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建築文化2002年4月号
第35回建築文化懸賞論文 『サステイナブルデザインは建築を変えるだろうか』 講評

難波和彦

「やはり難しいテーマだったのかもしれない。」というのが、審査を終えての正直な感想である。サスティナブル・デザインはまちがいなく時代の潮流といってよい。しかしその実像は依然として曖昧である。地球環境の保全と建築デザインとを結びつける思想であることは了解されていても、両者を結びつける具体的な回路は明確ではない。というより、むしろ多様な回路の可能性があると見るべきではないか。僕はその多様性にサスティナブルデザインの可能性を見い出せるのではないかと考えて、このテーマを選んだのである。
サスティナブル・デザインのような広大で曖昧なテーマに対して真正面から取り組もうとするとき、陥りやすい幾つかの落とし穴がある。ひとつはテーマの定義から始めることである。曖昧なテーマを明確に定義した上でないと議論は成立しないという考えは一見正しいように思える。しかし実はそうではない。定義にこだわれば、異なる定義を主張する人が必ず出てきて、議論はひたすら前提に遡ってしまうからである。前提に関する議論への深入りは避けた方がよい。それよりも曖昧な概念から可能な限り多様な意味を引き出す方がずっと生産的である。あるいは議論の展開が結果的にテーマの定義になっているような論文をめざすという高度な方法もある。もうひとつの落とし穴は状況論から始めることである。サスティナブル・デザインを生み出した時代状況を知ることは、確かに重要である。しかし状況論は問題を明らかにするだけである。状況論をいくら精緻に展開しても、そこから具体的な提案はうまれない。意識されているいないにかかわらず、状況論は何らかの立場や視点を前提に成り立っている。一見、客観的に見える状況論は、常識的視点から見た陳腐な状況論にすぎない場合が多い。デザインとはそうした状況論から飛躍することである。特異な視点でとらえた状況論からしかユニークな提案はうまれないと僕は思う。
ほとんどの論文が、こうした二つのアプローチを取っていた。僕の考えでは、どちらのアプローチもサスティナブル・デザインの多様性をくみ取ることは難しいと思う。そこから良質な評論が展開される可能性はあるが、具体的な提案は出てこないだろう。評論が無意味だと言うつもりはないが、僕が期待したのはサスティナブル・デザインが建築にもたらす変化の予測と具体的な提案である。というより、本来ならテーマの定義も状況論も、それ自体が提案でありデザインであるはずだ。
さらにもうひとつの落とし穴は、サスティナブル・デザインをポリティカル・コレクトネス(PC=政治的正義)としてとらえることである。「地球環境に優しいデザイン」とか「エコロジカルなデザイン」というキャッチフレーズは絶対的に正しい。具体的な内実を問わないでも正しいに決まっているような言葉を使うことは自己欺瞞である。それは現実を変えることなく、問題を解決した気分にさせるからだ。残念ながらそうした危険な罠に嵌ってしまった論文も散見された。サスティナブル・デザインをそのようなキャッチフレーズにしてはならない。まずPCを疑うことから始めなければならない。かといってサスティナブル・デザインを頭ごなしに否定することもまちがいである。僕たちに必要なのは、サスティナブル・デザインを検証可能な提案へ具体化することである。

それまで主流だった思想が時代の変化に対応できず、それに対抗する別の思想に取って代わられるというような歴史の見方がある。モダニズムがさまざまな問題をもたらした結果ポストモダニズムに移行したとか、あるいはポストモダニズムの時代は終わり今やサスティナブル・デザインが主流だというような歴史観である。僕はそうした見方を取らない。そうした歴史観は分かりやすいが、二重にまちがっているからだ。新しい思想が古い思想に取って代わるという歴史観は、そもそもモダニズムのものである。モダニズムを否定する思想がモダニズム起源だというのは単なる自己矛盾でしかない。思想は簡単に取り替えられるものではない。マルクスが『ルイ・ボナパルトのブリュメール18日』で書いているように「人間は自分自身の歴史を創るが、しかし、自発的に、自分で選んだ状況の下で歴史を創るのではなく、すぐ目の前にある、与えられた、過去から受け渡された状況の中でそうする」のである。ポストモダニズムもサスティナブル・デザインも、モダニズムに対立する思想ではなく、むしろモダニズムの成熟がうみ出した思想ととらえるべきである。その意味で、サスティナブル・デザインにはモダニズムの全歴史が埋め込まれているといっても過言ではない。モダニズムは依然として時代の底流を流れている。過去のまちがいを清算し、新しい思想にもとづいて新しいデザインを追求すべきだという発想は、陳腐なだけでなく危険でさえある。それは再びゼロからやり直すという発想に結びつくからだ。サスティナブル・デザインはそうした発想とは正反対である。サスティナブル・デザインはまちがいも含めて過去を与条件として受け入れるところから出発する。思想としてのモダニズムだけでなく、それがうみ出してきた近代建築群をどのように継承するかがサスティナブル・デザインの一つの大きな課題である。僕が「モダニズムが伝統となった」といったのは、そのような意味においてである。しかしこの問題に注目した論文はわずかだった。ほとんどの論文がサスティナブル・デザインをテクノロジーやエンジニアリングの面からとらえていた。それをモダニズムの歴史にまで拡大する課題は依然として残されたままである。
広大で曖昧なテーマに対し、それぞれの論文が「群盲象を撫でる」印象だったのはやむを得ないと思う。たとえ僕自身が応募したとしても、サスティナブル・デザインを総合的にとらえることは不可能に近いからである。むしろ僕が期待したは、予想外の視点から一点突破式にアプローチするような論文だった。しかし残念ながら、僕の予想をはみ出すような視点を持った論文には出会えなかった。

寺田高久氏の『21世紀型建築への新5原則づくり』を下出賞に選んだ理由は、テーマに対する視点が総合的でバランスが取れているからである。しかしそれ以上に決定的なポイントは「新5原則」というかたちでサスティナブル・デザインの指針を提唱している点にある。僕としては、この「新5原則」にすべて賛同できるわけではないが、このように総合的な指針を具体的に示した論文はほかには見られなかった。ル・コルビュジエがモダニズムの宣言書として書いた『建築をめざして』からとき起こし、モダニズムが提唱した機能主義を実証的に展開させたデザイン原理としてサスティナブル・デザインをとらえる視点にも共感を抱いた。ブリーズ・ソレイユや中和壁といったル・コルビュジエのデザイン言語にサスティナブル・デザインの萌芽を見出し、彼が提唱した「近代建築の5原則」をサスティナブル・デザインの視点から読み直すことを通じて「新5原則」に展開させる論理には説得力がある。ただしル・コルビュジエに比較してフランク・ロイド・ライトをアンチ・サスティナブルな建築家と見なしたのは勇み足だと思う。ライトのラーキン・ビルやロビー邸は室内環境制御と建築空間を結びつけたサスティナブル・デザインの先駆的な試みである。そのあたりはレイナー・バンハムの『環境としての建築』に詳しく紹介されているので参照していただきたい。おそらく寺田氏はサスティナブル・デザインを理論的に学ぶだけでなく、実際の仕事の中で具体的な問題として取り組んでいるデザイナーではないかと推測する。建築家は技術者と一体化して「エンジニアリング・アーキテクト」に進化し、設備技術者は「環境マネージャー」に脱皮すべきだという主張は、きわめて現実的で的確な提言だからである。
佳作に選んだ2つの論文、外越裕之氏の『NEXT ARCHITECTURE』と尾曲幸輔氏の『サスティナビリティに向けて、建築家と大衆のこれからの関係』は、いずれもサスティナブル・デザインを特定のテーマに絞り込んで論じたもので、エンジニアリング的なアプローチに対し批評的なスタンスを取っている点に注目した。両者は寺田論文に対するカウンターバランス、あるいは補足的提案になっていると思う。
外越氏は、サスティナブル・デザインの最大のテーマは、時を経るにつれて価値を増加させるような建築をうみ出すことにあると主張する。そしてそのためには技術的な解決だけでなく、建築の経時的変化がもたらす美しさを発見し、さらに建築の時間的資産としての価値を見出すような建築的価値のパラダイム変換が必要であると提言している。建築の歴史的価値に注目した点は評価できるが、問題のとらえ方が観念的で具体性に乏しいのが悔やまれる。
尾曲論文は、テクノロジー主導のメタボリズム的な方法(正)と、香港の九龍城のような無計画でアドホックな建物の成長(反)を対比させ、両者を統合する方法としてワークショップ型設計による「セルフビルド」(合)を提案するという明快な三段論法になっている。サスティナブル・デザインを社会的プロセスとしてとらえた点は評価できるが、デザイン・プロセスのグラスボックス化が、必ずしもサスティナブルな建築をうむとは限らないという問題について、もう少し批評的な視点が欲しかった。

サスティナブル・デザインが時代状況の産物だとするなら、2001年9月11日の連続テロ事件との関連について考えるのは当然のことだろう。事実、このエポックメーキングな事件に言及した論文が幾つかあったが、事件の生々しさのせいか今ひとつ踏み込みが足りないものばかりだった。ワールド・トレード・センター(WTC)の崩壊をハードテクノロジー終焉の象徴と見たり、現実を虚構化するグローバルなIT革命への転換と見る程度では、いささか浅薄である。僕の考えでは、この事件はサスティナブル・デザインの根拠そのものを問い直す契機としてとらえるべきだと思う。ゴミの山となったWTCを見て、建築のアンチ・サスティナビリティに気づかなかった人はいないだろう。あるいは連日報道されるアフガニスタンの映像を見て、近代化に乗り遅れた人々にとって果たしてサスティナブル・デザインがどれだけの意味があるのか、一抹の不安を感じなかった人はいないだろう。大文字の「建築」が西欧の産物であるように、サスティナブル・デザインも近代化を成し遂げた国にしか通用しない思想なのかもしれない。今の段階では、この問題に答えをだすことはできない。しかし僕はそれぞれの国、それぞれの地域に固有サスティナブル・デザインがあり得ると信じて進むしかないと考えている。その意味で、今回の事件はサスティナブル・デザインの多様性をさらに拡大したのだと前向きにとらえたい。サスティナブル・デザインはそのようにして鍛えられていくべき思想なのである。

 

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