性は基本的に変わっていない。
1)ローコストであること。
2)コストパフォーマンス(コスト当たりの性能)が高いこと。
3)メンテナンス(維持管理)が容易であること。
4)自然のエネルギーを最大限に利用していること。
5)構造がしっかりしていること。
6)内部が開放的で、一室空間的であること。
7)天井の高い、ゆとりのある空間を備えていること。
8)将来の住まい方の変化に対応できる柔軟性を備えていること。
9)単純な箱型のデザインであること。
10)コンパクトだが、大きく見えること。
これらの特性はコストパフォーマンスを最大限に確保するために、それぞれの設計条件から余計なノイズを取り除き、システムを単純化した結果うみ出されたものである。あくまで固有な条件からスタートしているのだが、個々の条件を徹底的に単純化していき、それがある限界を越えると、解答は普遍性を持つようになる。

これらの項目を見ても分かるように、一室空間的な住居は単に生活行為と空間の対応だけから生み出されたものではない。項目相互は緊密に絡み合い、互いに支え合っている。どのひとつを取り去っても「箱の家」は実現できない。
たとえば一室空間的な住居は最終的な解答ではなく、壁の省略によって建設コストを下げ、将来のフレキシブルな変更を許容するための提案である。コンパクトで箱型のデザインは、何よりもローコストを実現するための条件である。一室空間を単純な箱型にまとめることによって、明確な表現と合理的な構造を実現することができる。単純な構法システムはコストパフォーマンスを高め、メンテナンスを容易にする。吹抜は一室空間に変化を与え、壁なしでも緩やかなプライバシーをもたらす。吹抜は深い庇と組み合わされて季節の日射をコントロールし、一室空間を自然光で満たし、自然の通風を可能にする。このように一室空間は、単に生活のあり方に対する提案だけでなく、コスト、構造、エネルギー、表現などの提案が絡み合った結果なのである。

「箱の家」の展開

「箱の家」の特性は基本的に変わっていないとはいっても、解答としての「箱の家シリーズ」の仕様は少しずつ改良され進化している。大きな変化は、構造、構法、設備といった物理的な性能の面で生じている。初期の「箱の家」に比べると、最近の「箱の家」の性能は格段に向上し、その分コストも上昇してきた。それに比べると一室空間的な住居という特性はそれほど大きく変わっていない。その理由は、「箱の家」のクライアントが、一室空間的な住居という特性に魅力を感じて依頼してくるからである。この意味で一室空間的な住居が「箱の家シリーズ」の核となる特性だといってよいだろう。
とはいえ1994年にスタートして今日まで8年間の「箱の家シリーズ」を振り返ってみると、一室空間の構成にも微妙な変化が生じていることが分かる。
初期の「在来木造シリーズ」は「箱の家1」からスタートし、「箱の家21」で終了した。「箱の家1」では子供の空間は寝室コーナーと勉強室に分かれ、夫婦の寝室は閉じた部屋であった。プロトタイプとはいえ、きわめて特異な解答だったといってよい。夫婦だけの「箱の家17」において、初期シリーズはもっとも単純化された一室空間住居に帰着する。「箱の家21」は「箱の家1」とほとんど同じ設計条件だったので、それまでに学んだことをすべて注ぎ込み、もっとも標準的な解答に到達した。居間、食堂、台所、和室は一体的な空間となった。子供部屋は独立したアルコブに、寝室はクローゼットを備えた部屋となり、小さな書斎を実現している。
「箱の家23」で初期の型がガラリとシフトする。これは画家の家であり、アトリエ(仕事場)を住空間に取り込むことによって、住居全体の空間配分が大きく変わった。1階は開放的な共有空間で、2階に夫婦寝室と子供室が浮いている。この型はその後の「箱の家」にも反復され、「箱の家34」では町家的な敷地に変換されている。現在設計中の「箱の家67」もその展開型である。
「箱の家17」以降、一室空間の「箱の家」はさまざまな形で展開した。若い夫婦のための「箱の家40」は集成材造シリーズの決定版といってよい。その後、子供が産まれたが、まだ間仕切りなしで生活している「箱の家48」は中年夫婦の住まいだが、不定形の敷地のため「三角箱の家」になった。今回発表する「箱の家58」は若い夫婦と子供1人のための住まいで、1階が駐車場なので箱が宙に浮いている。「箱の家60」は3階建てで、老婦人2人のための住まいである。このように完全な一室空間的「箱の家」のクライアントは、未分化の家族か、分化し終わった後の家族である。

箱の家版・個室群住居

「箱の家22」は「箱の家21」で追求した標準的なプランを、もう一歩先まで推し進めたものである。ここには夫婦寝室と子供室という区別はなく、家族のメンバーがそれぞれ同じ広さのコーナーを持っている。アルミエコハウスも同じような個室の配列の平面構成であり、吹抜にかわって中庭が住居全体を統合している。いずれも住居内に仕事場を備えている。
このような空間構成は、これからの家族のあり方に対するひとつの提案である。一室空間によって共同生活を営みながら、家族のメンバーがそれぞれ自分の空間を持てば、夫婦、子供、老人が同居できるような住まいになりうるのではないか。僕はこれを「箱の家版・個室群住居」と名づけたい。これは核家族のためだけでなく、もっと多様な家族を許容する住居の提案である。たとえば「箱の家50」は夫婦と子供1人に、年老いた夫の父と寝たきりの妻の母が加わった複合家族のための住居である。これも「箱の家版・個室群住居」のヴァリエーションだといってよい。現在設計中の「箱の家87」は夫婦に子供二人という典型的な核家族のための「個室群住居」である。

社会学者の上野千鶴子は『家族を容れるハコ・家族を超えるハコ』(平凡社2002)のなかで、建築家は近未来の住居のために、次のような四つの課題に取り組むことを提唱している。
1) 家族の多様化に対応した、多様な住宅モデルを提案すること。
2) それは多様な選択肢を含み、汎用性があり、家族の拡大期だけではなく、家族の縮小期にも対応するモデルであること。
3) 食事、就寝、育児、介護だけではなく、生産的なアクティビティの空間を含むこと。
4) 家族の内部にあった機能を、外部に組み込むことができるようなコモン空間を提案すること。

「箱の家シリーズ」は3つまでの提案を受けとめてきた。次のステップは「箱の家版・個室群住居」を集合化させ、最後の提案に答えることではないかと思う。

 

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