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箱の家 PROJECT 青本往来記
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鈴木博之 第9信 2011年03月25日(金)

2011.3.22.
石山修武様 難波和彦様

メモワールとしての3・11地震を寄稿します。「今頃何だ」とか、「こんな駄文じゃ」とかいわれそうですが、ブログを書かない自分としては、記録しておきたい体験でしたので。
鈴木博之

薄氷の帰宅難民
2011年3月11日14時54分、青山の研究室で揺れを感じる。本棚から横積みの本が崩れ落ちる。午後の来客が去った後で、シャルロット・ペリアンの寝椅子に寝ていたが、危険を感じて起き上がる。研究室の建物は柔らかい構造と見えてよく揺れる。3F建ての建物の3Fにいて、比較的軽そうな建物なので、1Fにいるよりよろしいと考える。しかし一応鍵をかけて外に出ることとする。途中、別の部屋で揺れる本棚を押さえつづけている先生と学生がいたので、危ないから離れた方がよいと声をかける。
外に出て何人かの人と話す。学部長も来る。青山通りで地震にあったとのこと。いったん3Fの部屋に戻る。余震あってまた出たりする。
16時に大手町の三菱地所へ、ドコモモの展覧会に関して挨拶に行く予定だったので、研究室を出る。が、地下鉄は不通で、行くすべはない。諦める。部屋を出たもうひとつの理由は、地震で揺れたせいか、部屋のパソコンの接続が悪くなってしまい、情報がとれなくなったので、部屋にいる意味が無くなったためである。
周辺の被害は家具、棚などの二次部材被害が中心であり、道路に建物の破片が散乱するなどの交通傷害はなさそうなので、歩いてみようと考える。まだ日は高く、歩いて帰れそうであることと、一方で今日中の鉄道交通の復旧は見込めなさそうだからである。青山通りは今のところ順調に車が流れている。

表参道を行くと、ルイ・ヴィトンのビルで水が流れていた以外、建物に外から見られる異常のあるものはなかった。これは家に帰り着くまで同様で、新旧のビル郡はいずれもしっかり建っていた。唯一、西新宿で免震化されたビルの足下のクリアランス部分のプレートが跳ね上がったままになっている例が一棟あった。
表参道、原宿と進んだ。明治通りへ曲がらずに原宿駅までいったのは、山手線が復旧しているのではないかという甘い期待があったのだが、その気配なし.駅に備え付けられたテレビ画面で鉄道は全く動く様子がないことを知る.雨模様になってきたので焦りはじめ、歩き出す。途中で持薬を飲む時間になり、ボトルのお茶を自動販売機で買って飲む。代々木に向かう。
途中、山手線の線路上を人が歩いているのを見て、これでは復旧に時間がかかるであろうことを知る。小田急線を横切り、代々木ゼミのビルの前を通る。この建物は建築賞の審査対象として見学した記憶がある。ビル内には職員らしき人が立っていて、通行人が入らないようにしている。そのまま新宿に向かい、文化学院に近い公園状の敷地に建つ公衆便所に入ろうと思ったが、人がならんでいて嫌気がさす。
超高層ビル地域に行き、NSビルがテナントビルだから入りやすいだろうと考え、そこでトイレを使う。このビル全体あまり人気(ひとけ)もない。地下鉄西新宿駅の方に向かったが、そこで青梅街道を王子行きのバスが走っているのを目にする。しばらくしてもう一台王子行きが通るのを見たので、あれに乗れば家から10分くらいのところの停留所を通ると考え、新宿駅前広場に寄ってみることにする。

西新宿の駅前広場は、地上と地下広場をつなぐエレベーターやエスカレーターがすべて停止している上に、隣接するビルのエレベーター類も停止している。パブリックな顔をしているがコマーシャルビルは、いざとなるとその内部をシャットアウトしてしまう。JR駅舎などのパブリックな空間自体も、この時にはその内部を閉ざしたらしい。パニックに対して都市の公共空間は、瞬間的に縮むのだ。しかたなく、ぐるりと大回りして地下に降りてみたものの、王子行きのバスを待つのではないかと思われる行列は果てしなく長く、あらゆるところが人で溢れている。これではバスに乗るにしても、2時間待ち以上になると思われたので、ふたたび歩くことにする。おおよそ山手線の西側を歩き、百人町、大久保、小滝橋といった地名を見ながら進む。
この辺りは予想外に土地に起伏があって、なかなか神田川や西武新宿線に出ない。地名を見ていても、新宿圏を脱出した気配がない。いい加減に歩くうち、ようやく川筋らしきところにでた。線路や川を越えて広い道を西に向かうと、おそらく落合のそばらしいところに来たと思われた。聖母病院に向かう坂に出る.ここは知っていたので、聖母病院の横を抜けて目白の西の方に出る算段をする。ここに記憶があるのは、かなり昔、藤島亥治郎先生がこの病院に入院しておられたことがあって、お見舞いに伺った記憶があるからである。
坂を上り病院の脇を越えてゆくと、ちいさな自転車屋があった.何人かの人たちが自転車を物色している。ここで買ってそのまま乗って帰ろうということらしい。ふつうのものだと自転車は一万円もしないので、タクシーを苦労して捉まえて帰るより、安く早く帰り着けるかもしれない。わたくしはそれを横目で見て歩きつづける。つぎの目印は西武池袋線である。なかなか到達しないが、どこかで横切ることになる筈だからひたすら歩く。
町をこうしたかたちで歩く時、いつも思い出すのは、大学で数学を習った時、「互いに収束する、連続した値をとるふたつの数列の間の値をとる、連続した数列は、収束する」という定理である。うろ覚えだから、いい加減な記述になっているかとも思うけれど、要するに先に行って交わる道路とか川の間を歩いていれば、そのうち川か道路のどちらかにぶつかるということだ。あまりに馬鹿馬鹿しい定理だけれど、知らない土地を歩いている時に、この定理は一番確実な「導きの糸」になる。
やがて、山手通りが池袋線を越える跨線橋とおぼしきものに行き当たる。この道がはっきりと山手通りと確信があるわけではない。いずれにせよ、跨線橋を登るのはばからしいから、左に迂回してふつうの踏切を探してわたる。ちょうど椎名町の駅の脇辺りで線路を越えられた。この辺りで日は暮れ、腹も減ってきたので駅前商店街のなかで夕食をとることにする。脇に入った辺りに小さな一膳飯屋があったので、そこに入って定食とビールを頼む。ニュースの時間になったのでNHKにチャンネルを変えてもらう。あまり、たいした情報は得られない。「三陸で大きな地震があった」、「首都圏も交通が麻痺している」といったくらいである。別の常連客は、揺れがひどかったことを店の人たちと話し合っている。
ゆっくり食事を済ませ、また歩き出す。椎名町からだと心持ち北西方向に歩くのがよいと考えるが、平坦な住宅街なので、はっきり方向が定まらない。要町という地名に行き当たったので、さらに西に向きながら歩く。住宅地のなかに、時おり驚く程の豪邸がある。敷地が広く奥まったところに和風御殿のような建物があったり、歴史的西洋館のような建物があったりする。建設時期は新しいので、地つきの地主さんが都市化によって資産価値を増やし、豪邸を建設したのではないかと感じられる。いつか昼間、表札など確かめながら見て歩きたいものだと思う。しかし、道はよく解らない。見当をつけて歩くだけだからどこに居るかの確信が全くない。つぎの目印は川越街道なのだが、あまり早く行き当たるより、環状七号線に近い辺りで出会った方が家には早く着ける。

そこに脇からタクシーが急に出てきてぶつかりそうになる。疲れていたので、思わず拾ってしまう。川越街道まで出てくださいというと、「大きな通りはどこも渋滞で動かないよ」とのこと。でもまずそこまでということで走り出してもらうと、二百メートルか三百メートルで川越街道に出てしまった。確かに川越街道は渋滞である。「悪いけどここまででいいや」といって降りると、それを見ていた人たちがわっと空になったタクシーを取り囲んで、乗り込もうとしている。
出たところは川越街道と環状七号線との交差点のすぐそばであった。ここからだと、わが家まで20分もかからない。それにしても川越街道は車が渋滞しているけれど、人も雑踏といってよいくらい混んでいる。おそらく池袋から歩いてきた人びとの波なのだろう。いま午後8時近くであるが、夕刻より混雑はひどくなっているようだ。川越街道を渡り、環状七号線を渡り、東武東上線の踏切を越えて、ほぼ想定した時間を経て、ようやく家にたどり着いた。食事時間を入れて、およそ5時間弱の行程であった。

東京にとってこの地震はぎりぎりのところで安全が確保された災害だった。もしも建物が崩れ、何カ所で道路が寸断されていたら事情は全く変わっていただろうし、都心部で停電が発生していたら、やはり交通信号が消えて交通パニックになっただろう。自動車まで災害に巻き込まれたら、火災を生んだかもしれない。青山から板橋区まで歩いたのは、そうしたパニックは起きていないだろうと考えたからだが、歩いていくうちにそうした交通傷害や火災発生の地区に行き当たってしまったら、悲惨なことになったであろう、まさに薄氷を踏む帰宅難民だった。
しかしながら、今回の災害は二週間を経て、徐々にその真のすがたを現わしはじめている。鎌田慧『新版日本の原発地帯』(岩波 同時代ライブラリー)を読み返しながら、この災害は起きる必然性をもっていたのではないかとすら見えてくる。
未曾有の規模といわれる震度と津波、原発事故。だがこれが本当に未曾有の規模であり想定不可能な災害だったのか、未来の歴史によってわれわれは審判されるであろう。


石山修武 第16信 2011年03月14日(月)

鈴木博之、難波和彦 両先生

昨日来の巨大地震は今日も連鎖して列島はまさに震動を続けています。一夜明けて各種報道に接して災害のスケール、深刻さに改めて驚いています。1995年の阪神淡路大震災に際して、わたしは何も出来ませんでしたが、現代都市の消費生活が実に脆弱な基盤の上に構築された、まさに砂上の楼閣であるのを実感しました。都市のインフラストラクチャー、水道、電気、ガスのライフライン、そして各種道路、そして情報システムでさえ、実にモロいという実態も知った。それがいささかのモビリティに関する考えを進めるキッカケになったのでした。

人間は愚かなモノです。のど元過ぎれば何とやらで、危機時状況が過ぎれば、そんな切実さとも本来考えられるアイデアだって次第に忘れ去ってしまう。あるいは努力も怠るようになる。
天災は忘れた頃にやってくるとは定番の金言でしょうが、今度の巨大地震は阪神淡路大震災の記憶が残るうちにやってきました。今現在も余震が続く世田谷村でこの通信を書いていますが、何かしなくてはならないとあせるばかりです。気仙沼にボランティアで駆けつけるのも良いのでしょうが、それより良い対応はないだろうかと考えました。

Xゼミナールとしてこの災害をどう考えるか、そして出来ればこの様な災害に接して、何か提案をすべきではないかと考えました。本当は三人でプロジェクトを起すべきでしょうが、それは時間がかかり過ぎる。60代半ばの人間の行う合理性は無い。

わたしは前から、いつ頃からだったか定かではありませんが人間達の避難所とも言える建築を構想し続けてきました。今度の巨大地震そして津波のもたらした現実の、まだほんの一端しか知り得ませんが、学校、公民館の大半、体育館も災害に対しての一時の避難所にはなり得ていないようです。

震災の中心から遠かった東京も大混乱ですが、あの無為とも思える巨大公共建築、東京国際フォーラムが地震によって家へ帰れなくなった市民4000人の仮宿泊所になったというのには大変触発されました。ようやく本来の使い径が見つかったなという感がありましたが、公共建築は本来そのような使われ方への想像力を官僚たちは育てるべきでしょうが、阪神淡路大震災後の神戸を見るに、それは宿命の如くに不可能でしょうか。宿命というのはイヤな言葉ですが、でもいかんともし難い。

でも恐らく難波さんは公的資金、公的な場所での大災害に対してもサスティナブルな公的住宅、あるいは学校、あるいはそれ等を含むコミュニテイを考えたいとするでしょうか。わたしは神社仏閣を考え直したいと考えます。社寺の現代の機能は論理的にそうあるべきだと考えます。直線的にそう考えます。それでわたしは先ず、避難所としての境内をアイデアとしてまとめてみたいと考えます。このアイデアはわたし一人のモノとしてではなく、Xゼミナールの成果としてまとめてみたいと直観します。この現実を前にして、ほとんどの個人のアイデアは意味がうすい。やはり匿名に近い形式で社会にプレゼンテーションすべきだと考えました。Xゼミナールのフィールドが最適だと、これも直観いたしました。天災を前にした直観です。よろしくお願いいたします。

3月12日 石山修武



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