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『GA HOUSES 73 JAPAN 5』
プロトモダニスト石山修武

難波和彦

ここ数年来、石山が追究しているテーマは開放系技術=オープン・テクノロジーである。開放系技術によってつくられた住宅を、石山は「オープンテック・ハウス」と名づけている。その第1号は彼の自邸「世田谷村」である。「世田谷村」は鉄骨造で4本の鋼管支柱を引張材によって補強し、その上に鋼板製の船を載せたような単純な架構によって構成されている。そしてその中に石山が開発した数多くの実験的な建築部品が組み込まれている。石山はこの建築を建築家として設計するだけでなく、コンストラクション・マネージャーとしてさまざまなメーカーや職人を組織し、さらにはありふれた技術をブリコラージュし、新しい部品を開発しながらつくり上げた。石山はこの試みを通して、誰もが自分の住宅をつくることができるような建築技術のあり方を提案しようとした。そのような開かれた技術を石山は「開放系技術」と呼んだのである。
開放系技術には、たんに住宅の建設技術のオープン化だけでなく、住宅の建設コストをグラスボックス化することまでが含まれている。石山は住宅部品の流通や職人の再編成までを視野に入れようとしているのである。
専門化・高度化した技術を手元に引き寄せ、デザインすることと作ることを一体化しようとする試みは、バックミンスター・フラー、ジャン・プルーヴェ、イームズ夫妻、日本では池辺陽、広瀬鎌二、剣持伶といった人たちの仕事に通ずるものがある。しかし石山の仕事は一点において、こうしたモダニスト達と決定的に異なっている。モダニストにとって、工業化とは表現の一般化であり標準化であった。それに対して石山は、建築の表現性、アート性を決して捨て去ろうとはしない。石山は建築の工業技術化に反対はしないが、そこに「個人の顔」を求めようとする。石山のヴィジョンは技術の一般化=無個性化ではなく、差異化=個性化である。石山が職人にこだわる理由はそこにある。石山にとって、技術を開くことは職人の個性の表現を取り込むことでもあるのだ。
こうした石山のヴィジョンは、モダニズム初期に展開したさまざまな試みに重なってみえる。たとえば石山は自分の仕事とウィリアム・モリスの仕事の共通性にたびたび言及している。石山が多様な生活用具を開発製作し直売している世田谷村市場は、モリスが自作を展示販売したモリス商会を連想させる。製品には個性的なデザインが施され、手作業によって製作されている点も共通している。あるいは、石山が主宰する職人芸術建築ワークショップ「早稲田バウハウス」にも、ワイマール・バウハウス創立(1919)当時のヴィジョンである職人としてのデザイナーの育成という目標が引き継がれているように思える。
このように21世紀初頭において、20世紀初頭に勃興した初期モダニズム・デザイン運動をもう一度辿り直すことに、どんな意味があるのだろうか。僕の考えでは、そこには大きな可能性と問題性が潜んでいる。
20世紀初頭に勃興したモダニズム・デザイン運動は、産業革命に始まり、19世紀を通じて拡大していった近代テクノロジーにふさわしい都市・建築をつくりだそうとする運動だった。モダニスト達は新しい建築や都市のデザインを通してテクノロジーを再編成しようとした。しかし1960年代にその試みは挫折した。その後、テクノロジーの進展はとどまるところなく続き、現在ではその力は地球環境を左右するまでに拡大している。21世紀初頭に勃興しようとしているサステイナブル・デザイン運動は、地球大に拡大したテクノロジーをふたたび再編成しようとする試みだといってよい。つまりモダニズム・デザイン運動とサステイナブル・デザイン運動は、テクノロジーの再編成という点で共通しているのである。
石山の一連の試みは、こうした大きな歴史の中に位置づけることができる。モダニズム・デザイン運動の初期段階において、19世紀の機械生産技術の再検討が試みられたように、サステイナブル・デザイン運動においては、20世紀の情報技術(IT)を中心とする生産技術の再検討がなされるだろう。石山の仕事は、生産技術がITによって微細化し大衆化することを先取りしているように思える。そしてその先に石山は、誰もが生産技術を手に入れることのできるような社会を夢見ているように見える。しかしそれによって、すべての人たちの個性が開放されるだろうか。モダニズム運動がその後辿ったように、再び標準化が生じることはないのだろうか。いずれにせよ石山は21世紀初頭において、モダニズムの萌芽を辿り直しているこのだといってよい。その意味で石山修武は、いわゆるモダニストでもポストモダニストでもない。あえて名づけるならモダニズムの初心を絶えず問い直しつづけるプロトモダニストというべきだろう。
世田谷村の屋上には野菜や草花を栽培する菜園がつくられている。建築の工業化の新しい方向を模索することと自然に向かうことは、一見すると対立するように見える。しかし人工と自然の両極を併せ持つことが石山の建築観の真骨頂である。それは戦後モダニズムの中で住宅の工業生産化を追求しつづけた池辺陽が、自邸の一部である温室に豊かな自然を取り込んでいたことを想い起こさせる。かつて建築史家の藤森照信は、池辺邸の温室を見て「モダニズム建築には緑がよく似合う」と評したが、プロトモダニスト石山修武の自邸にも、緑はすこぶる似合っているのである。

 

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