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箱の家 PROJECT 青本往来記
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石山修武 第102信 「15Aの家」評    中川純くんの視えやすい外連(けれん) 2014年01月20日(月)

 気がすすまぬままに年が明けてしまったが、何時までも放っておくことは、やはり失礼になるだとうと重い腰を上げた。要するにあんまり作品への悪口みたいなのは書きたくないからだ。悪口、つまりは少々辛口の批評らしきをとうとうと書くには作者の作品らしきは若過ぎる。もろ過ぎるとも言える。それ程わたくしもヒマを持て余しているわけではない。難波和彦さんと相談して若い人の作品評をキチンとやってみようかと考えたのが始まりであった。俗に言う若い人らしきでどうしても書いてみたいという作品も人物も無かったので身近なそれぞれの知り合いを対象にする事にした。今更、見ず知らずの若い他人の作品評をして、火傷を負うのも馬鹿馬鹿しい。それで今回がその最終ラウンドである。わたくしは、わたくしなりに古い言い方で恥ずかしいが弟子とでも言える北園、高木両君の作品評をして得るところがあった。
 俺の眼にそんなに狂いは無かったとも考えた。これは自分に対する批評でもある。自分の、若い人々とは言え、人間を視る眼に対する評なのだ。それは自分の人間を視る眼、すなわち透視力のようなモノに対する自信の無さに通じるのである。
 建築家はクライアントあっての者であり、他の何者でもありはしない。クライアントによって生かされ、時には殺されるような目にも会う。実に人間臭い商売なのだ。特にわたくしの場合、製図教師でもあったから、実に多くの様々な人材のカケラらしきに会ってきた。それはもう勘弁してくれと言う位に会い続けてきた。学生に典型なのは年を取らぬことである。毎年毎年新しい学生と出会い、ほぼ同じ年頃の少年少女である。少年少女といささか若い人間を馬鹿にした言い方に聞こえるだろうが、そりゃあそうだろう。わたくしは年を取り続け、少しは色々と考え、視る体験も積み重ねるが、若い人はいつまでたっても若い人のまんまである。入れ替わり、立ち替わり若い人なのである。

 中川純くんもそんな一人なのである。この今も若い人にわたくしはその学生時代に会った記憶がある。早稲田の建築学科卒業制作の発表会というのがあって、そこでその学生時代の作品らしきに会った。確か上位10点程のところにピックアップされていた。
 千葉の高速道路近くにある人工雪スキー場の姿を借りたものであった。良く知られた人工物の異形が街の中にポッカリ浮いて出たような構築物を使ったアイデアであったような記憶がある。山っ気のある学生が良くやるタイプの俗なものであった。謂わゆる一発屋タイプである。これは面白いと思い込んだら、その思い込みが演技性を持ってしまうタイプである。わたくしは、その手の学生はもう見飽きていたので俗っぽい才質だなと、こちらも思い込んだ。
 人間は愚かな者で、その第一印象は中川純くんにまといついて離れないのである。外連に満ちた一発屋の印象である。それは同君への印象としてはぎ取ることが出来ぬ。今度、難波和彦さんに身近な若い人の作品をいささか見て考えて痛感するのは彼等が池辺陽、難波和彦という日本近代に独自なラインの意味を本当に考えて入所したのかという疑問であった。何もこんなモノ作るのに難波和彦の許に勉強、そしてトレーニングを積む必要は全く無いのではないかと単純に考えたのである。皆、それぞれに勝手な気ママさの中に設計を遊んでいる。そうとしか言い様が無い。難波和彦さんが自由に、でもほとんど何かを賭けてまで遊ぶ創造の才質が無くって、今の箱の家シリーズに没頭しているのではあるまい事は自明の理である。若い頃に一時、石井和紘とパートナーシップを持った事からも知るように、デザインの遊びの何たるかは難波和彦さんくらい知り尽くしている人は他にそんなに居ないだろう。
 わたくしだって、石井和紘との附合いにはホトホトと音がする位に手を焼いた経験もあるから、そう言えるのである。一種真剣な遊びとも言えるデザインが内に持つ遊びは、別の見方をすれば方法的求道らしきにも通じてしまう融通無碍を持つモノである。そして遊びは必ず人間に多大のツケを払わせるのが常だ。建築家は特にそうである。
 そして、難波和彦の許でトレーニングした筈の若い人達の遊びの水準はわたくしにはとても低い様に感じられたのである。何も賭けられていない。ただの手軽な消費感覚の中の、それこそ安直な遊びに過ぎぬように考えられた。それを言ったら身もフタもあるまいとは少し離れて自覚もする。が、時代の傾向がそうであればある程に、わたくしはそれは嫌なのである。

 さて又も遠回りの道を横道になりつつある。中川純くんの先品15A(アンペア)の家について。中々に小洒落た命名である。よくある程々の気取りなのだろうか。写真家の山岸剛の東北被災地の写真から自作(プロジェクト)の説明に入ろうとする。彼は東北の津波で破壊され鉄骨の骨組みだけ残り、生活のゴミでもある諸処の消費物の残滓に感じ入り、いきなり唐突に東北の復興活動に関わる事を止めてしまったと記す。この辺りは明らかに俗っぽい受け狙いであろう。止めるんなら黙って止めれば良い。こんな風に自作らしきを自作の意味で飾り立てる目的でそれを言う事はない。
 この安手な鉄骨の廃墟イメージは、建築家鈴木了二の絶対現場とこれもお洒落な命名が施された表現活動の明らかな分かり易い模倣だろう。鈴木了二の絶対現場は木造建築の廃墟に引き込まれた感性の自己吐露であり、観念の衣を身に纏わせていたが、その実体は良く知らぬ。この廃墟イメージは写真家宮本隆司等と極めて近いモノではあろうが、鈴木了二の絶対現場は木造の小屋組みを使ったとこが味噌であった。木造の捨てられようとする、モノの饐えた匂いや、カビ臭さも写真から勝手に伝わってきて面白かった。木造の壊れる様の中の日本的生活臭とでも言おうか。それは決して気取ったクールさに緊張を与えられたり、テンションをかけられたりして消えてしまうモノではない。カビやホコリの中にしぶとく残ろうとする人間の存在の強さであろう。
 これ等の廃墟イメージの身近な元祖は磯崎新である。磯崎新はジョン・ソーンの廃墟図に触発され、それはヨーロッパのデューラーにいたる迄の表現芸術の素であるメランコリアを背骨に隠し持つものである。
 映像分野では黒澤明の名作羅生門の冒頭のシーンが、それこそ真底の絶対現場であった。激しい雨の中、木造の羅生門がくずれ、朽ちようとするシーンは強烈な換気力を持っていた。あの映像で黒澤明は決定的な自らの内の質を自覚したのではなかろうか。
 中川純くんの15Aのドローイングや模型やらは勿論それ等の伏流らしきはほとんど意識されていない。それは短い解説文からあからさまに伝わってきてしまう。
 自分の祖父の、そして父の住み暮らした木造住宅の骨組みを使って、自分の手でリノベーションしようとする計画である。若い人の身近で卑近な歴史や環境を正視しようとする、それが結構受けるのではないかという狙いが明々白々である。わかりやすい。わかりやす過ぎる位に。

 短い解説文であろうとも、それは作者の品位や知性、そして野心らしきも浮き上がらせる。作者の解説文の文体は実に平板であり、紋切り型のユニットが羅列されて、わたくしには魅力を感じさせなかった。文は人を表すのである。余程用心した方が良い。表現者として生きるのであれば。むしろこの人は寡黙を押し通すべきだろう。セルフ・ビルドの建築の表現はあんまりつたない戦略性、手練手管が見えてしまうと、それこそ命取りになり兼ねぬ。建築的表現の質、以前の人間の質が露出されるからだ。

 結局、書いてみればこんなザマである。
 悪口雑言の集積以外の何者でもないと、不満だろうが、批評はそんなどうしようもない毒を含まざるを得ぬモノでもある。
 卒業設計の中川純くんのポンチ絵の印象を最後まで振り払うことが出来なかった。


作家作品批評05 15Aの家 設計:中川純 2014年01月19日(日)



山岸剛「2011年5月1日、岩手県宮古市田老青砂利」



山岸剛「2013年4月21日 15Aの家 東京都大田区西蒲田」






















建築・施工:中川 純 レビ設計室:早稲田大学理工学研究所研究員
構造   :永井 拓生   永井構造計画事務所/滋賀県立大学助教
写真   :山岸 剛 写真家
行動解析 :遠田 敦 東京理科大学助教
回路設計 :渡井大己  早稲田大学大学院文学研究科修士課程
※DATA一式は下記より詳細ダウンロード可能
http://njun.jp/files/Xseminar.pdf

建築概要
所在地  :東京都大田区
用途   :専用住宅
構造   :木造
階数   :地上2階
敷地面積 :104.53 m2
建築面積 :40.54 m2
延床面積 :40.54 m2
工事期間 :2012年11月〜(未定)

「15Aの家」
2011年5月の中旬に写真家の山岸剛さんのスタジオで東北の写真を見せてもらう機会があった。朱色の錆止めが顕わになった鉄骨の躯体と、そこに絡まる瓦礫の構図にひどく無意識を揺さぶられたことを今でも覚えている。「田老」の写真から建築とは別次元に存在する自然の圧倒的な脅威を感じたわけだが、その脅威の裏側に存在する「美」 を建築(廃墟)というフレームを通して認識した時、「田老」はある問いを発することになる。
東日本大震災の後に多くの建築家が東北に向かったが、私はこの写真を見て復興に関わることをやめてしまった。私の持っている考えらしきが変わらなければ、東北を良くする仕事は出来ないと直感したからだ。一方で、すぐに変わってしまう私の考えとは何か、これは私の理性の根本を問い直すことを意味しており「田老」が突きつけた問題でもある。

東京都大田区の住宅密集地に、祖父が建て、父が育った住宅がある。これを自力で耐震補強し、最小限のエネルギーで暮らすことにした。きっかけは震災と原発事故。この死と隣り合わせの問題と共存するためには、今までの仕事と生活を深く反省し、己の身体感覚を手仕事のレベルから鍛え直す必要があると考えた。
設計の条件は3つ。地震に強いこと、30代後半のヤサ男一人で施工可能なこと、家族4人15アンペアで不自由なく暮らせること。
解体現場を通して見えた建築の建築性に対峙し、この建築性を担保したまま技術によって人間の住む環境にしようとするのだけれども、快適な環境には決して達し得ないこの住みにくさに対し、そこに住まう人間の主体的な努力によって乗り越えようとする崇高さを獲得するために、住宅の機能を最小限に抑えつつ、生存に必要な光・熱・風といった環境を、都市という自然から抽出する操作を行った。

平面計画
築50 年(増築部35 年)の木造2 階建て住宅を改修する。平屋部分および2 階の床部分を撤去減築し、地震力を軽減させると共に、吹き抜け空間を利用して光と外部風を内部に取り込む。平面計画は一室空間とし、設備の配置は日射環境から導く。

15アンペア
「15Aの家」は自らが設定した制約の中で暮らすことを目的とした実験住宅である。タイトルは「立体最小限住宅(池辺陽)」を参照した。大量の帰還兵を抱えていたこと、国土が焦土と化していたことから、早急に住宅を建てることが求められていたが、極端な資材不足によって使用できる材料は木材だけという状況で、法的な縛りによって延床15坪までしか建設が許可されなかった時期があった。また当時は急激な民主化の波によって住まい手の価値観が変わることも予想されたので、必然的に住宅が建築家の課題となった歴史がある。
東日本大震災と福島原発事故を経て、いま私たちが対峙すべき問題は多岐にわたるが、エネルギーの問題は建築に大きな責任があると感じている。オイルショック以降建築の産業部門(工場など)のエネルギー消費量は増えていないにもかかわらず、民生部門(住宅、オフィス、商業施設)のエネルギー消費量は2.5倍に増えた。これに呼応する形で原発が増えていったわけだが、まずは発電施設の数を減らすために建築に何が可能かを考えたい。
発電所の数を減らすためには発電所の「負荷率」をあげる必要がある。負荷率とは平均的な消費エネルギーを瞬間的に発生する最大消費エネルギーで割った値のことで、この値が大きいほどエネルギー消費は平準化され、負荷の高い時間帯だけ稼働する発電施設を減らすことが出来る。ベース電力である原発を減らすことには繋がらないかもしれないが、少なくとも原発を再稼働しなければエネルギーが逼迫するという話に振り回されることはなくなる。ちなみに負荷率を1%改善するだけで約290万kW の発電設備を削減することが可能で、これは福島第一原発の発電量に相当する。
次の図は我が家における2012年夏の代表日の消費電力のグラフである。縦軸は電流値、横軸は時間を表す。15アンペアの制約を設けることは空調の使用に制約があることが分かった。このため空調機によって快適性を担保するのではなく、建築の形態で温熱環境を担保できないか考えた。
ただし厳し条件下では空調機を使うこともあるので、全体の使用量が15Aを超えないようにサイリスタ位相制御装置をコンセントに組み込むと同時に、15Aの制約を無理なく受け入れるため、最大容量に近づくと照明等によって切迫した状況を教えてくれるシステムも合わせて考えた。
省エネについては快適性とセットで検証されることが多かったが、この住宅では省エネと人間行動の直接的な相関を探る研究を行い、広く成果を公開する予定である。

耐震改計画
基本方針は、以下の3点である。
a) 屋根仕上げの軽量化と2階床の撤去による重量軽減
b) 1階、2階共通で建物外周耐震壁としての補強
c) 2階床を撤去後吹抜とし、立体格子挿入による補強
建物外周は改修前の1階、2階レベルともに鉄筋ブレースと構造用合板釘打ちにより耐震補強を行う。また、2階レベルの床と、1階の柱のほとんどを撤去し、残った吹抜けの空間に立体格子を挿入して屋根を支持し、水平力を外周に伝達する。この立体格子は半剛接の木造ラーメンのフレームとし、それ自身が水平力に対しても抵抗する機能を持つ。また、この立体格子の各レベル、要所に構造用合板を釘打ちした水平パネルが配置されており、このパネルが立体格子に生じる地震力や風圧力による応力を外周の耐震壁まで伝達させると同時に、環境計画で示すように建物内部の風の流れを制御する役割を持っている。本計画改修案の吹抜け上部の空間に挿入される立体格子状の構造フレームを構成するために、直交長押構法と名付けた構造方法を用いる。この立体格子状のフレームは、それ全体で屋根を支持する小屋組みであり、また水平力を1層部分まで伝達する機能を持たせる。
これは、安価な構造用の木材として普及しているツーバイ材(SPF)を、既存の木造柱に対して直交2方向に挟み込むように配置し、仕上げボルトやドリフトピンなどのファスナーで縫うという方法である。この方法では、柱芯上に打たれたファスナーと、相互に2方向に直交するツーバイ材同士の接触点とで、テコのように曲げモーメントに対して抵抗する仕組みとなっている。
直交長押構法の利点は、施工の簡易さであり、小屋組みや独立柱の補強が非常に容易である。また、筋交いや合板による補強と違って、空間的な障壁となることがなく、既存の柱・梁の骨組みに添えて抱かせるように追加するだけで耐震補強効果を得ることが可能である。また、曲げモーメントを伝達させる木造ラーメン構造の一種としても、ガセットプレートなどの中間冶具もなく、極めてシンプルで簡単な接合方法である。

光・熱・風
屋根のバラ板の隙間から落ちる光によって気づく都市の自然もある。そこで太陽放射の光成分を建築の全ての部位に与えるようにポリカーボネートに塗布したセラミック真空バルーンの濃度を調整する。この操作によって透過した熱を想定(現在実測実験中)し、窓、壁からの貫流熱と人体からの発熱を足し合わせた熱を排出する風環境を求める。
環境計画の基本方針を下記に示す。
a) 外皮性能の向上(断熱改修計画)
b) 日射取得と通風の最適化(構造計画との融合)
夏は快適な涼感を得るため、外部風速が平均値と仮定した場合において、生活の中心的な場所となる1階レベルに風速0.5m/s程度の風を流し、屋根面からの放射熱と、窓、壁からの貫流熱、人体からの発熱を足し合わせた熱を排出する風環境を求める。水平パネルは構造の制約からX軸Y軸に通るように配置する必要があり、これらのパネルを有効に配置することによって夏の風をコントロールしつつ、冬の窓面からの日射を最大限に取り込むことを考える。冬場にはこの水平パネルが日射を遮る可能性があるため、両季節で日射量と風速の両方の目標数値をクリアすることが目標となる。
建物内部の風速は、1階キッチン付近にターゲットボリュームを配置し、このボリューム表面に生じる風圧から風速が目標値を満たしているかどうかを算定する。最適化の対象は立体格子の各層への水平パネルの配置である。各層の全面に開口率99.99 %の圧力損失パネルを配置し、内部に流れる風が水平に敷かれた圧力損失パネルを通過する際、ターゲットボリュームに目標値である0.5m/sの風を流すように圧力損失パネルの開口率を圧力に従って変化させながら流体解析を行い、圧力分布を目標値に向かわせるために必要な、水平パネルの圧力損失の感度分布を求める。このパネルは、冬場のために日射を遮らないような配置とする。一方で夏場については、窓からの日射はルーバーなどでコントロールができると仮定し、それに応じて流入風速の軽減を行うこととする。
感度解析の結果、感度の高い箇所にパネルを設ければ十分に設計目標を達成できるが、パネルは構造的にも水平力の伝達機能を持っているため、構造的な意味でのみ必要なパネルは、風速の分布に影響の少ない、感度の低い箇所に配置している。以上により求まったパネル配置を境界条件とした、居室内の順解析の結果を下記に示す。立体格子に挿入された水平パネルが風の渦を起こすことによって、1階部分に0.5m/s程度の風が発生していることが確認できる。あとは居住者が何を乗り越えるか、それが問題である。


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