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建築文化2001年6月号
難波和彦×松村秀一 『建築の軽さと性能は両立するか』

カリフォルニア感覚

松村――
難波さんのアルミエコハウス(1999)は、材料は軽いけれども、ライト・アーキテクチュアという感じではないですね。

難波――
そうかなあ。全体として壁っぽい感じだからでしょうか?

松村――
かちっとしている。ライト・アーキテクチュアというと、伊東豊雄さんのシルバーハット(1984)とか、屋根がうねうねしている八代市立博物館(1991)とか、あとはガラスで覆われたという感じのものが多いですね、雑誌に出ているのでは。

難波――
ライト・アーキテクチュアには2つの側面があると思うんです。ひとつは、今おっしゃった、納まりもラフで風のような感じのカジュアルな建築ですね。もうひとつは、近代建築の伝統の上にシステマティックに軽くしていく方向です。その2つの面があって、カリフォルニア感覚はどちらかというと前者に近い。僕の場合は、むしろ後者の方だから軽く見えないのかも知れないですね。たぶんそれはミースをどうとらえるかという問題と絡んでいると思います。たとえばミースは徹底してH形鋼を使ったけれども、ケーススタディ・ハウスは、丸パイプだったり角パイプだったりして、ミースのようなこだわりは全然ないですね。

松村――
ずいぶん薄肉になりますね。昔、カリフォルニアのケース・スタディ・ハウスをやっているチャールズ・イームズとかクレイグ・エルウッドとかがイギリスに講演に行ったらしいんですね。スミッソン夫妻か誰かの招待で。それで講演会場から質問が出て、「何でおまえたちの鉄骨とか部品はボルトで接合していないのか」と。ケース・スタディ・ハウスは溶接なんですね。ブリコラージュというか、現場で溶接している。それでけっこう接合のまわりが汚いんですよ。溶接のリードも汚いし。それで「何でボルトじゃないんだ?」という質問が当然の質問として出たらしい。ヨーロッパ的感覚でいくと、工業化というと、乾式で、ボルトで接合して、ディテールがきちんとしていて、メカメカしている。そうしたらカリフォルニアから来ていた人が答えたのは、誰かわかりませんが、「いや、安いからこっちのほうがいいに決まっているじゃないか」と。それでみんなが呆気にとられたという話があって、いかにヨーロッパで考えている工業化というものと、ケース・スタディ・ハウスの人たちがやっていたことが決定的に違うかということの証左だという、レイナー・バンハムか誰かの話が何かに載っていましたよ。

難波――
コーリン・ロウも同じようなことをいっていますね。たしかシカゴフレームとミースの鉄骨建築の比較論だったと思うけど、シカゴフレームは商業主義がうみ出した「事実としてのフレーム」にすぎなかったが、ミースにとってはフレームは「観念あるいは象徴としてのフレーム」であった。つまり同じ鉄骨のフレームでも、ヨーロッパの建築家にとって、それは工業化の象徴だったけど、アメリカの建築家にとってはプラグマティックな技術にすぎなかったといっている(『マニエリスムと近代建築』)。僕としては全面的に賛同できるわけじゃないんですが、分かりやすい説明ですね。ケース・スタディ・ハウスをはじめとして、西海岸のライト・アーキテクチュア派は、工業化ということにあまり意識はなかったんでしょうか。

松村――
いや、たとえばケース・スタディ・ハウスを企画していた『California Art and Architecture』という雑誌−ジョー・エンテンザが編集していて、イームズもその編集スタッフだったみたいですが−を見ると工業化住宅の特集号というのが何冊も出ていますから、工業化ということは、意識はされていたと思いますよ。

難波――
でも、ちょっとうがった見方をすると、大体そういうことをしつこく言うこと自体、うまくいっていない現れだと見ることもできる(笑)。植田実さんと岸和郎さんがまとめた『ケース・スタディ・ハウス』を読むと、岸さんはそういう工業化指向的な面は評価していないですね。シーンとして、空間としての軽さの表現をつくったことに歴史的な意味があったのではないかといっています。ケーススタディハウスの写真を撮り続けたジュリアス・シュルマンも、同じように考えていたらしい。

松村――
確かにそうですね。

難波――
アルバート・フライのフライ・ハウス・(1963/64)があるパサデナはすごく暑いという話ですが、自分の設計の仕方と比較して考えてみると、ケーススタディ・ハウスのようなデザインを可能にしている第1の条件は、カリフォルニアの地中海性気候、平均気温18度という風土がものすごく大きんじゃないでしょうか。

松村――
大きいです。それがいちばんですね。

難波――
そういう気候でないと、内と外を一体化するような建築はできない。もちろん、それがデザインすべてを決定した条件ではないにしてもね。

松村――
難波さんの本(『戦後モダニズム建築の極北』)は「極北」とタイトルにありますね。南ではない。そういう意図でつけられたかどうかは別として、池辺陽の作品を見ていると、やっぱりカリフォルニアとは対極的な感じのもので、極北というイメージなのかなと。

難波――
それはすごい偏見ですね(笑)。でも、結構当たっているかも知れない。要するに、論理やシステムを追い求める人は北に行くんですよ。ウィトゲンシュタインもノルウェーのフィヨルドで船に乗って考えたりした。極北というのは、そういう意味で使ったつもりです。でも、ずっと南に行って砂漠の世界というのもあります。スピノザとかデカルトとかは、砂漠的な乾いた論理ですね。僕の場合は、どちらかというとそちらに近いような気がする。いずれにしても、カリフォルニアとはちょっと違いますが。

松村――
フライにしても、それからシンドラーとか、あるいはノイトラにしても、みんな最終的にカリフォルニアに行っていますね。

難波――
東海岸から西海岸へ行っちゃいますね。その向こうに日本というか東洋がある。

松村――
ええ。その移動の途中でみんな大体ライトに会ったりしていますね。
フライは、初めからカリフォルニアに行く気ではなかったかもしれないですが、ヨーロッパからニューヨークに着いて、例のアルミネア(193*)はニューヨークでつくっていますね。僕が会ったときにフライが話していたのは、とにかくアメリカに行きたくて行きたくて、うずうずしていたと。コルビュジエのアトリエで働いているときから。
アメリカの何が惹きつけたかというと、やっぱり超高層ビルみたいなものだったようですね。あそこに出てくる技術はヨーロッパに全くない。たとえば床にデッキプレートを張っているとか、カーテンウォールに類するようなものがすでに出ているとか、鉄骨で構造を多層でつくっていくというのは、クリスタルパレス(1851)はありましたが、超高層みたいなものはヨーロッパには全くなかったですから、あれがやっぱりシンボリックで、アメリカに行ったらとんでもない技術がありそうだと。それでアメリカに行く。何で西海岸まで来るのかよくわかりませんが。
シンドラーも、やっぱり暖かいところに行きたいということがあったようですね。モダニズムではわりとガラスを使いますが、寒いところでああいう建築をつくると、寒くて住めない。だから思い描いている近代建築のイメージと、ヨーロッパの気候的条件のなかで建築に求められる物理的な性能というものとがもうひとつしっくりこない。ところが、カリフォルニアに行けば暖かいし、シンドラーの自邸(1922)なんか見ると、屋根の上で寝るように設計されているんですね。星空を見ながら寝られる。要するに開放感がある。
フライもそういう志向をたぶん持っていたから、スイス出身にもかかわらず、ずっとヨーロッパに帰らずにいたのだと思いますが、最後に会ったときにそれでよかったんですかと聞いたら、「いや、最高の場所だよ、この辺は。ヨーロッパになんか帰りたくない」と言っていました。おっしゃるように、気候というのは大きいでしょうね。

難波――
あと、歴史的な伝統もないしね。そもそもアメリカは伝統的なヨーロッパから脱出してきた移民の国だし、その中でもカリフォルニアは合衆国に組み入れられるまでに紆余曲折した経緯があって、まったく何もないところに人工的に作り上げられた地域に近い。

松村――
そう。何をやってもオーケーという感じはありますね。フライ・ハウス(1947-53)も宇宙家族の家みたいな、不思議な家ですね。

難波――
話がそれるかも知れませんが、クリストファー・アレグザンダーもウィーンで生まれて、ケンブリッジへ行き、それからMITノ行ってドクターを取った後、カリフォルニアに行きますね。ヨーロッパ人移民のひとつのタイプとして、そういう方向性があるみたいですね。逆を歩んだのがピーター・アイゼンマンで、彼はアメリカからケンブリッジにいってドクターを取っている。二人ともユダヤ人で、同時期に建築を言語モデルでとらえる記号的な視点を提出した建築家だけれど、建築観はまったく対照的ですね。西のカリフォルニアに行くか、東海岸やヨーロッパに行くかに、その違いがはっきりと表れている。

松村――
昔、アレグザンダーの研究室にいた学生がうちの研究室にやってきて、日本の技術の話をしていたら、それはこういう方法でコンクリートをやればいいんじゃないですかと言うんですよ。君は何でそんなに施工に詳しいのと聞いたら、大学院では大体施工を現場でやっていますと。そのとき彼が言っていたのは、プールに使うコンクリートはスプレイングする、バーッと吹き付ければいいんだ、うちは大体それで施工していますなんていう話をしていましたが、コンクリートを吹き付けるなんていうのは、やっぱりカリフォルニアぽいものですね、感覚的に。納まりがラフだというのと一緒で、かちっと型枠をつくって、そのなかに流し込むというんじゃなくて、吹き付ければできちゃうじゃないかというのは、非常にカリフォルニアに特徴的なことじゃないかと思いますね。

視覚的な軽さ

難波――
たとえば日本の伝統的な建築がフランク・ロイド・ライトに影響を与えたとか、明治維新以後、あるいは先の敗戦の後にも、日本からいろんな文物がアメリカに持ち出されて、そういうものが西海岸のデザインに影響を与えていると思いますが、カリフォルニアのノンシャランでカジュアルな納まりと違って、日本は軽いけれども、どちらかというとかちっと納める、そういう伝統があるじゃないですか。だから僕としては、何で日本人がそういうものに惹かれるかという点に興味がありますね。

松村――
でも本来は全く相容れないものではないですか。日本でカリフォルニア的な感じで、ラフに、カジュアルに納めた建物というのは、あまり見ないでしょう。

難波――
石山修武さんが、そうじゃないかなあ。西海岸から建築部品を輸入したり、フラーにに対するスタンスの取り方を見ても、最もカリフォルニア的な気がする。

松村――
石山さんのコルゲートパイプのああいうものはそうですね。ただ、どちらかというと、日本ではなんとなくフィンランドとかああいう系統のほうが受け入れられやすいような気はします。いまから10年ぐらい前ですか、僕の同級生でデザインをやっている人たちと話をしていると、ポストモダンに嫌気がさして、フィンランドの雑誌を読むのが非常に流行っていると。何でと聞いたら、なにもなくて清々しい感じがすると。当然ほかの媒体で流れている建築と全然違って、忘れていた清々しさみたいなものが非常に新鮮で、心がなごむ。だから日本ではカリフォルニア的なものから影響を受けている人は少ないんじゃないですかね。

難波――
ケース・スタディ・ハウスもそうだけれど、ミース経由みたいな傾向が底流にあって、日本の場合は特にミースのフィルターを避けて通れないですね。

松村――
ミースというのは、結局ヨーロッパということですね。

難波――
たしかにそうなんだけど、難しいですね。その辺の議論は八束さんが、最近の『ミースという神話』で詳細に論じています。ミース自体が、アメリカで花開いた面があるから、事態は錯綜している。
僕も2年ぐらい前にはじめてフィンランドに行って、清々しいというか懐かしい印象を持ちました。それは1930年代から時間が止まっているという感じがしたのと、もうひとつは、装飾がなくて一見清々しいんだけれども、日本の場合と違って、さっきのカリフォルニアの気候とも関係があるけれども、実はものすごいヘビーな設備が構法的にも考えられていますね。写真うつりは似ているけれども、気候の違いは大きいと思いますね。現代のオランダの建築も、日本の建築と似ているけれども、実際の納まりをみると、性能においては格段の差がある。だから、見た目をそのまま日本に持ち込むのは、ちょっと危ない感じがします。逆に彼らも日本の建築を見て、大いなる誤解をしている可能性がある。日本の建築は性能的にも表現的にも軽いけど、彼らの建築は、軽く見えても性能的にはとてもヘビーにできている。

松村――
そうですね。昔、アメリカの大学の先生が日本にやってきて、その人はオフィスの省エネの研究をしていたんですが、日本のオフィスはいろいろ雑誌で見ていると面白いものができているから、ぜひいろいろ見に行きたいと。その当時、ちょうど原広司先生の大阪の梅田スカイビル(1993)の施工をやっていて、それで現場に紹介して見に行ったら、大変驚いて、「あんなに、ものすごいお金をかけているように見える建築なのにガラスは1枚だったぞ。どうしてなんだ」と。日本では大体そうなんですよと言うと、「信じられない。アメリカだと、どんなに安いオフィスビルでもダブルグレージングが当たり前だ」と。彼が住んでいるのはシカゴの近くでしたが、こんなものでエネルギー効率は悪くないのかという質問をされました。
だから、ものすごくお金をかけて、テクノロジーも日本にありそうなんだけれども、おっしゃるように、実際はけっこうペラペラなんですね。

難波――
アルミの家も、松村さんには重いと言われたけれど、あのなかでいちばん重いのはガラスですからね。あれはlow-eのペアガラスで、構成部材の中ではいちばん重いんです。ペアガラスを使うと見た目も壁みたいになるし、日本の建築家はそれをいやがる面がありますね。実際、ペアガラスにすると、ガラスの透明感がなくなるから。

松村――
なるほど。なかが見通せないということですね。

難波――
当然、カリフォルニアはシングル・ガラスでしょう。

松村――
シングルですね。

難波――
常に視覚的な軽さと、システムとしての軽さのズレみたいなものがありますね。

松村――
カリフォルニアでは本当に軽いものでつくっても、たぶんシェルターとして破綻しないんですね。寒くないから。ところがヨーロッパでやると、たとえばイギリスのCLASPが軽量鉄骨でつくった学校−クラスプ以外にもいっぱい学校を軽い構造でつくっていますが−が失敗したいちばん大きな原因は、環境の問題ですね。つまり暑いとか寒いとかの問題。それまでの、たとえば煉瓦造の学校と比べると、はるかに寒いんですね。要するに石綿セメント板みたいな薄いもので外壁をパネル化してやっていますから、おそらく鉄骨の部分は結露をするでしょうし、だいぶあとになって書かれた本をみたら、すべてそういう問題で、使っている人にも評判が悪いし、管理者にも評判が悪くてダメだったと。それがたぶんカリフォルニアあたりでは破綻しないんじゃないかな。

難波――
そうですね。日本でも破綻しないですね。ちょっと寒いけれども、日本でもそれはある程度オーケーです、北海道を除けば。その辺の要求条件がヘビーじゃないところに乗っかっているようなところがありますね、日本の建築は。
ケンブリッジ大学にジェイムス・スターリングの歴史学部図書館(1967)があって、その隣に、最近ノーマン・フォスターの法学部棟(1995)ができたんですが、両者の性能の差は見た目にも歴然としていて、驚いた経験があります。スターリングの建築はガラスは小割でシングルだし、パテント・グレージングというイギリスの伝統的な工場で使われていたローコストなシステムを使っています。開口部はジャロジー窓で、気密性は悪いし雨も漏るらしい。竣工した当時はすごくエキサイティングな建築に見えたけれども、フォスターの法学部と比較すると、性能的には比較にならなくて、玩具のように見えました。フォスターの方は、ガラスはめちゃくちゃ大きくてトリプルだし、性能的にものすごいヘビーデューティです。同じライト・コンストラクションといっても、全然違います。30年の差があるわけだけれども。スターリングの建物は機能的にも問題が多かったので、一時は壊されそうになったらしいですが、今では見直されて歴史的な記念物になっています。

性能か、軽さか

松村――
空調設備とかの技術の発達と関係があって、たとえばミースみたいな建築、ガラスと鉄で、もっと工業化したかたちでつくっていくものは世界じゅうで建てられましたが、室内換気はどうするかというと、空調でやるという考え方なんですね。それはなにも破綻してなかった。いまのようにエネルギー危機が出てくる以前は。空調でばんばんやればいいんだと。見た目は透明感があるし、軽そうだ。なかはたぶんものすごく空調しないと暮らしていけないけれども、別にそれはそれで構わないということですね。
結局、エネルギーを消費して室内環境を整える制御技術というものが展開していくなかで、ああいうものが地域性に関わりなく建てられていくんですが、その後、たとえばコストがかかり過ぎるとか、止めるとすぐ結露してしまうとか、いろんな問題が出てきたということはあるでしょうね。

難波――
それはアメリカン・システムですね。そうした考え方は、今後は変えなきゃいけないと思う。でも一方で、軽さに向かう傾向は時代の大きな流れとしてあると思いますから、その方向と性能の問題とがどう調整されるかが、今後の大きなテーマになるでしょう。僕も以前は断熱のことなんかほとんど考えずに、日本の気候だから風を通せばいいやと考えていたけれども、東京のようにまわりの環境がだんだん悪化し、生活様式も閉鎖的になってくると、要求される性能がどんどんヘビーになってくる。そうすると建築も重い感じになる。カリフォルニア感覚はすばらしいんだけれども、室内気候的には注意を要しますね。このフライ・ハウス・(1963/64)を見ても、熱のことなんか考えていないですね。ものすごいエネルギーで冷房しているんでしょう。

松村――
夏はね。砂漠ですから。これはエアコンがないと暮らせないですよ。あとプールがありますけどね。暑くなったら入っちゃう。
フライは最後にカリフォルニアに行き着いて、難波さんがおっしゃったように、気候が穏やかだから、ノイトラでもシンドラーでもそうですが、自然のなかで暮らしているという感じを建築的に表現するというか、自然とそうなったのかもしれない。できるだけ開口部が大きくて、開け放つことができるスライディングのアルミサッシュを、ノイトラなんかよく使っていますが、たぶんあれはヨーロッパではできないと思いますね。シンドラーの自邸も片側は全部開くようになっていて、その建具なんて木の枠にキャンバス地を張っただけのもので、間仕切りだけで、常に外気温と同じはずなんですね。

編集部
あれは日本的な空間じゃないですか。

松村――
日本的ですね。天井がものすごく低いですし、欄間みたいな部分があって、ふすまみたいですね、そのキャンバスを張っているところは。

難波――
『Light Construction』の展覧会カタログを見ても、ヨーロッパのいわゆるハイテク派のつくる一見軽い建築は、カリフォルニアのものとはまったく違いますね。フォスターのビジネス・プロモーション・センター(1993)はトリプルガラスだし、その間に空調空気を通しているし、きわめつけはフランクフルトのコメルツバンク本店(1997)の自然換気窓ですね。自然換気にするための装置が凄いヘビーです。ここまでやるかみたいな感じがあるでしょう。ヴィジョンはすばらしいとは思うけれども、技術的解決としてはやりすぎのような気がします。日本でいえば、僕は田町の元のNECビルの窓のディテールを見たときには驚きましたね。すごいヘビーで、パレスサイドビルからなんと遠くまできたかという印象がしました。これも時代の変化ですね。

松村――
エアフロー。窓のなかを空気が通るんですね。

難波――
そう。でもそういう方向もひとつの答えなんでしょうね。そういった方向と軽さへの指向とがどう結びつくかという問題が、これからの建築界の最大のテーマだと思います。そういう点で、やはり最終的にはせんだいメディアテーク(2000)をどう考えるかという問題に収斂するでしょうね。

松村――
日本はやっぱり難しいでしょう。もともとの日本の建築はそんなにヘビーデューティじゃないものが多いですね。建具だけという、まさにシンドラーの自邸みたいなものですから、冬は寒いわけですよ。だけど局所暖房で、火鉢とかコタツとかあの手のものでしのいでやってきて、徒然草でも夏を旨とすべしと言っているという議論が常にありますね。そういう軽やかさが、たぶんシンドラーの欄間とかそういうものに影響を与えているかもしれませんが。
いまの日本の議論で、環境工学系の人たちの多くは、できるだけ包み込む北の技術――断熱材をたくさん入れて、開口部をできるだけ小さくして、断熱性を高くするという方向でしょう。その根拠になっているのは、日本の住宅の冬が世界でいちばん寒いということですね。日本より北に行っても、家のなかがこんなに寒い国はないんだと。日本はどうもいちばん世界のなかで寒い家で暮らしていて、そのために死んでいる人が多いというようなことを言うんですよ。そう言われると断熱しなきゃしようがない。窓なんか大きくしてはだめだという話になってくる方向の議論ですね。その一方で、昔から夏を旨とすべしで、蒸し暑さというのは風を通してやらないとだめだから、できるだけ開放的に日本はつくってきたし、それが正解であるはずだという考え方があって、これは本州のどの辺でせめぎ合うか。仙台あたりに行くと北方の理屈で、住宅の世界も完全に攻められていますから、開放的であるという方向に話はいかないんですね。

難波――
地域性もあるけれど、建築家は性能的には、なぜか伝統的な建築の方向に向かう傾向がある。ヘビーに性能を上げて省エネを目指すのが、ハウスメーカーを含めた世の中の一般的な傾向で、性能派もそうですね。建築家はそれに抵抗しようとする。その理由は、やはり軽さを求めるせいかもしれません。以前、伊東豊雄さん、構造家の今川憲英さんの3人で、ガラスをテーマに対談したことがありますが、その2人と僕とが対立しちゃったんですよ。日本の夏は日射しがきついじゃないですか。伊東さんはトップライトをよく使いますが、トップライトの熱負荷ってすごいんですよ。僕も何回も失敗したことがありますが、だからトップライトは要注意だと言ったら、「いやぁ、難波さん、シャツ1枚脱げばいいんだよ」といわれた(笑)。僕も建築家のひとりとして非常に悩むところですね。軽さを追求することは、熱的な性能をなんらかのかたちで犠牲にするわけだから。

松村――
そうですね。

アメリカのDIY的生活

難波――
松村さんからみて、軽さは工業化というか、建築生産的にはどうなんですか。

松村――
面白いですね。たとえばフライ・ハウス・のこのキッチンはどうしたんですかとフライに聞いたら、ホームセンターみたいなところにメールでオーダーすれば配達されるんだとか、この屋根のこの材料はどこそこで買ってきたとか、そういう感じなんですよ。アメリカは全体的にそうかもしれないですが、特にカリフォルニアの場合は、要するに売っているものをアセンブルしてつくれるんだという感じがあります。イームズ邸(1949)はそれの理論的な代表的な作品ですが、あそこまで必死にならなくても、現実にそういうことがカリフォルニアあたりで起こっている。
あとは、やっぱりユニオンが弱いとか、いろいろ条件がある。東海岸に行くと、伝統的な職人社会を持っているところですから労働組合が非常に強い。いまではそうでもなくなってきているようですが。そうすると、大工はどこまで仕事をするかとか、左官はこれをやってはいけないとか、職種の分担がはっきり決まっている。ところがカリフォルニアに行くと、そんな既存の社会がたぶん昔はなかったでしょうし、いまでもはっきりしたかたちがないから、どんなつくり方でも構わない。どの職人に何を頼んでもいい。そういう日本にないような自由さがあるんじゃないですか、カリフォルニアには。

難波――
僕がアルミをやろうとしたのも、どちらかというとそっち方向に行ったらいいなと思ってのことで、日本だと剣持怜さんがそうですね。あと、石山さんもそうかもしれない。でも,あちこちから部品を寄せ集めてつくればいいという方向で工業化を捉えているような建築家って、そんなにいないでしょう。

松村――
アメリカではもう現実になっているんじゃないですか、それが。たとえばホームセンターに行けば全部売っているし、日本から輸入住宅を頼むときに、石山さんが昔やっていたときは、石山さんが自分でコンテナでコンポーネント一式を個人輸入されていましたが、いまだと、向こうの港の近くにあるコンソリデーターというところにファックスを入れると、向こうでアメリカの部品を集めてコンテナに一式入れて、ぽんと送ってくる。だからアメリカでは特段意識しなくても、そうなっているんじゃないかと思います。

難波――
アメリカ人て、やたら自分でつくりますね。驚くべきことに、部屋の増築まで自分でやっちゃう。そういうのは日本にはないですね。

松村――
ないですね。何でだろうということですが、おそらく日本は職人が安かったんじゃないか。日本はそこらじゅうに大工がいて、畳屋とか建具屋がいて、自分でやるよりもそっちに頼んでしまうというのが日本の習慣として根づいて、いまでは職人は高くなってしまいましたが、昔は安かったんだろうと。ところがカリフォルニアあたりで職人を使おうと思ったら、高いに違いないと言っていた人がいました。これは根拠があるかどうかわからないですが。

難波――
非常に説得力がありますね。

松村――
あと、アメリカのDIYについてレポートしてくれと頼んだ時にアメリカ人から聞いたのは、アメリカ人というのは、別に家に限らず、何でも自分でやるんだと。クルマは自分で直すし、役所の届け出も書類は自分で書くし、なんでも自分でやりますと。日本のように教習所に通って免許をとるなんてことはなくて、その辺の道を走って練習して免許をとる。だから住宅だけとりたてて自分でやっているという感覚はない。生活が基本的にそうなっていると。
だからフライのような人たちも、アメリカに行ってからは自分でものを買ったりしてやるのは当たり前という感じでやっていたんでしょうね。

難波――
このフライ・ハウス(1947-53)をみても、専門家がやったのと素人がつくったものの中間みたいな感じですね(笑)。

松村――
そうですね(笑)。

難波――
一応これは建築家として設計しているわけでしょう。

松村――
もちろんそうです。

編集部
フライ的な、軽やかにアセンブルしてつくるというのは、日本の建築家はあまりやらないというお話でしたが、実際に街に建っているものでのはけっこう多いのではないですか。

松村――
日本では、その辺に建っている建物は全部そうですよ。建築家的世界だけがそうじゃないのであって、街中に建っている、たとえば角形鋼管とH形鋼、ALC板、そしてアルミサッシュでできたビルというのは、売っているもののアセンブリー以外のなにものでもないですね。もちろんそれはファブで加工したりはしていますが、世の中に流通しているものをアセンブルしたかたちになっていますよ。ALC建築は。

日本の鉄骨造はなぜ消えたか

難波――
僕が興味を持っているもうひとつの問題は、日本で戦前から敗戦直後にかけて、坂倉準三さんが1937年のパリ万博の日本館で賞をもらい、それに次いで鎌倉に神奈川県立近代美術館(1951)を建てますが、その後パタッと鉄骨の建築がつくられなくなる。鉄骨造がふたたび出現するのは'80年代ですね。そうした歴史的な経緯に非常に興味があります。坂倉さんによって日本の近代建築が世界に躍り出たのが鉄骨建築だったのに、なぜパタッと消えてしまったのか。広瀬鎌二さんくらいでしょう、鉄骨にこだわっていたのは。

松村――
だけど広瀬さんぐらいでしょうね、執拗に鉄骨でやっていたのは。
いま使われているようなH形鋼を圧延でつくる、国産化するようになるのは、昭和40年代ぐらいですね。

難波――
霞が関ビル(1968)でしょう。

松村――
霞が関の直前ぐらいですね。そこからあとは、圧延H形鋼というのはどんどんできちゃいますから、設備投資をしてラインをつくれば、あとは鉄鋼業のネットワークでどんどん流れていく。それまでは日本の構造工学の分野でも、鋼構造というのは各大学にはなかったわけです。圧倒的に鉄筋コンクリートですよ。鋼構造は、たとえば東大でいうと仲威雄先生とか加藤勉先生あたりからで、それまでは溶接工学構造だった。建築構造学という名前じゃないんです。構造屋さんの世界でも、鉄骨というのは圧倒的にマイナーなんですね。鉄鋼業が建築という分野に焦点を当て始めるのは昭和30年代以降だし、H形鋼が実際に出てくるのは40年代ですから。剣持さんの秦邸(1967)も、H形鋼が出たというので、バーンとスパンを跳ばして、柱はクボタのGコラムという鋳鋼ですね。

難波――
遠心力を利用してつくった鋼管。

松村――
ええ。いまでもやっていますが、ああいうのが非常に新しかった。それまでは軽量形鋼の、広瀬さんなんかが使っていたのは山形鋼とかですね。

難波――
アングル材と鉄筋を組み合わせてつくったハブマイヤートラスとかね。

松村――
だから相当設計の密度が高くないとできませんね。

難波――
そういう既製品の部材を使ったのは、剣持さんなんかが初めてですか。

松村――
そうじゃないでしょうか。しかも住宅スケールのものでは。

難波――
それはあまり引き継がれていないですね。鉄骨というのは、僕もけっこうやったけれども、一般の人は嫌いですね(笑)。

松村――
まず大工が嫌いですよ、鉄なんて(笑)。一般の人も嫌いかもしれない。錆びそうな感じがあるんですかね。

難波――
アルミはもっと嫌われていますよ(笑)。

松村――
だけど鉄筋コンクリートでやっていたら、軽い建築にはならないですね。ポータブルにも絶対ならない。

難波――
そうですね。話は変わるけれども、僕のアルミの建築って、上部構造が4.5トンなんですが、RCの基礎は55トン(笑)。そういうものなんですよ。

松村――
そうでしょうね。バックミンスター・フラーのダイマキシオン居住空間というのは3トンとかでしたよ、上物は。見た目が軽いということ以外に、アルミのレポートを読んでいても、最後は基礎をどうするのかという問題があって、論理が貫徹しませんからね。

難波――
そう、現場工事だしね。

松村――
現場打ちで、それでたぶん精度も悪いから、アルミの精度がいくらよくても、そこでアジャストするのは非常に難しいようですね。

システムとしての軽さ

松村――
もうひとつの、システムとしての軽さというのはどうなんですか。

難波――
建築家が鉄骨をやりたがるのは、ものとしてシステムが全部見えることの魅力じゃないですか。アルミもそうですね。木も真壁構造の場合は基本的にはそうなんだけれど、ジョイントも含めて、部品が組み立てられるプロセスがすべて見て取れるし、それが表現になっている。それが鉄骨造の最大の魅力なんじゃないかな。僕はいまちょっと鉄骨から手を引いているけれども……。

松村――
何で手を引かれたんですか。

難波――
熱的な性能が難しいんですよ。システムを見せようとすると、至るところにヒートブリッジができるんです。

松村――
なるほど。

難波――
電気代がはっきりと違いますよ。集成材を使えば、鉄骨的な納まりができるから。システムを表現しながら熱をクリアできるので、いまは集成材をやっているわけですね。集成材にはない防火性とか強度が必要な場合、あるいは大きなスパンを跳ばす場合は、鉄骨でしかできないけれども。

松村――
だけど鉄骨で軽い表現にするというのは、けっこう難しいですね。部材そのものがけっこうごついから。アルミでもそうかもしれないですが……。

難波――
それと関係あるんだけれど、現代的な空間は、中心性がまったくなくて、構造も分散している感じですね。大空間じゃなくて、柱や梁だけでなくサッシュも支えている、茶室みたいな空間ですね。どんな部材もすべて等価に、表現にも構造にも寄与しているような構成を理想とするような、究極の民主主義建築というんですか、そういう空間を求めているようなところがある。伊東さんや妹島さんなんかは、完全にそういう空間を追求しているような気がします。

松村――
それはアメリカにはありますね。バックミンスター・フラーのカマボコ兵舎みたいなダイマキシオン・ディプロイメント・ユニット(19**)もそうですが、面材、それから二次部材みたいなものもすべてが構造的に働く、極限の設計みたいなところがあって、あれは日本にはないですね。アメリカにはカマボコ兵舎から発展するメタルビルという分野がありますが、たとえば店舗や工場などの構造指針のマニュアルみたいなものを見ていると、細い部材もみんなで分担する。2×4みたいな感じなんです。感覚的には。日本はどうしても先に構造をつくって、それから二次部材、母屋とか垂木みたいな類のものは構造的にはなにも期待しないという考え方にみんながどっぷり浸かっていますから、向こうのメタルビルを持ってくるといっても、そのままでは日本では通らない。そういうところがカリフォルニアらしいというか、アメリカぽいですね。

難波――
それは効率的だから?

松村――
まさにそうです。安い。フラーもそうですが、完全な合理主義というんでしょうか。最軽量でいちばん大きな空間をということに執着しています。

難波――
日本の場合はそうではないですね。

松村――
違いますね。

難波――
鉄骨量がめちゃくちゃ多い、そういう場合は。ともかく細くして均一にしたいというのがある。

松村――
日本の場合は、メインの構造が骨組みとしてあって、どれが構造で、どれが構造でないかということをはっきりさせる。構造屋さんは完全にそうです。構造しか見ていない。どれが構造なのかと言いますからね。

難波――
僕のアルミエコハウスは、完全にその方法でやったわけですね。伊東さんはそれをなんとかやめたいというので、サッシュと壁と構造を全部一緒にしている。だからそちらの方向へ向かう傾向があるようですね。構造家の佐々木睦朗さんも、かつてはメインの構造を細くして、あとは建築家が勝手にやってくれというやり方だったんだけれども、最近はちょっと方向転換している。それはパソコンのパワーがアップして解析力が大きくなったからでしょうね。細かな部分にも全部力を負担させるようにモデル化できるようになった。妹島さんの今度のアルメラの建築もそうです。6cmか7cmの壁がそのまま構造でしょう。その可能性がどうなのかというのは、僕にはわからないけれども……。

松村――
それはやっぱり可能性があるんじゃないですか。軽い建築というと、たとえばジャン・プルーヴェはそうですが、飛行機とか飛行船とか、飛ぶもののイメージがありますね。航空機のエンジニアリングというのは、安全率が極めて小さいですから、飛ぶか飛ばないか、壊れるか壊れないかぐらいのところでエンジニアリングしてある。ところが、日本の建築の構造のエンジニアリングは、安全率が3倍とかですから、どうしたって壊れないようにできている。なおかつ、たとえば雑壁という言葉があって、たとえばそれは木造でいうと、構造的には期待しない鴨居の上の壁とかですが現実には地震がきたりしたときにはそれは働いているわけですね。だけどそういうものまで組み込んでエンジニアリングする方法をとってこなかった。そういうところは余裕ですよと。
昔、内田先生もよく言っていましたが、飛行機みたいに考えて、どこまでやればつぶれるかというエンジニアリングじゃないとおかしいと。ここでつぶれた、だからここを1mm厚くしておけば成り立つんだというような感じで建物がつくられていないから、余分なものがいっぱいついて、気持ち悪いことになるんだ、と言っていましたけどね。

難波――
それだけぎりぎりの線をねらうようになるりつつあるということですかね、建築も。

松村――
難しいでしょうが、そこの問題がありますね。あとは経年劣化の問題。いろんな予測不可能なことを3倍という安全率のなかで、結局はなんとなくごまかしているわけです。

難波――
それは僕たちが設計するときのモデル化の問題でしょう。かつては現実とモデルとが違っていても、安全率で逃げていたけれども、モデルと現実とをできるだけ近づけていくような方向性がある。その方向性と同時に、軽くしていくという方向性とがシンクロしているような気がしますね。

松村――
そうですね。ひょっとすると、納まりがラフな、カジュアルな感じということとも関係があるかもしれない。たとえばアメリカの2×4は、軽い建築には見えませんが、あれの考え方はやっぱりなんでも働かそうという考え方に近くて、表面に合板を張るわけですね。その合板を構造的に意味づけて、計算のなかに載せるというのは、アメリカがやり始めたことなんです。それまでは板を張ったりしているわけですね。合板になると。合板になったらけっこう耐力を期待できるじゃないですか。それは単なる面材であったものが水平力に抵抗できるものとして期待できるというので、あそこまで踏み込んでやっている。だから合板をはがしてしまえば成り立たない構造になっていますね。
日本ではそういう感じじゃなくて、柱があって、筋交いがあって、いまでは構造用合板に耐力を期待していますが、合板を張り始めたときは、全然そんなことは考えていなかった。

難波――
壁を張る下地ですね。それをモデルに入れようとし始めたということですね。

松村――
そうすると、ミースのなんかはどちらかというと日本ぽいというか、構造と構造でないものがはっきりしていますから。

難波――
それはなかなか難しいところですね。彼のマリオンの問題、構造にみえるけれどもサッシュ、飾りだというのがありますから。

松村――
なるほど。

軽くみせるのはお金と技術

編集部
軽さを追求するというのが特に徴候的にあらわれてきたのは20世紀に入ってからですか。

松村――
まあ、そうでしょうね。

難波――
技術の流れって、基本的にそっちの方向へいくんですよ。建築はその傾向があらわれたのがいちばん遅いジャンルで、それ以外は決定的にそっち方向にいっているわけでしょう、技術自体が。フラーはそれをエフェメラリゼーションといっています。

松村――
日本の場合は、どちらかというと20世紀に入ってから、重々しくなるわけですね。ヨーロッパは軽くなっていくんだけれど、日本はもともと軽っぽいですから、20世紀に入ると鉄筋コンクリートのビルとか、東京駅(1914)でもなんでもそうですが、そういうのは重々しいわけですね。いったんどんどん重くなっていく。

難波――
そうそう。これは人間の心理として面白いと思うんだけれども、最も軽い建築にこだわる国って、イギリスですね。それは最も重い建築の伝統があるからなんですよ。明治維新以後、日本がしばらくものすごく重いものを志向するのは、軽さに対するコンプレックスからだと思います。丸の内にある三井本館は鉄骨造ですが、聞くところによると使った鉄骨は・あたり1トンだそうです。鉄筋コンクリート並ですね。
'70年代末にポンピドゥー・センター(1977)ができて、ハイテックの潮流が出てきますが、その影響を受けた日本の建築家の作品を見ると、すごい重い。日本の70年代には重いハイテックがたくさんあります。日本では、松村さんが言うようにそうした反動がありましたが、最近ようやくまともになってきたんじゃないですか。

編集部
難波さんの別荘資料館(1990)は非常に軽いですね。

難波――
軽いですよ。軽くて透明なんで「桜エビ」というニックネームをつけられました(笑)。あの建築は、配線、配管、空調、構造など、構成部材をすべてを見せようとしたんです。設備を組み込んだ2.4m角のやぐらと12m角の屋根のスペース・ユニットを軽井沢や那須の別荘地に置いていくシステムを考えたんですが、あの建物だけしか建ちませんでした。
ああいう建築をデザインしていた頃は、僕はハイテク建築家と言われたけれども、最近は箱の建築家になっちゃった(笑)。箱も、実はすごい巧妙に仕組まれたハイテクなんですけどね。お金が安いからハイテクには見えませんが。

松村――
徹底的に軽くしていって性能を保持しようとするとか、軽く見せるということは、お金がかかることですね。それから見た目のデザインの流行りということだけでは実現できない、技術的な裏付けがないとできないというようなことはありますね。
たとえばプルーヴェが軽い建築をやっていますが、わざわざ軽く見せるために、薄い鉄板を使ってカーテンウォールをつくったとき、なかにスプリングを入れたりしている。ピーンとなるように。そんなことは実質的にはやる必要はあまりないわけですね。これはクリシー人民フ家(****)の外壁ですが、ちょっと湾曲した感じでピッと張っている感じに板を軽く使いたかったために、ベッドのスプリングを入れていますから、高いわけですよ。昔、ヨーロッパの近代建築を見に行って、たとえばカサ・デル・ファッショ(1936)なんか、ガラスの階段の手摺りなんかぐにゃっとなっていたり、ものすごくお金をかけているなと思って帰ってきた。僕はそれまで、近代建築というのは安いものだと思っていて、安さとか入手のしやすさを追求しているのがひとつは流れだと理解していた。ところが行ってみると、有名な近代建築はすべてすごく高そうなんです。帰ってから内田先生に「すごかったですけど、全部高そうですね」と言ったら、「そりゃそうだよ。ほんものの近代建築というのはうんと高いものなんだ。日本だけだよ、こんなペラペラでやっているのは」と言われました。
近代建築の代表作といわれるものは、ファーンズワース邸だってそうでしょうし、大体お金をかけたプロジェクトですね。いまのハイテック系も全部そうですね。安い建物ってないでしょう。

難波――
ないですね。それでケース・スタディ・ハウスにも面白いエピソードがあります。合板を使うのは、安いからじゃなくて、安く見えるからだと。本当は安くないんだけれども、安くみえるために合板を使うんだというようなことを、エンテンザか誰かが言っていますね。近代建築というのは、見た目は安っぽくみせた、プロレタリアートの表現ですが、実はそうじゃないという面がある。実際は文化的プチブルのための建築だった。

松村――
軽さもそうですね。軽いというと、安いとか非常に手軽であるという軽さとは逆に、本当に軽くしようと思ったらめちゃくちゃお金がかかることになってしまう。コンクリートで壁をつくるのがいちばん安いですよ。

難波――
それと違うのがバラック感覚なんでしょう。バラックというのは本当にペラペラのもの。逆に、究極の、いちばん高い、ヘビーなものというのが、動く建築ですよ。

サスティナブルで軽い建築

難波――
僕はつい先日、松村さんにドクター論文の口頭試問を受けてイジメられたんですが(笑)、そのときも言ったように、やっぱりこれからはサスティナブルだと思いますよ。でも熱容量を確保するために重い建築をつくるつもりは全くない。軽くて、透明で、なおかつ熱的性能もちゃんとしたものをやりたいんだけれど、突っ込んで考えると、けっこう矛盾していますね。お金もかかるし。

松村――
そう。負荷もかかりますしね。

難波――
でもレンゾ・ピアノがやっているようなダブルスキン、ガラスをもう一皮出すとか、ああいう方法もあるし……。

松村――
あれもお金はかかりますよ。ジャロジーみたいなものを外側につけるものですね。

難波――
でも何年かたてば償却するんじゃないでしょうか?

松村――
するでしょうね。お金がかかるというのは、ダブルスキンまでの壁厚がやたらでかくなるので、日本の土地事情では若干難しいかなと思いますよ。

難波――
僕はいまその実験をやろうとしているんです。いままで僕は、南向きに奥行き1間の庇の空間をつくっていた。それが夏の直射日光をカットして、冬の日光を入れるという、直射日光制御装置だったんですが、そこをダブルスキンの温室にしてトップライトをつけ、半外部・半内部の断熱ゾーンにする。夏は直射日光を外側でカットして、雨が降るときも全部開け放しにして、冬はもちろん閉じて直射日光を入れる。そこは防水もなにもかも全部やる。そういうことをやろうとしていますが、どうなるか。そこで初めて僕は箱の家でトップライトを使うわけです。

松村――
いまやっていらっしゃるものですか。

難波――
そう、これから工事になるんですが、竣工は今年末かな。住宅で本格的なダブルスキンをやってみようと思っています。

松村――
サスティナブルということを考えると、軽い建築とは結びつかないだろうなぁ……。

難波――
結びつかない。だから建築家はサスティナブルを非常に嫌う。

松村――
つくらなきゃいいという考え方もありますね。サスティナブルとか、あるいは地球にやさしいという話になると、最後にはつくらないという選択肢が残りますが、でもそれではなぜ建築を人類はつくり続けてきたのかという根本的な問題に立ち返らないといけなくなる。

難波――
軽くするというのは、物量を少なくして、資源をあまり使わないからサスティナブルじゃないかという人もいますよ。

松村――
それはゴミになるまでの年数がどうなのかという問題ですね。たとえば、この間アフリカに行ったら、JAICAの援助で鉄筋コンクリートで学校をつくっているのを見に行ったんですが、もともとある学校というのはどんなものかというと、アドベで、生乾きの日干し煉瓦でつくった丸い家屋のような教室なんです。それにワラの屋根が架かっていて、5年ぐらいたつとワラの屋根が腐って落ちてくる。壁もぐにゃっとつぶれてきて、徐々に土になっていっているんですよ。要するに短いサイクルでダメになる耐久性のない建物でも、土に戻っていく分には、サスティナブルということを考えると、これでいいじゃないかと。変に長く持っても、100年持つとか200年持つとかいっても、そのあとどうしようもないものに比べると、はるかにリーズナブルだと感じましたね。

難波――
その通りなんだけれども、ものをつくる人間としては、新しい別の答えを探したいんですね。

 

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