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箱の家 PROJECT 青本往来記
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難波和彦 第31信「アミダハウス 2011」設計:河内一泰 2013年12月16日(月)

河内一泰が僕のアトリエに所属していたのは、僕が大阪市立大建築学科に赴任した2000年から東京大学建築学科に赴任した2003年までの約3年間だったと記憶している。東京芸術大学建築学科の大学院卒を終了して直ぐに界工作舍に入所した。芸大卒のスタッフは初めてだったので、面接時に入所希望の理由を聞いたところ、「箱の家」のコンセプトそのものよりも、クライアントに対して建築家側から住宅のコンセプトを提案するというスタンスに興味を持ったという回答だった。そのせいかポートフォリオの作品には「箱の家」のコンセプトとの共通性はほとんど見られなかった。

当時は1995年にスタートした「箱の家シリーズ」がようやく軌道に乗り始めた時期で、TOTOギャラリー間の展覧会「箱の構築」の準備を始めたところだった。そこで僕の目論見としては、「箱の家」の設計よりも、展覧会の担当者として採用することにしたのである。「実験住宅アルミエコハウス」の完成直後だったので、展覧会には原寸大の断面詳細モデルや、集成材とアルミの原寸大フレームを設営することにした。フットボール部出身の河内は、他のスタッフと協力して作業を難なくこなしてくれた。彼は展覧会のカタログづくりも担当したが、カタログ・デザインを依頼した故・田中一光の仕事を何も知らなかったために不躾な対応をして叱責を受け、何度も冷や汗をかかされたことを懐かしく思い出す。歴史を知らないことの大胆さと怖さである。

当時は界工作舍がもっとも忙しい時期で、「箱の家」は50番台に差し掛かってかかっていた。ローコストのための標準化、一室空間住居というライフスタイル、高性能とコストパフォーマンスといった一連のコンセプトを統合し「サステイナブルな箱の家」へと進化させようとする転換期だった。「箱の家」では、番号が進む毎に少しずつ新しい技術をとり入れてきた。アルミニウム、エンジニアリング・ウッド、外断熱構法、水蓄熱式床暖房、通気層構法、屋上緑化、天窓による負圧換気といったサステイナブル・デザイン技術を予算が許す限りとり入れるようにしていた。このため慣れない工務店では工事がスムースに進まず、工期が遅れ気味になることもよく生じた。そうした中で、建築家という職能について考えさせられる印象深い経験をした。

体力と行動力のある河内は、工期の遅れに責任を感じて現場の職人に混じって工事を手伝うこともしばしばあった。竣工引渡が差し迫った頃に、クライアントから一通のメールが届いた。河内が現場工事を手伝っていることに対するクレームだった。メールにはこう書かれていた。
「界工作舍に依頼したのは設計と現場工事の監理であり、工事を依頼してはいない。したがって、素人に現場工事をさせないでもらいたい」。
自主的に工事を手伝った河内は少なからず驚いたようだった。良かれと思ってとった行動が、逆に非難されてしまったからである。このメッセージを、建築家という職能の明確化として前向きに受け取るか(僕はそう受けとめた)、あるいは教条的な主張と受け取るか、判断の難しいところである。果たして建築家は「考える人」であり、「つくる人」ではないのだろうか。これはルネサンスのブルネッレスキ以来、問われ続けてきた問題だといってよい。

しかしながら河内は、今でも当時のようなスタンスを変えていないように見える。通常の職人以上の体力を持っているため、独立後も建築家と職人を結びつけるような仕事を展開している。もっとも典型的な仕事は自邸の改装である。結婚して都心の密集住宅地に建つ小さな木造住宅を購入した河内は、それを職住近接の建物に改装した。その住宅は斜面に建っているので、彼はまず基礎部分を自力で掘り下げ、半地下室を増築した。次に、アルミニウム・フレームのシステムによって建物全体を覆いダブルスキンとした。さすがにフレームの建方工事は工務店に依頼したらしい。しかし外装のポリカ波板の取り付けや3階の増築はスタッフと一緒に自力で工事したという。
http://www.kkas.sakura.ne.jp/?cat=10

河内は独立して今日までの10年間に、住宅の設計だけでなく家具や照明器具、店舗の内装、インスタレーション、パフォーマンスなど多様な活動を展開してきた。独立した直後は「箱の家」の環境的なコンセプトには興味を持たず、箱型の形態を強引にモディファイした住宅を設計していた。しかし、最近作であるアミダハウスでは、そうした傾向から抜け出し、新しい段階にステップアップしているように見える。外観は単純な箱型だが、内部空間は錯綜している。平面は東西に細長い3列のストライプ状のゾーンに分割され、中央のストライプの両側に異なるレベルの14枚のスラブが差し込まれている。3列のストライプ空間は、階段を組み込んだ北側の動線ゾーンによって繋がれている。スラブ相互は中央のガラス張りのストライプ・ゾーンによって視覚的に繋つながれ、室内空間全体が視線の高さの相違によって柔らかく分節されている。1階の水回りもこの一室空間に取り込まれているが、床のレベル差によってリビングやダイニングキッチンからは見えないようになっている。「単純な箱の中の錯綜した一室空間住居」がこの住宅の中心テーマであり、その点は「箱の家」のコンセプトと共通しているが、ずっとフォトジェニックだといってよい。

とはいえ「箱の家」とは大きく異なる点もある。前面道路に対して完全に閉じている点である。建物と北側の前面道路の間には屋外駐車場が置かれているが、道路側の外壁には小さな窓があるだけで、閉鎖的で無表情なファサードになっている。西側のファサードは全面的に開放されているが、これは富士山に向かう視線を確保するためである。1階の西側のガレージも外に開かれているが、道路からは巧妙に隠されている。私見では、前面道路に対する閉鎖性は、地域社会に対する閉鎖性にほかならない。前面道路に対して閉じることは、交通騒音を遮断し外部空間からセキュリティやプライバシーを守るためである。道路に面した北側に動線ゾーンを配置したことからもその意図が読み取れる。しかし、アミダハウスのような住宅が並んだとき、街並の景観はどうなるだろうか。

現代の住宅においては、おそらくクライアントのほとんどが同じような条件を要求するだろう。その結果、内部をまったく伺うことのできない、壁のようなファサードがうみ出されることになる。事実、現代の住宅地の景観をつくり出しているのは、この論理(通説)である。それは否定し難い説得力を持っているように思える。しかしながら、そのような通説を疑うことが建築家の社会的役割ではないか。個別の住宅のデザインを社会的に捉え直しことができるのは建築家だけである。

気候制御に対する考え方にも微妙な違いがある。詳細図からは詳しく読み取れないが、屋上緑化に対して外壁の断熱性能はそれほど確保されていないように見える。東西の開放性は夏期の朝夕の日射に対して無防備であり、庇のある南面はなぜか閉じられている。切り除け庇のない東西の窓は、梅雨時には通風機能を十分に発揮できないだろう。

河内は、床レベルの操作によってもたらされるアミダハウスの立体的な空間を、ル・コルビュジエのドミノシステムと比較しながら、「自由な断面」の有効性を主張している。これは近代建築の開放的な空間を断面にも適用しようという試みだろう。その意図は十分に理解できるし、現実にも実現されていると思う。しかし、アミダハウスは果たしてドミノシステムの可能性を拡大しているだろうか。ル・コルビュジエがドミノシステムを提案した歴史的背景について改めて考えてみよう。まず、ドミノシステムはオーギュスト・ペレーが主張したプレモダンな「縦の空間」に代わる近代的な「水平の空間」の提案だった。「自由な平面」と「水平な窓」は、その具体的なデザイン・ボキャブラリーの提案であり、アミダハウスにおいてもかろうじて踏襲されている。しかしもうひとつの点を忘れることはできない。ドミノシステムは第一次大戦後の住宅難の解決をめざして住宅を大量供給するための工業生産化住宅のプロトタイプの提案だったことである。ドミノシステムはそのための標準化された「スケルトン・システム」であり、「自由な平面」「水平な窓」「自由な立面」は工業化部品の「インフィル・システム」によって実現される構想だった。つまり、近代建築の五原則は、近代的な工業技術による近代的な空間の提案だったのである。河内の理解は、前者にのみ注目しており、片手落ちというしかない。アミダハウスが一見プロトタイプのように見えて、実際にはきわめて個別的な解であるのは、そのためである。

最後に、石山修武さんの評について簡単にコメントしておく。石山さんは、八田利也の『小住宅ばんざい』を引きながら、現代の住宅設計のあり方について論じようとしている。八田利也は、この本において、戦後モダニストたちが終戦直後の核家族化を中心とする民主的家族像に対して提案した一連の小住宅の歴史的限界について、アイロニーを交えながら論じている。その背景には、住宅設計というジャンルの限界に関する意識があったように思える。要するに「〈住宅〉は〈建築〉ではない」というアドルフ・ロース的な建築観である。石山さんも指摘するように、この問題は現在でも依然として論じる意味がある。しかし、それは『小住宅ばんざい』が論じたのとは異なる様相においてである。僕たちが置かれている歴史的状況は、当時とはまったく異なっている。戦後に日本の住宅が辿ってきた歴史は、世界的に見てもきわめて特殊である。目に見えるハードな建築が目に見えないソフトなアークキテクチャーに取り込まれつつある時代状況もうまれている。そのような状況の中で、西欧的で古典的な建築概念を適用することに意味があるのだろうか。この点については、石山さんの論の展開をみてから、あらためて検討することにしよう。


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