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箱の家 PROJECT 青本往来記
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規格構成材理論の清々しさと自由(国際的)な生活 渡邊大志 2014年07月20日(日)

これからの建築における小建築について生活はますます中心になる、というのが私の基本的な考えである。ただし、そこには必ずしも生活すなわち住宅とはならない前提がある。

世界でも特殊な日本の持ち家政策が生み出した戸建て住宅は、建築モデル=社会モデルとなる役割をすでに終えている。そのため、ある社会性を住宅に内在させようと試みるならば中規模以上の量産か集合化が前提となるべきである。その意味で、規格構成材理論はそのような現在をいまだに貫く理論足り得ている。しかし、そこにはどのような類の生活が想定されていたのであろうか。そしてその生活は理論同様にいまだに現在を貫いているのであろうか。

結論から言えば、今回剣持レイ(日令)のH邸を実見する機会を得て、1960年代まで日本の小建築が微かに保っていた1950年代の日本の理想(夢)の残滓を見た心持ちがした。H邸には社会モデルとしての規格構成材理論の理想とH夫人とその娘さんのお人柄の中に亡くなってもなおこの住宅に棲み続けるH氏の生活の両者がともに良く保存されていたのである。

1967年に建設されたH邸には東大占拠を翌年に控えた社会背景が色濃く影響したと想像する。剣持は1970年に表面上のピークを迎える高度経済成長期のアメリカ的な豊かさの端部に、全共闘よりも1年早く規格構成材理論というより鋭利な抜き身の刀を突きつけたのである。それは日本固有の大工棟梁制度を覆い尽くすアメリカ型の住宅ローン制度と連動した持ち家政策に突きつけられた刀であった。直営方式を支える部品メーカーへ支払うお金と工務店としての設計者が受理する旧態依然とした設計料というお金の質の違いを一緒に扱う矛盾がおざなりにされた部分があったが、13m×8mスパンのGコラムが放つ明快な構成にはそのことを実利の上での些細なことと思わせるだけの清々しさがあった。その清々しさの核は、住宅の世界に閉じない精神の健全さである。

それは世に言われるオープンシステムが持つ役得に相違ない。それは知識としてしか剣持とその理論を知らない世代である私にも感じ取ることができた。鉛直ブレースを許さない純粋ラーメンの構造と完全な水平梁は基本的な原理をそのまま形にしたもので、いきなり応用編に取り組むことを好み易い日本人の気質からして剣持の原理主義者の精神が鋭く抜きん出ていたことは否応なくわかる。

その一方で、住宅について語るときアメリカ文化化された戦後日本の落とし子である私にとっていまだ明瞭に理解できないものの一つに生活がある。1私にとっての生活は日本の1980年以降の消費的都市生活であり続けてきた現実があり、人間本来の生活が住宅の中で判然としない、という事態が歴然としてあった。その種はどこで蒔かれたものであったか。

 住むための機械であったヨーロッパの近代住宅理論はもともと地中海性気候の影響下で生まれた。一般に機能美と解釈されたこの西洋理論の受容に際して、日本人はアジアモンスーン・シェルターの下での湿気のある生活を前提としたもう一つ別の体系の理論が本来は必要であった。しかしながら、西洋的な生活との違いはその後の日本の性急な近代住宅史の中で工業化の理論の外に置かれ、あるいは食寝分離論などの都市生活の問題にすり替えられていった。こうした日本の近代住宅史に対して、H邸の翌年の1968年に発行された最初の建築学大系の巻頭論文のテーマに吉阪隆正は生活学を掲げている。人類誕生から紐解くような吉阪の生活学には消費的都市生活とは異なる1950年代の民家における生活の名残がその類型モデルから感じ取れる。いわば日本国民が国民生活を民家から近代住宅へ移行する過渡期の生活である。

吉阪自邸が建設されたのは1955年であり、H邸の12年前に当たる。剣持の規格構成材の純粋理論と吉阪の人工土地理論はその依って立つ価値観が極めて異なる。しかしながら、吉阪自邸のRCラーメン構造の躯体にレンガブロックを積んでいく建設方法は、H邸のGコラムのフレームにALCパネルで壁を作る構成と平面計画を束縛しないという点では似た構成にも見える。そのとき、理論はそこに暮らす人間の生活表現に関わるのであろうか。

吉阪自邸の1階の床は2階より上の人工土地と無関係な日本的土間であった。スイス大使の息子であった吉阪が生まれながらに国境を越えていった自由人としての気質が良く現れている部分である。吉阪はコルビュジェの理論と造型に影響を受けつつも融通無碍にそれを変容して日本に着地させた。吉阪はそうして建築学大系の第1巻に日本独自の生活学を述べた。それに対して、H邸は日本における特殊な近代から生まれた工業化理論の結晶である。剣持は中空に持ち上げた2階スラブと屋上スラブに関わる鉄骨梁とALCの水平スラブに関しては、執拗にその規格構成材の理論の徹底に固執したが1階の床には比較的意識が薄かったようである。それは何故か。

剣持にとっての1階の床はGコラム4本が独立するための大地であって、それ以上でもそれ以下でもなかった。現在の立派なH邸の前庭が剣持には関心の対象外であったことからもそれがよくわかる。剣持はH邸の1階を当初外部空間にするつもりで、土足を想定していたとH夫人は仰っていた。H氏のカメラマンとしての職場とその後のステンドグラス製作に打ち込むための工房として使用するために竣工後すぐに増築をしたそうである。そのため、急遽剣持自身がこれは手仕事によるオリジナルの下駄箱をデザインしてもいる。また、ピアノを置くことが後から想定されたために、その荷重を支えるべく該当する床部分の下地を増した関係で今も50ミリ程の微妙な段差が1階の床に残されている。こうしてH邸の中空に浮く規格構成材理論の足元にはドキュメンタリーな生活の微地形が剣持の理論の外で生まれた。

構造と外壁内壁を明快に分離した剣持は生活を2階の中空に持ち上げようとした。そしてそこからこぼれた生活が大地にそのまま散りばめられた。それに対して吉阪の人工地盤では構造と生活が最後には一緒くたになった。

一方は生産と生活を明快に分けることで純粋なモデルを作ろうとし、一方は構造の中に生活を内在させることで不連続なモデルを作ろうとした。それは設計者の設計者であることへの無関心と創作者が生活表現者であることの自由のそれぞれの表明の形に他ならない。その両極の間に、住宅の本来の中心である「生活」は浮かんでいる。この点に人間本来の本質的な「生活」が近代の深淵にあったという視角は凝縮される。

剣持の規格構成材理論は純建築の一つの形式として疑いない。ただい、約50年を経て、その通底には個人のスケールでの国際的な移動が日常となった時代の生活が現在あることにも留意した上で展開されるべきである。例えば、その反動として、私たちはむしろ1950年代のモノを生産する生活に努めて帰ろうともするのである。H邸が生産論としてだけでなく、剣持が夭折したために為し得なかった流通論としての原型を現代に担保しようとするとき、そのような生活の現在における市場のオープン化は自明である。H邸の既製品は全て建築のための専門特化された部品であったという枠を越えてはいない。コンピュータ時代の検索・流通能力を前提とした規格構成材理論が「生活者の生活」を軸にふたたび論じられるべきではないか。

渡邊大志


剣持れい(日に令)が投げかけていた微細な民衆像の粗型について 佐藤研吾 2014年07月19日(土)

神奈川県川崎市郊外の小高い丘の上に建つH邸は、建ってから既に50年弱の時間が過ぎている。今のその住宅は、まったくもって周囲の住宅地の風景の中に溶け込んでいた。前庭は立派な生垣と芝生が整えられ、H邸の文字通り骨格である4本のGコラムの鋼鉄既製柱の架構は明らかに周囲からスケールを逸脱していたが、その架構の内には数々の住宅部品が、50年の月日が経ってもなお生々しくならんでいてその巨大な構造をぼやかしていたようにも見えた。竣工当時明らかに時代の先進に位置していたH邸自体が時間によって翳んだのか、それとも周囲の景色がH邸に追いついたのか。そんな風景の内奥について考えてみたい。

H邸の設計者である剣持れい(日に令)の中心にあったのは、まずは理論(方式)を据えてみようという実践的な「思想」である。理論一辺倒でいったんは組み立てた後に、理論と現実の間のなかに生れ出てくる矛盾といったものをすぐさま実践の中で解決していくという段階的戦略性の持ち主であったと感じられる。規格構成材方式という部品生産の論理は、個々の多彩な実践を産み出すための土壌、あるいは秩序として彼の活動の中に位置づけられている。

産業システムに介入して市場を整え、さらにはその生産構造の末端に位置する現場における自由を成り立たせることを剣持は独人で構想し目指したのだが、そこには明らかに黎明期の共産主義と共有する感覚がある。その姿は自己演出的に誇大で、それでいて状況に対して本質を暴くパワフルな振る舞いであったと想像する。

H邸を設計した1967年、剣持はわずかに29歳であったという。ちょうど彼が東大内田研究室で博士論文を提出した次の年である。博士論文「開口部論」を今読むに、その論旨からしても彼の取り組みは内田研究室で継続的に取り組まれてきたB.E.(Building Element)論の応用にあたる、後期的展開としての1つの必然でもあったようである。論のなかで剣持は、B.E.自体の存在を人間の道具であり生活という目的のための手段とその必要に基づくものとした上で、その命題論理の先に新たに「人間の意図・利益」という指標を導入している。その指標によって開口部とは具体的には建築の内部空間と外部空間とを行き来する環境要素(作用因子とB.E.論では呼んでいる)を選択的に統御する部分(透過B.E.)とされている。その環境要素を具体的な空間の中でどう統御するのかという課題に対しては論文では触れられておらず、剣持は恐らく企業コンサルとしての製品開発への参画と、自らの設計活動の実践によってその課題に応えている。

剣持が設計したH邸においても風呂トイレを中央に集めた所謂コア・システムが小規模ながらに採用されている。居住空間は上階に浮び地上階には自動車も停められるピロティが配置されている。そのピロティには竣工直後に早速増築され、上階の居室空間も屋根の内側に納まって間仕切り壁の可動性と可変性を担保されていたその建築の代謝性は明らかに戦後日本が辿った当時の建築潮流の中に置くこともできるだろうが、そうした建築の内部での使い手の自由な行為を担保する建築生産におけるシステムの周到さを持った剣持とその他の建築家との間には大きな隔たりがある。

開口部を主たる問題として提示してみせたものとしては、剣持と同じく内田研に所属していた原広司の有孔体理論がある。原の有孔体理論も内田研のB.E.論からはじまる建築構成材に関わる命題を順々に解き進め、人間の役得としての制御装置としての開口部の在り方を考えようとした意図は剣持と全く変わらないが、原は集合の論理を導入することで実体の建築部品の考究には行かずにあくまでも抽象的な図式に留まった点においては剣持が進んだ方向とは真逆である。剣持のそれが部材同士の実際的な取り合いの要求からくるモジュールの設定とそのモジュールに基づいた部品生産システム内部への参画と改革であったのに対して、原の論理はあくまでも西欧的近代の美学を根拠とした丹下健三のシステム論の展開の類型であった。原や丹下をはじめとする当時の建築家の取り組みはあくまでも建築家という自我とシステムの無我の間を揺れ動く自身の創造の根拠を巡る構制とアイロニーの中にあり、特に丹下が目指した、近代の社会システムが標榜する民衆像の具現としてあらわれる自身の固有な存在価値は、あくまでもそのシステムの外部に位置づけられていたのである。

戦後日本の建築生産は大量生産化と標準化に向かい、殆ど全ての建築において現場ごとに品質に差異が現れる湿式工法は淘汰され乾式工法部材が採用された大局があるのは周知のものである。それ故に剣持の開口部の研究は、乾式工法が基本とされる生産市場を前提として、ガラスという材料性能分析とともにとりわけ壁や床といった遮蔽部品との建具・構成材の取り合い、納まりに基づく部材寸法規格の研究に特化したものであった。規格構成材という創造的単語からも分かるように、環境性能を規定するガラスとそれを保持する建具サッシを一体のものとしたスケールのユニット部品の流通を市場の中で推し進めた、工場生産と現場工事の両者を連続させる彼の特異な総体的視座があるし、また住宅のカタログ的販売形式の萌芽を剣持の総合的活動自体が表現していたとも言える(※1)。

とは言え、構成材の製造精度の限界を認識した上で、その隙間は最終的には現場のコーキングやシール材の埋め込み作業によってその誤差を修正・補正しようという「用意」とも呼べない用意を備えることを一般とする方式であることも見落とすわけにはいかない。そうしたささいな現実もまた間違いなく、彼の論文における「人間の個性とその尊厳を、物質的手段として技術の類型化・画一化を超越した、より高次の次元」における作業の1つに他ならないのである。

その呆気らかんとした、理論が現実へ着陸するその瞬間においてはやはり、工場生産システムの整備以上に、直轄直営方式に見られるような使い手となる生活者への人格的信頼と個々の建築現場に携わる地域生産力の存在が第一の根拠としてあったのではないかと考えてしまう。「バカチョン術」と呼ぶ現場での実践の形は、かつての江戸時代のような生き生きとした民衆像がその基底としてあったのではないか。江戸の人びとがだれでも自分の住居の間取りを考えられ、直接に町の大工を呼んで家を建ててもらったその町の風景である。西洋由来である「建築」、「建築家」の輸入によって一度は失いかけたその風景を、戦後日本の工業化によって、再びとりもどそうとする実践の有様であったのではなかろうか。

民衆、あるいは大衆をめぐる議論は、安保闘争や学生紛争をはじめとして戦後日本社会に常に横たわってきた。しかし、そんな幻像としての民衆に対して、剣持の一歩踏み込んでみせた実践は、当時にしてもノスタルジーとさえ思われかねない、けれども頑なに原理に則した、その微細な民衆像の粗型の探求であったのではなかろうか。H邸見学の際に聞いた、「この家は剣持君の”理論”だからね」と言いながら嬉しそうに建物の修理を続けていたというH邸の主人のエピソードや、今も修理しながら住み暮らす家族の元気な姿からも、それは垣間見えている。時代が巡り、建築生産における工業化の成熟を既に終えた今だからこそ、その工業化・標準化の熱気の中に確かにあった、剣持の民衆に対する健全な理想、アイロニーの無い浪漫主義的眼差しに大きな可能性を見出せるのである。戦後アメリカの大衆文化にも通じ得るポップな感覚で、けれども確かに個別の人間を眺めるその視線である。そうした知覚が大きなシステムの中に身を投じた人間の中にあったということが、現代において剣持がもち得る価値であろう。

(※1 現代の住宅市場においては、その一体のものとする販売スケールが建築部品を通り越して住宅単体、ないしは集合住宅自体にまで拡大されてしまったがために、商品の多様性において本質的にすでに限界を迎えていると感じる。けれどもその規格化されたスケールは、昨今の住宅供給過多と膨大な空家ストックの状況を見渡せば、逆に今となっては非常に「調理」し直しやすい素材で溢れ返っていると言えよう。戦後日本の住宅生産は結局鉄骨造ではなく、木造の在来工法が一般となったが、その規格寸法の凡庸さ=画一性は明らかにむしろ今後の創作的な可能性を高めてくれていると考えて良い。これもまた、剣持が描いた如くの「高次の次元における」人間活動の展開でもあるだろう。)

2014年7月18日 佐藤研吾


XゼミナールからYゼミナールへ 2014年07月18日(金)

建築史家鈴木博之を失い、Xゼミナールはしばらく休断を余儀なくされた。6年間の闘病生活の中、鈴木博之は実に誠心誠意を尽し諸活動を続けた。我々、難波和彦、石山修武はその営為を身近にし続け、感嘆し続けた。古い言い方であるやも知れぬが、それは実に、身を賭しての活動であった。鈴木博之の晩年とも呼べるその6年間は、身を捨てて何者かに賭ける、そして帰依してゆく如き時間でもあった。何者かとは近代建築の歴史的意味であった。鈴木は日本の近代建築の意味=価値の考究にその最期の生を注ぎ込んだのである。

Xゼミナールは鈴木博之にとっては一断片にしか過ぎなかった。しかし、その考究の現場を少なからず、共にできたのは我々の無上の時間ではあった。大きく、品格の高い時期を鈴木と、その精神を介して触れ得たことは実にそれこそ至上の時でもあった。それ故、そんな鈴木を失ってしばらくはXゼミナールは凍結し、中断することによってその名をたたえるべきだとも考えたのである。鈴木に代わる人材など考えられもしなかったからだ。それに、鈴木博之はウェブサイトの形式には実ワ、あんまりというよりもかなりの距離を持ち続けてもいた。しかし、無関心でもあり得なかったのである。鈴木はペーパー時代の典型的な表現者でもあったのだ。当然の事ながら最良の建築史家として、鈴木はコンピューター時代の近代建築の行方を案じ続けていたのである。産業革命、すなわち機械の時代の繰り返しの、そしてある種の精確さへの力の集中に、数層倍する力をコンピューターは持つ。それは質量を伴う物体の形式の一つでもある近代建築様式を形骸化させる力としても現われ続け、その形式を脱力する迄にもなっている。それが今なのではないか?大仰な考え方を鈴木は決して好まなかった。だから乱暴な言い方はこれ位にして中断する。

Xゼミナールのメンバーとして後に残された難波和彦と石山は鈴木博之の存在あってこその、考えてみれば両極の人間の資質でもあった。鈴木がいつも要として居る事によって議論も成立しかかった事が多かったのである。
鈴木博之の記憶はまだ生々しい。しかし、我々の年令などを考えてみるならば、そんなに先が残されているわけもない。でも身体はまだまだ動く。温度も決して失っているわけも無い。しかし、二人だけでは不可能なのだ。何かを為す、つまり思考を続けるのには、そして本格的な思考を続けるのには鈴木に代わり得る何者かが必要であった。熟慮の結果、松村秀一に白羽の矢を立てた。双方の意見も珍しく一致した。鈴木博之がもしも、居たら、コレワ怒るぜと双方共に感じていたにちがいない。しかし、鈴木が怒る位のメンバーによってゼミナール(コンピューター上のウェブサイト)を再開する事位しかヤルに値する事もありはしない。松村秀一は鈴木博之とは実に距離を置いた、そして置き続けた人材ではある。短く言ってしまえば工学の、それも日本の建築工学の理論的支柱とも想える大きな人材である。

東大退職後の鈴木博之は、「俺は工学の無い世界に身を置きたい」と公言していた通りに工学系の無い大学、あるいは役職に身を置くことになったのは知る人ぞ知るところではあった。我々は松村秀一が1950年代のアメリカ近代建築の流れに関心を持ち始めていたのを幾つかの会合で知っていた。その関心の持ち方は明らかに建築史家の眼差しそのものでもあった。
鈴木博之という建築史家の深い認識の度合いは当然、現代のプラグマティズムとも言うべきに接近せざるを得なかった。そして松村秀一は、敢えて言えば工学的発想の中から、プラグマティズムに非ざるプラグマティズムへと思考を変化させていたのである。

余計な前口上は無駄にしか過ぎぬ。松村秀一の中心の一つは「建築家という存在形式抜きの社会、そして建築の在り方」に尽きる。我々は鈴木博之によって1950年代の近代建築再考へと入口を示された、それが不十分のままに性急に議論は展開してしまった後悔もある。その辺りの事を、もう一度キチンと考えてみたい。それで始まりの議論はそれに近いのであろう。今は昔の「規格構成材方式」に的を絞ってみようと、ゆるやかに含意もした。
松村秀一は大柄な人柄気質の持ち主である。鈴木博之が若かった頃の、抜き身の刀を持ち歩く恐ろしさとは比すべくも無い、良質で計算された大きさの持ち主である。鈴木はイヤがるであろうけれど、晩年の彼は実に大柄なエレガンシイの境地に到達していたと思う。「ヨセヤイ」の声も天上から聴こえるようだが、先ずはそんな荒っぽさから始めるのも、こんな無風無害の時代には良いのではあるまいか。

8月19日には剣持れい(日に令)が創設した綜研の後継者、中林由行にも再びお目にかかり、剣持れいの思考世界と、エコロジイ、コーポラティブハウスの世界の事などお聞きすることにもなっている。Xゼミナールの名は、鈴木博之にあり余る敬意を表して名を永久欠番とする。大ゲサな事言うなと笑われそうだが、生きるに笑われる事は充分に大事である。だから、このチームの名をYゼミナールとする事にした。歴史家の至上は推理、探偵にあるとは坂口安吾の名言であるが、難波、松村両氏共に安吾の世界とは距離もある。だから、安吾ならぬ安心してこんな事も言えるのだ。

いささかの長口上になった。
Yゼミナールは難波和彦、松村秀一、石山修武のトリオで幕を開けることにする。他のメンバーの加入、小さな機関誌の創刊なども視野に入れてはいるが、そんなに無理はしたくない。自然体でゆきたい。願わくば、若い世代の人間のゼミナール参加を望みたい。

2014年7月18日 石山修武


難波和彦 第33信  「螺旋的思考」の可能性 2014年07月10日(木)
「Pinoleville Pomo Nation Living Culture Center計画案(設計:佐藤研吾)」評

佐藤研吾を初めて知ったのは、僕が東京大学を退職する最後の年の2009年、彼が東京大学建築学科3年生の設計課題においてである。通常の設計課題は学生個人が担当するが、その際の彼の印象はセンスのいい学生という程度で、ジーパンに長髪というやや時代遅れの風貌が記憶に残っている。製図室の中で入口からもっとも離れた、教員の眼が届かない奥隅のコーナーに陣取っていることが建築学科同級生の中での彼のポジションを表わしていた。毎年3年生の設計課題では早稲田大学建築学科と共同で設計課題を行っていた。この共同課題は安藤忠雄と故鈴木博之の発案で2007年にスタートし、東京大学は僕が早稲田大学は石山修武が担当した。僕と石山が退職した現在でも、このシステムは継続している。この共同課題の趣旨について、僕は『東京大学建築学科難波和彦研究室全記録』(角川学芸出版 2010)にこう書いている。

東京大学では、入学後の最初の1年半は、すべての学生が駒場キャンパスの教養学部に所属するシステムになっている。専門コースに進学するのは2年生の後期なので、学部の専門教育は2年半の期間しかない。その中でもっとも集中的に設計教育が行われるのは、学部3年生の1年間である。この間に学生たちは、集中的に設計製図課題に取り組むことになる。通常の学科試験とは異なり、設計製図課題の評価は担当教員による公開講評によって行われるので、学生は自分の作品のレベルを相対化せざるを得ない。僕はさまざまな大学において設計製図課題の非常勤講師を勤めた経験から、本学の建築学科の評価基準にはやや偏りがあるように感じた。もっとも疑問に思った点は作品の評価が中心的で、設計製図に取り組む学生の人間的な側面にまで眼が届いていない点である。設計製図課題に取り組んで1年間余の間に学生は大きく変化する。その点を見極めてアドバイスすることが講評の大きな目的のひとつではないかと思う。僕は早稲田大学の建築学科で約10年間、設計製図課題の非常勤講師を勤めたが、その間に石山修武教授から設計教育のあり方に関して多くのことを学んだ。その中でもっとも感心した点は、講評においては作品の評価と並行して、建築デザインに対する学生の適性や成長を長い眼で見ながらアドバイスするというスタンスである。早稲田大学は学部1年生から専門コースなので、時間をかけた設計教育が可能になるという条件もあるが、本学でもそのような視点を持つ必要を感じたのである。そこで石山教授に相談し、早稲田大学との共同設計製図課題の試みが実現することになった。最初の2007年度は、安藤忠雄名誉教授の助力で、調布市の駅前広場の再開発を課題とし、調布市文化会館において市民の前で公開の作品発表を開催することができた。学生が市民に向けてメッセージを発することは、社会への大学の開放の重要な側面である。2008年、2009年は西葛西の公営団地を取り上げ、グローバリゼーションの時代における都市住宅のあり方に関する課題に取り組んだ。3年間の共同設計製図課題を通して、学生相互の交流が活発化したことも大きな成果だったが、それにも増して、東京大学と早稲田大学の設計教育の相違が浮かび上がったことは、学生だけでなく、お互いの教員にとっても学ぶことが多かったのではないかと思う。

佐藤研吾は早稲田大との共同課題においてひとつの方向性を見出したように思える。この課題はそれぞれの大学の3人のメンバーがクループを組んで取り組むことになっていたから、彼個人のセンスがストレートに表現されることはなかったが、彼の手描き図面やパースを石山は高く評価した。その時点で石山は佐藤の可能性を見抜いていたのかも知れない。4年生に進学して彼は自分の方向性を定め、大学院入試では東京大学ではなく早稲田大学の石山研究室を志望し問題なく合格した。さらに卒業設計においては最近のプレゼンレーションイ手法の定番であるコンピュータによるCG図面を用いることなく、手描きの図面を中心にしてまとめている。選んだテーマは大規模開発中の都心の近くに取り残された木造密集地域のリノベーションである。石山のアドバイスを受けたのかどうかは不明だが、小規模な木造建築を集合させたボトムアップ的なリノベーションであり、近隣に進行中のトップダウン的大規模開発に対するカウンター・プロポーザルだった。この作品はテーマの現代性とユニークな表現方法の点で高い評価を受け、卒業設計に与えられる最高賞「辰野金吾賞」を獲得した。

ここで批評に取り上げる作品は、佐藤が石山研究室の修士過程に所属中の2012年に応募した国際コンペ応募案である。コンペを主催したのはネイティブ・アメリカンのピノールビル・ポモ族(Pinoleville Pomo Nation)とカリフォルニア州の大学UCバークレー校である。コンペのプログラムは、先住民族の集落内に彼らの地域拠点となる文化センター「Pinoleville Pomo Nation Living Culture Center」を設計するというものだった。当然ながらこのコンペには錯綜した政治的背景がある。アメリカ建国史のなかで先住民は住んでいた土地を奪われ居留地を限定されてきた。その土地を取り戻しそこに伝統文化を保存するための文化センターを建設するのである。先住民であるインディアンと日本人は同じモンゴル民族の末裔であるとはいえ、歴史的・政治的・文化的にはかけ離れている。しかし昨今のグローバリゼーションの進行はその溝を狭めつつあることも確かである。1980年代以前ならば、このような特異なコンペに日本人が応募することなど考えられなかっただろう。とはいえ現在でも依然として両者の溝は大きく、国際コンペに応募するにはさまざまな理論武装が必要となる。しかしながら歴史的・政治的・文化的背景はデザインの前提条件に過ぎないし、前提条件を知ったからといって説得力のある案が提案できる保証はない。その点で佐藤の案は、軽々と前提条件を乗り越えている。このコンペで佐藤の案は「Sustainable Engineering Innovation賞」を受賞している。

佐藤の応募案は一見するとインディアンの集落のように見える。ポモ族の歴史に詳しくないので彼らが農耕的定住生活をしていたのか遊牧的移動生活をしていたのかは分からないが、少なくとも佐藤の案は定住的なデザインといってよいだろう。半ば地面に埋設され左右対称形の平面を持つパヴィリオンを分散配置した佐藤案は1960年代に世界中で流行したヴァナキュラーなデザインを連想させる。
ヴァナキュラーなデザインは第2次大戦後にアメリカから全世界に広がった形骸化したモダン・デザインに対する批判から生まれた。ヴァナキュラーな建築への注目は1964年にニューヨーク近代美術館(Modern Museum of Art=MoMA)で開催されたバーナード・ルドフスキーによる展覧会『建築家なしの建築ARCHITECTURE WITHOUT ARCHITECTS』に端を発する。その展覧会のカタログとして出版された同名の冊子は、日本でも翻訳され(1975)大きな話題を呼んだ。「建築家なしの建築」とは、無名の人々によっていわば自然発生的に作り出されたヴァナキュラー(風土的・土着的)な建築である。それはヨーロッパからアメリカに渡ってエリートの建築となったモダン・デザインに対する大衆的立場からのカウンター・デザインだった。ロバート・ヴェンチューリやチャールズ・ムーアはヴァナキュラーな建築を大衆的なポップアートに接木することによってポストモダニズムのデザインを生み出した。この潮流は日本の建築界にも大きな影響を与えたが、それを正面から受けとめた建築家の一人が石山修武である。その意味で、佐藤の案はポストモダニズムの隔世遺伝といってもよいかもしれない。事実、佐藤案の中のCeremony&Dance Theaterは盛土を型枠にしたコンクリートシェルであり、ほとんど同じような建築を石山も作っている。あるいは地面に埋め込まれた基礎の上に軽い金属屋根を架けたその他のパヴィリオンも石山建築の翻案のように見える。とはいえインディアンの子守り籠をモチーフにしたデザインや、太陽光と空気の流れの制御装置として建築を捉える視点は佐藤独自のモチーフだといってよいだろう。

佐藤は石山研究室での2年間の修士課程を終える時点でまとめた修士計画『創作論序説:異形の現在---螺旋的思考とその模型について』において、このコンペ案をさらに大きな〈創作論〉の中に位置づけることを試みている。その方法論は「螺旋的思考」と名付けられ、江戸の〈栄螺堂〉を空間モデルとし、その具体的実践としてこのコンペ案を位置づけ、石山研究室における韓国やインドでの研究活動を日本の近現代を乗り越える近未来思考へと展開させ、最終的に東京に着地させるというヴィジョンである。ここにも石山修武の〈アニミズム論〉や〈開放系技術論〉の遠い谺を感じるのは僕だけではないだろう。

石山修武の視野は余りにも広い。彼の歴史観や社会観に正面から太刀打ちするのは容易な業ではない。しかしながら僕の見るところ、石山の具体的な実践活動は彼の広大な視野の一部でしかない。それはウィリアム・モリスのアーツ・アンド・クラフト運動に似ている。モリスをモダニズム・デザイン運動のパイオニアと位置づけたのは歴史家のニコラス・ペヴスナーだが(『モダン・デザインの展開』)それはモリスの反機械的なデザインにおいてではなくマルクス主義的なヴィジョンにおいてだった。これに対しペヴスナーがモダニズム・デザイン運動のひとつの到達点と位置づけたのはワルター・グロピウスの「バウハウス」であり、その機械的工業生産化の社会ヴィジョンにおいてである。この意味で石山は〈プロト・モダニスト〉だといってよい。バウハウスのデザイン教育やザッハリッヒなデザインは、さまざまな問題を孕みながらも現在でも生き残っている。その可能性を昂進させ、そこにアジア的ヴァナキュラーやアジア的近代化を接木し展開させることが、佐藤のいう「螺旋的思考」ではないかと僕は密かに期待している。


作家作品批評06「Pinoleville Pomo Nation Living Culture Center計画案とその周辺について」 設計:佐藤研吾 2014年07月09日(水)




































計画概要(※)
計 画 地 アメリカ合衆国カリフォルニア州ユカイヤ
主要用途 地域文化複合施設
構  造 鉄筋コンクリート造、一部木造
階  数 地上1階、一部2階
敷地面積 25723.15
建築面積 1829.39
延床面積 2013.76
(※デザイン・コンペティション「ParticiPlace 2012 」にて入賞、及びSustainable Engineering Innovation賞を受賞した計画案)

最近、毎日の通り道である新宿駅で募金の呼びかけを根気良く続けている団体に出会う。彼らは東日本大震災の被災地で人間と同様に被害を受け行き場を失った犬や猫たちの避難所開設・維持のために募金活動を行なっている。2011年3月のあの日からすでに3年が経ち、TVや他メディアでは震災(原発)の風評の露出と隠蔽工作のやり合いが交錯するような中で、私は彼らの生身の活動にむしろ信頼を置く。もちろん彼らの内実を知り抜いてはいないが、自分自身だけでは気づくことも困難であった世界への視線を与えられたという実感をもっていくらかの協力をさせてもらってもいる。

彼らの活動が偽りの無いものだとすれば、彼らは何らかの大きな使命感を各々が持って行動しているのだろうとも思える。動物も人間も、分け隔てなく1つの総合の世界を見つめ続ける視線と希望が彼らにはある。異なる世界、異なる場所までを眺め渡す鋭い眼差しとその感性を彼らの奥深い部分に感じているのである。学ぶべきことは多い。

日本の震災から約1年が経った2012年、私はアメリカの西海岸カルフォルニア州ユカイヤで行なわれたあるコンペティションに参加する機会を得た。そのコンペはアメリカ先住民、ネイティブ・アメリカンの一部族の集落内に彼らのための地域拠点となる文化センター(Pinoleville Pomo Nation Living Culture Center)を設計せよというものであった。コンペはピノールビル・ポモ族(Pinoleville Pomo Nation)という部族と、同州の大学UCバークレー校の共同主催であった。

計画敷地は彼らが今現在買い戻そうとしている、かつては部族の先祖が住み暮らしていた土地である。彼らは1960年代にアメリカ中央政府よりネイティブ・アメリカンの部族認定を剥奪された。そしてアメリカ合衆国成立のはるか前より守り続けてきていた先祖の土地を失ったのであった。しかし、彼らは部族認定を剥奪された後も共同して活動をすすめ、80年代にようやく認定を取り戻し、本来の土地を共同出資によって買い戻してきた。その土地の一部に計画されるのが今回の地域センターであった。

部族の運営および生活の双方の拠点となるこのセンターは、彼らの固有の文化を保存・実践し、伝統を今の彼ら特に彼らの子どもたちの生活において継続的に発展させようとするための教育施設となることが想定されている。部族の将来を考えるための実践的な現場である。

そして、このコンペティションではもう一つの大きな主題が込められていた。それは周囲の自然環境に配慮した、敷地内で完結するゼロ・エネルギー・システムの提案要求である。環境問題、エネルギーに関する課題を掲げるコンペティションが、ネイティブ・アメリカンの一部族によって開催されたのは非常に意義深いことだと思われる。

図ではアメリカ合衆国におけるネイティブ・アメリカンの各部族の地域分布と、原子力発電所や核廃棄物処理場をはじめとする環境汚染施設の立地を示している。これを見ると、もちろん部族の地域規模はさまざまではあるが全体的に国土の西側に集まっており、環境汚染施設の多くもまた西部・中西部に集中しているのが分かる。これは決して偶然なものではなく、合衆国内における先住民への根深い人種的問題と、中央政府のエネルギー関連施設群の配布計画が複雑に絡み合っている状況を示している。先住民の部族の中には環境汚染の迷惑施設を誘致するのと引き替えに、巨額の補助金を獲得し、また中央政府への発言権を大きくして地域内にカジノ開設の権利も得るなどで部族経営を成り立たせようとする部族も少なくない。一方で、そのような部族内でも下層にいる人びとは汚染施設の近隣に居住を余儀なくされ劣悪な環境下での生活を強いられているともいう。この問題は、アメリカ合衆国成立以来続く深過ぎる程の問題であり、さらにはアメリカに限らない世界中の文明社会が孕む根底的な課題であるとも思われる。

ピノールビル・ポモ族はそうした状況下で、環境汚染施設の共有地内建設を頑なに拒み続ける数少ない部族である。彼らにとって周辺の環境と土地を守ることは自分たちの固有の文化及びそれを築き上げてきた祖先由来の伝統を保守することに直結する。環境問題に対する先進的な提起を行なうことは、彼らにとってはまず自分たちの身を守るためのものであり、さらには自らのアイデンティティに関わる内発的な問題としてある。今回のコンペティションにはそうしたアメリカ社会を背後にもった、彼ら部族の自立・独立への確たる意志が中心に据えられていた。

彼らの取り組みに対して、遠く離れた日本に住む自分に何ができるのか、いかなるものを作り出せるのか、それが私自身の最たる命題であった。私もまた、日本の大半の人びと同様に2011年の福島原発事故の後にようやく自国のエネルギー政策の有様の一端を意識できるようになった人間であるが、このコンペティションへの日本からの参加は、単なる企画の国際性を越えて、アメリカ社会の写しでもある戦後日本の社会システムの綻びを経験した一人の人間の参加、という構造的意義があった。コンペの規模に関わらず、私自身の個人的な意欲や心境の問題ばかりに収まりきらない、異なる世界を越境し得るある社会的枠組が強く浮かび上がっていた。

提出した計画案では、1つの確たる求心性と形態の離散的な構成を併存させることを試みている。当然、その形態と造形の多くが、彼ら部族が保持を願う伝統文化の内から学び取ったものである。遠くの彼らの文化を学び、その成果をそのままに贈り返したの実感もある。各施設機能を敷地内に分散して配置し、中央に舞踏・演劇スペースを、北部に料理や工芸活動のためのスペースと子どものためのプレイグラウンドを螺旋の形状によって配置し、南側には収蔵庫と部族の諸情報を発信・保存するデジタル・アーカイブ施設を配置している。

それぞれの施設が周囲の植物の配布と1.2m程度の小径によって繋がり、どの建築も北東(東)の方向に正面を構えている。それは、北東から南西方向に緩やかに上がる既存の周辺地形に沿って吹き上がる風を建築内部に大きく採り込むためである。また同時に、東側に小川が流れ、彼らの先祖の墓があり、西側には太平洋まで広大に続くレッドウッドの深い森が位置しているという、彼らの重要とする大地への初原的感覚を写し出す意図があった。建築構造はアースキャストによるRC造のシェルを主たるものとし、建築の大部分を土で覆うことで断熱性能を担保しながら、自然風景との共生と彼らの大地への拘りから導かれる特に子どもたちの身体的活動の誘発と調和を試みている。

大地のランドスケープとともに建築が群体としてつくり出す微細にうごめく環境風景は、それ自体が部族自体の全的な価値の形象としてあり、また対外的、及び対内的にも強いコミュニケーションの要素としての意味を持つはずである。計画を提案した私自身も含めて、彼らとの間には避け難い境遇なるものに対して、責務とも言える果たすべき役割とその表現が必要であった。

確たる責任感とその継続の意志を持ち得た個人、共同体は魅力的である。その多くが生命単体の小歴史を含めた、ある歴史感覚を共有する一方で、外部との溶解し難い壁をも同時に抱え込んでしまってもいるように感じている。けれども、果たしてそれが必然の帰結なのかは分からない。そうではないとも思う。

最後に、最近巡り遭った、創作を続けるある共同体を紹介させていただきたい。今年の2014年2月に、インドのグジャラート州のアーメダバードとバローダの2都市にいくつかの講演他補助の仕事で行った際、空いた日程を使ってタクシーで半日かけてラトワ族なるインド原住民の1つとされる村を訪れた。彼らの村には電気こそ通ってはいたが、燃料はガスではなく牛のフンを使い、家畜を飼って畑を耕しての自給生活を営んでいた。村にゴミは一切無く驚く程に空気も澄んでいた。そんな彼らの家々の内部には、数多くの動物と人間と、そして神々の姿が一面に描かれた壁がある。ピトラ画と呼ばれるその壁画は、年に数回行われる村の豊穣儀礼として描かれ、時代とともに描かれる対象を若干に変えながら現在も続けられているという。
彼らはもちろん、その壁の前で、飯を食い、寝て、生活をしている。壁画は二次元的表現ではあるが、その多彩な色と群像が横溢する画面は明らかに彼らの何気ない生活を包み込んでいた。

創作表現と、過去から続く神話的風景を基底に持った共同体の形象化の作業は、彼ら自身の尊厳に無意識に関わっているものだろうか、ともそれを見たとき感じたのである。

空間表現、創作表現について、確かな根拠らしきものを見つけることができた体験であった。

2014年5月26日  佐藤研吾


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