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箱の家 PROJECT 青本往来記
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コンパクト箱の家

2011年06月30日(木)

7時起床。朝食後、猫の餌の取り替えとトイレの片付け、ベランダや室内の植木への水遣り。これがここ数日の日課になってきた。8時半出社。午前中は「10+1」ウエブマガジン編集部から送られて来たLATs第3回原稿の校正。少し加筆し、タイトルを「『生きられた家』の可能性の中心---機能主義2.0」に変える。35年前の本を現代の問題に引き寄せて読むためである。1時過ぎ、事務所を出て国立の「140北山邸」の現場へ2時半着。途中だんだん空模様が怪しくなり、国立駅に着いた所で小雨が降り始める。構わず歩いていったら夏用のパナマ帽子がずぶ濡れになった。パナマは濡れてしまうとおシャカである。現場は最後の詰めの段階。ベランダ手摺のチェック。エキスパンドメタルの歪みが綺麗に直されている。クライアントの補習用にスペアのローバル塗料を用意しておくように現場監督に指示。駐車場の平板ブロックが敷かれ、目地に芝生が植え込まれている。芝生にとってこの雨は恵みの雨だろう。室内に入り仕上がりをチェック。ようやく空間の全体像が見えてきた。数点の細かな修正を依頼。フレキシブルボードの色がやや黒めだが、時間が経てば明るく変化していくだろう。一部残工事が残るが、外構はギリギリ間に合いそうだ。3時半に現場を発ち、5時前に事務所に戻る。夜は雑用。建築学会から『建築雑誌』7月号が届く。特集は「Re-edit 環境学カタログ」。僕は「第2部 Project」に「エコハウス2.0へ向けて」という短文を書いた。モダンなエコハウスとサステイナブルなエコハウスとの比較論である。井上樹が今日一杯で界工作舍を卒業するので「140北山邸」オープンハウスの打ち上げを歓送会とすることにすることに決める。

『生態学的視覚論 ヒトの知覚世界を探る』(J.J.ギブソン:著 古崎敬 他訳 サイエンス社 1985)の再読終了。1985年に読んだ時、赤線を引き重要部分に星印を付けページに折り目を入れた部分を中心に読み飛ばした。カントの『純粋理性批判』に対する強烈な批判から始まるのが印象的である。序でギブソンはこう書いている。「私が読者に望みたいことは、空間の概念は知覚とは何ら関係がないということである。幾何学的空間は純粋に抽象概念である。宇宙は心象化できるが、実際には見ることはできない。奥行の手がかりは単に絵画に関係するもので、それ以上のものではない。視覚的3次元はデカルトのいう座標系の3つの軸の概念の誤用である。空間の概念を持たない限り、我々は周囲の世界を知覚できないであろうとする説は意味のないことである。事実は全く逆である。我々は足元の地面と空を見ない限り、何もない空間を想像することはできないであろう.空間は神話であり、幻影であって、また幾何学者のための作りごとである。(中略)カントが述べているような「概念なき知覚は盲目である」という独断を捨て去ることに同意するならば、深刻な理論的混乱、まさしくこの泥沼は涸れることであろう」。人間を包む包囲光の配列(ambient array)の変化の中から不変項(invariant)を抽出することが知覚であるというギブソン理論は、一見すると徹底して経験主義的に見える。しかし同じ発想がレヴィ=ストロースの構造主義人類学にもある点を考えれば演繹的ともいえるだろう。文化人類学における構造も人間の一見多様な思考の中に潜む不変項だからである。しかもレヴィ=ストロースは徹底したカント主義者を自称しているのだから問題は複雑である。アフォーダンスとは動物と環境の相互作用から抽出される不変項であり、環境が動物に提供する「価値=意味」である。「生態学的」という言葉は、価値を持った不変項が常に動物と環境の相互作用から生まれるという主張からくる。引き続き頭を整理する参考書として『アフォーダンス―新しい認知の理論』(佐々木正人:著 岩波書店 1994)を読んでみる。


2011年06月29日(水)

5時半起床。6時半に家を出て7時過ぎ東京駅着。今日は暑い日になりそうだ。7時16分発の新幹線に乗車に10時半過ぎ北上駅着。芳賀沼さんは電車に乗り遅れて約1時間後に到着。レンタカーも手違いで届いておらずやむなくタクシーを一日予約。車内で芳賀沼さんから「KAMAISHIの箱」の予算が決定されたという話を聞く。1時過ぎ釜石の鈴子公園に到着。釜石も蒸し暑い。南東端の敷地の樹木配置を調べ、建物の配置を検討。問題なく納まりそうだ。間もなく岩間妙子さんとNHK盛岡放送局の藤島新也さんが到着。今年入社したばかりの新人記者である。模型と図面を見せながら「KAMAISHIの箱」の概略を説明。TVカメラと吊マイクが僕たちを追い続けるので少々緊張する。できるだけカメラの方を見ないように心がける。岩間さんから南側のコロネードテラスに足湯をつくってはどうかという提案が出る。瓦礫を燃やすボイラーの設置に対して行政から補助が出るらしい。もちろん歓迎である。芳賀沼さんはこの種のボイラーについては詳しいようだ。コンビニでおむすびとお茶を買い車内で簡単な昼食。中心部の街はまだほとんど復旧していない。その後、大只越公園に移動し、もうひとつの「KAMAISHIの箱」の配置を検討。この敷地にはトンネル案よりも壁案の方が相応しいことを確認。どちらの公園も「KAMAISHIの箱」が建つことによって、辺りの様相がガラリと変わるだろう。岩間父娘は復興計画の細かな作業に追われて毎日を忙しく過ごしているとのこと。先頃開催された伊東塾のWSについても話を聞く。商店街の人たちも徐々にWSに参加し始めているそうだ。8月には何とか「KAMAISHIの箱」を実現させたい旨を伝え、3時過ぎに鈴子公園に戻る。タクシーで北上駅へ戻り5時前の新幹線に乗車。車内は満員。7時半東京着。駅構内の食堂で芳賀沼さんと夕食。福島の復興計画の話などを聞く。8時過ぎ解散。9時前に事務所に戻る。疲れが吹出したので早々に帰宅。『生態学的視覚論』を読みながらそのまま眠りに就く。

新幹線の車内で『ドレミファ娘の血は騒ぐ』(黒沢清:監督 1985)のDVDを観る。黒沢清の出世作というが大いなる未完成作。他愛のないコミック映画でテーマも台詞も観念的である。ショットも間延びしていてテンポが悪い。1970年代のATG(アートシアター・ギルド)の作品群を想い出した。


2011年06月28日(火)

8時半出社。午前中。伊東塾の「みんなの家」のスタディ。「KAMAISHIの箱」と構法と性能はほぼ同じだが、スケールを一回り縮めた建築とする。午後3時、栃内と事務所を出て京王線上北沢のスーパーポテトへ。4時から2ヶ月振りに断熱外装パネルの打合せ。通気層の効果と防火の実験結果の報告を受ける。ほぼ良好な結果なので性能を確保できる見通しはついたが、製造コストに問題がある。現状の製造ラインで製作すると通常の外断熱構法よりも高価になるという見積結果が出ている。製法と構法の中味を再検討しコストダウンを図ることを約して5時半終了。6時半に事務所に戻る。夜はいくつかの書類に眼を通す。明日、釜石に持参する「KAMAISHIの箱」の模型と図面をチェックし10時過ぎ帰宅。『生態学的視覚論 ヒトの知覚世界を探る』(J.J.ギブソン:著 古崎敬 他訳 サイエンス社 1985)の再読を開始する。


2011年06月27日(月)

7時起床。8時半出社。9時過ぎ芳賀沼さんが来所。福島県の復興計画と「KAMAISHIの箱」の打合せ。徐々に細部の詳細が詰められている。政治的な意味づけもあるだろうが、僕としてはリアリティの方が重要である点を強調する。『新建築』2011年6月臨時増刊「今、建築について思うこと」を届けてくれた。3.11に関する174人の建築関係者の文章が掲載されている。僕は芳賀沼さんとの連名で「パラダイム転換からの出発」という短文を書いた。「KAMAISHIの箱」に始めて言及した文章である。他の記事もパラパラと読んでみるが全部を読み通す気にはなれない。その後、あちこち脱線しながら夕方までにLATs第3回原稿をまとめる。『生きられた家』(多木浩二:著 岩波現代新書 2001)の書評なのだが、初版が出た1975年時点でどう読まれていたかという歴史的な位置づけから、現代において読み直す意義についてまでをまとめねばならない。あれこれ話題を探るうちに17枚近くに膨れ上がる。結局、僕流に、建築の「機能」の定義を可能な限り拡大し、新たな機能主義の可能性を探る試みであるという結論に結びつけて、タイトルを「機能主義2.0」とした。LATsの主旨に引き寄せた読解である。連載も3回目になって以前の記事との関係が生じ始めた。4回以降はさらに複雑な読解に展開するだろう。この書評記事は6月末に『10+1』のウェブマガジンに掲載される予定。何度読んでも『生きられた家』は散逸的な内容である。多木浩二がベンヤミンに惹かれる理由がよく分かる。夜は読書と原稿スケッチ。放送大学のテキストのスケッチを始める。まずは番組の全体像を紹介することから開始。インタビューや取材の対象を考えるうちに10時になる。10時過ぎ帰宅。

『CURE キュア』(黒沢清:監督 1997)のDVDを観る。黒沢監督らしさがもっともよく出たサイコサスペンス映画である。どことなくアルフレッド・ヒッチコックの『サイコ』に似た映画だが、ずっと謎めいている。『サイコ』はマザー・コンプレクスが要因であることがはっきりしているが、『キュア』は現代人に共通する「不安」を描いているからである。もっとも冷静で客観的であるはずの警察の精神科医までもが不安に押し潰されてしまうところが怖い。主人公の刑事が最終的にどうなったのかが判明しないままに映画は終わる。とはいえ、それまでなかった食欲が戻ったことに結果が暗示されているけれど。日常的な食事のシーンまでもが怖くなる。セットやロケーションの素晴らしさにも眼を奪われた。黒沢監督には明らかに廃墟趣味があるようだ。先頃のシンポジウムで鈴木了二が入れ込んだ理由がよく分かる。


2011年06月26日(日)

7時半起床。8時半出社。『ノルウェイの森』を観終わり、そのまま眠りについたため、さまざまな不思議な夢を見た。1960年代末は外界の政治的な出来事が内面を肥大化させる時代だった。先日の「帰心の会」における伊東豊雄さんの発言を想い出しながら、3.11も同じような現象をもたらしているのかもしれないと考えた。それをもう一度外界にフィードバックさせることが建築家の仕事なのだが。今日は一日LATs原稿に集中する。とはいえ論理構成が見えないので断片的な文章を書き続けるだけである。夕方、芳賀沼さんからメールが届く。今夜の打ち合わせを希望していたが、原稿に集中するため明朝に延期してもらう。夜までかかってようやく8枚書いた所で息切れ。10時に帰宅。ベッドの中で『生きられた家』を再々再々再々読。いくら読んでもキラリと光る断片が散見されるだけで全体像はない。強引に自分の興味に引き寄せるしか方法はなさそうだ。夜中に妻からメールが届く。娘と無事にニューヨークのホテルに入ったらしい。夜半過ぎ就寝。


2011年06月25日(土)

6時起床。早々に朝食を済ませ7時前出社。7時過ぎに事務所を出て地下鉄で東京駅へ。車中、石山修武さんから電話が入る。地下3階の総武線ホームで待ち合わせ。村松映一さんと3人で8時前発の総武線に乗り込む。昨日に引き続き日建連作品賞の現地審査。千葉で銚子行の普通電車に乗り換え10時に飯岡駅着。改札口で設計者の井口浩さんと待ち合わせ、彼の車で現地へ向う。途中、旭町の海岸線を通り津波の被害を視察。ほとんど堤防がない海岸線なので、海岸線沿いの建築は高さ2m強の津波で1階部分が完全に破壊されたそうだ。街並が歯抜け状態になっているのは瓦礫になった建築を撤去したからである。10時半「あさひミレニアムシティ」に到着。自立型のエコビレッジをめざすNPO組織であるミレニアムシティの建築で、井口さんはその理事長である。田園地帯の高台にある広大な畑の中に建てられた木造2階建ての建築。基壇部分には賃貸別荘の部屋が並ぶ。2階部分は共用のLDK。基壇の上に味噌蔵を移築し、ガラスの温室で囲っている。倉の外周に跳ね上げ式の障子が組み込まれており、冬期にはこれを閉じるとダブルスキンの入れ子空間になる。味噌蔵の下に設えられた掘炬燵に座り説明を聞く。建物の南側には実験農場と10kwのソーラーコレクターが並び遠方に海が見える。市街化区域を完全に外れた敷地なので法的規制がなく建築家の責任で設計したのだそうだ。数年前に審査した「くりもとミレニアムシティ」と同じコンセプトだが、味噌蔵を移築している点が新しい。エコ指向のマニアックな思想にもとづく建築なので、建築だけを取り上げて評価するのは難しい。井口さんがこの賞に応募した意図を聞きそびれたが、僕たちとしてはやはり建築に重点を置いて視るしかない。11時半終了。井口さんの車で飯岡駅まで送ってもらい、12時過ぎの特急電車に乗車。車内では昼食の弁当とビールで歓談。僕の現地審査は今日で終了。結局10作品を観た。会の審査は残すところ1作品である。2時過ぎ東京着。3時前に事務所に戻る。ビールが回りしばらくボンヤリとする。6時前事務所内を掃除し解散。7時帰宅。ゆっくりと風呂に入り疲れを癒した後、簡単な夕食を摂る。

ベッドの中で『ノルウェイの森』(トラン・アン・ユン:監督 2011)のDVDを観る。映像は文句なく素晴らしい。『青いパパイヤの香り』(1993)や『夏至』(2000)と同じく、緑と青が主調で、雨と湿気に溢れたアジア的空間の極致である。1960年代末の日本が現在のヴェトナムのように描かれている。しかしながら物語には今一リアリティがない。村上春樹の原作を読んでいないので比較はできないが、脚本もトラン・アン・ユンなので彼の解釈に従うなら、描かれているのは1960年代末における団塊世代の若者たちの愛と性である。団塊世代において歴史上初めて愛と性が純粋な形でテーマになった。しかしながら僕の考えでは、1960年代末の文化革命と、愛と性の純粋な形式化とは歴史的には表裏一体である。にもかかわらずこの映画では両者は決して交差しない。無関係にすれ違うだけである。若者たちの愛と性は、家族や社会とは無関係に完全に自立・自閉している(ように描かれている)。直子の自閉症はその象徴だと言ってよい。若者たちは純粋に愛と性だけに悩む。それは愛と性における日本的スノビズムに過ぎない。直子の自殺を知って渡辺が号泣する海辺のシーンは、あまりにも通俗的な「風景の発見=自我の投映」に見える。僕としては、若者たちが純粋に悩めば悩むほど、歴史性に対する彼らの無自覚な幼稚さに苛立が募る。これまでの僕の人生は、そのような腑抜け状態からの脱却プロセスだった。同じ団塊世代はどうだったか。その後の歴史から振り返れば、この時代は自立・自閉した核家族の大量生産への準備期間だったと言うしかない。だから現在もこの映画が共感を持って観られるとしたら、僕たちは社会を変えることはできないだろう。


2011年06月24日(金)

7時起床。朝早く妻からメールが届く。無事にニューヨークに着き空港で兄に会えたらしい。ひどく暑い。朝食後、猫に餌をやり、トイレを片付け、植木に水を遣り、ゴミをまとめて出す。8時半出社。昨夜、芳賀沼さんに貰った書類に眼を通す。難しい復興計画である。11時に事務所を出て東京駅へ。ホームで日建設計の櫻井潔さんと待ち合わせ12時前の新幹線で高崎へ行き、両毛線に乗り換えて終点の伊勢佐木駅へ1時過ぎ着。日本建築士会連合会作品賞の現地審査。改札口で設計者の芦澤竜一さんと待ち合わせ。伊勢佐木は今年最高の暑さで風が強い。クライアントの車で住宅「Sg」へ。広い間口は4台の駐車場で一杯。すべて種類の異なる外国車でフェラーリだけが室内駐車場に置かれ、クライアントの仕事場から見えるようになっている。エンスーのクライアントのようだ。平屋の建物だが機能の異なる12の部屋がそれぞれ異なる高さを持った箱として少しずつズラしながら中庭を囲むように並べられている。すべての屋根が異なる植栽を施されているので、建物全体が小さな集落のように見える。それぞれの箱が内外とも異なる材料や色彩によって仕上げられている。床に掘り込んだリビングのソファに座って一通り説明を聞いた後、建物全体を回り中庭に出て屋根に登る。住み始めて2年目だそうだが適度にエイジングが進んでいる。全体としてラフな仕上げには好感が持てる。とはいえ屋根の植栽に比べて外壁の性能が低過ぎる。RC造と木造の混構造で四隅にRC造の箱が置かれているのだが、正面の2つの駐車場はともかく、奥に置かれた寝室と浴室の箱が断熱なしの内外打ち放しとはいかがなものか。リビングとダイニングのトップライトも問題である。トップライトから差し込む真昼の直射日光は強烈である。僕が一番引っかかるのは閉じた中庭である。玄関を介して前面道路から中庭を垣間見えるようにすべきではなかったか。当初のコンセプトはきわめて明解だが、敷地条件が緩やかで予算にもある程度の余裕があったため余計な要素があり過ぎるのが残念である。整理したらもっとキレのいい住宅になっただろう。3時前終了。クライアントの車で伊勢崎駅まで送ってもらい、櫻井さんと感想を話し合いながら帰途に着く。櫻井さんは僕以上に気に入ったようだ。予定よりも一便速い電車に乗車。5時半に事務所に戻る。夜は「KAMAISHIの箱」の3案の模型写真を撮影。設計要旨と図面一式を添えてはりゅうウッドスタジオと浦部研究室に送信。10時半に帰宅。


2011年06月23日(木)

7時起床。7時過ぎに家を出る妻を玄関先まで見送る。8時半出社。9時に事務所を出てJR中央線で国立駅へ。今日は「140北山邸」の現場監理。改札口でTH-1の朝倉幸子社長に出会い一緒に現場へ向う。10時半現場着。足場は外れているが外壁は未完成。ベランダ手摺工事も始まったばかり。内部も家具工事の真最中でドタバタしている。地震の影響でサッシの納入が遅れたため工期を1ヶ月以上も延ばしたのに、なぜこの時期まで内装工事がかかるのか理解に苦しむ。間もなく『新建築住宅特集』編集長の中村光恵さんが到着。こちらから誘っておきながら、観て貰えるような現場状況ではないことを陳謝。とりあえず現場を案内する。間もなく北山さんと東端夫妻が到着したので中村さんに紹介。その後しばらく中村さんと震災復興に対する建築家の対応について意見交換。中村さんはジャーナリストらしく震災後の建築家の役割は復興へ向けての視覚的提案にあると主張する。それに対して僕は単に絵を描くだけでなく当面必要な建築をつくることにもあるのではないかと主張。要するに特殊な条件を逆手にとって、建築家がもっとも苦手とする回路に介入することである。「140北山邸」を発表する機会があれば、震災を機に提案した「コンパクト箱の家」や芳賀沼さん達と提案する「みんなの家」を紹介したい旨を伝える。12時前に朝倉さんと一緒に現場を発つ。帰りの電車の中で朝倉さんと雑談。TH-1が仕事を請けている建築家の中で僕が最年長なのだそうだ。なぜなのか詳しい理由は聞きそびれたが不思議な気分である。1時過ぎに事務所に戻る。LATs原稿が進まないので『生きられた家』を拾い読みしてキーワードを探す。全体像も体系性もない本であることに改めて気づかされる。栃内がまとめた「KAMAISHIの箱」の設計趣旨と図面のチェックバック。8時はりゅうウッドスタジオの芳賀沼さんと伊藤さんが来所。福島の復興計画について意見交換。先日、国の復興構想会議において村井嘉浩宮城県知事が民間資本の協力による漁業復興の提案を行ったことが発表された。国は何とか握り潰そうとしたが村井知事は押し切って構想会議の提案に盛り込んだ。僕は以前から村井知事のような提案以外に具体的な復興の方法はないと考えていたので快哉を叫んだ。原発事故が絡んだ福島の復興の条件は宮城県以上に複雑だが、だからこそNPOや財団法人のような民間組織が復興計画を策定し国や県はそれを財政的にバックアップすべきなのだ。国や県は相変わらず公共事業的なトップダウンの復興計画を考えているようだが、そのような発想はもはや時代錯誤というしかない。厳しい条件を逆手にとる復興計画は民間からしか生まれない。最大の障害は政治絡みの無責任なポピュリズムである。引き続き「KAMAISHIの箱」の打合せ。来週の釜石行のスケジュールを決めて9時半終了。10時過ぎ帰宅。今週末のニューヨーク行の準備のために娘が帰宅する。

ベッドの中で『重力ピエロ』(森淳一:監督 2009)のDVDを観る。楽天的な市役所職員の4人家族が、遭難、レイプ、事故死、風説、放火、殺人、癌などのさまざまな事件を通じて生き抜いていく物語。重力ピエロとはサーカスのピエロのようにいつも楽しく生きていれば、日常生活を縛り付けている重力も苦にならないという意味のようだ。家族の一体感がテーマなのだが、外的な攪乱要因によって鍛えられなければ、それは達成できないという点が現代的である。教訓的のようでいてそうではないギリギリの線を狙っている点が成功している。


2011年06月22日(水)

8時半出社。快晴で暑い。10時過ぎ、芝浦工業大学建築学科 堀越英嗣研究室の大学院生、洲崎洋輔くんと桶川遥香さんの2人が来所。デザイン・チャンピオンシップの打合せ。まず僕の方からどのようなテーマを望んでいるのかを聞く。それに対してはコンセプトよりもリアリティを重視したテーマでやりたいという回答。おそらく堀越さんとの打合せで示唆されたのだろう。僕は自分の経験から、大学院生レベルで考えるリアリティは高が知れていること、学生が考えるリアリティは実務レベルからみればほとんどコンセプトに近いことを話す。その上でコンセプトとリアリティという対概念ではなく、コンセプトの社会性や公共性を問題にした方がいいのではないかと提案。2人は納得したように見えるが理解してくれただろうか。7月28日(木)の講演会までにタイトルとテーマの叩き台を送ることを約して11時半終了。午後1時前に事務所を出てJR中央線で国立駅へ。約15分歩いて「134久保邸」に2時着。竣工後の1年検査。工務店の現場監督と岩元がすでに着いている。今年最高の暑さだが、天井扇を回しているので上下の温度差はほとんどない。地下の書斎はヒンヤリと心地良い。建物の内外を調査。建具の締まり以外にはとくに問題はない。補修工事のスケジュールを決めて2時半終了。その後、お茶をいただきながら夫妻と歓談。LATsで取り挙げるベンヤミンの本について、久保先生からベンヤミンを学ぶには『パッサージュ論』から入るよりもベンヤミン・コレクション-1『近代の意味』 (ヴァルター・ベンヤミン:著 浅井健二郎+久保 哲司:訳 ちくま学芸文庫 1995)から始める方が理解し易いというアドバイスを貰う。3時過ぎにお暇して岩元と一緒にJR南武線の谷保駅へ。登戸で小田急線新宿行に乗り換え下北沢で岩元と別れ代々木八幡駅へ。横河健設計の「H邸―多面体・TOKYO」に4時半着。横河さんの建築を訪れるのは久しぶりである。一昨年の修士設計で課題になった敷地である。石張りの擁壁上の庭園に、アルミ張りの不定形なオブジェを載せたような住宅。代々木八幡一帯は傾斜地で、擁壁の高さは元の地盤レベルに近いらしい。擁壁を斜めに切り込んだ玄関から奥の家族室に入るとジオ・ポンティの699 SUPERLEGGERA4脚を並べた食卓の向こうにパノラミックな庭の風景が目に飛び込む。ナラの無垢板を表面加工した食卓。これは横河さんのデザイン。床もナラ無垢材のフローリング。薄いブルーの低いソファも横河さんのデザイン。L字型の開放的な窓の向こうに、地面を掘り込んだ庭の斜面が広がる。台所、寝室、水回りを見た後にEVで2階へ。木造トラスによる不定形なオブジェの中に、待合(庭から上がる鉄骨階段につながっている)と露地の手水、客間兼茶室、トイレ、水屋(道具類を折り畳むとシャワー室になる)、アトリエがコンパクトに納められている。1階とは対照的な非日常的な空間。オブジェの周りは既存の樹木を活かした丁寧な造園が行われている。決して豪邸ではないが、あちこちに細かな仕掛けが散りばめられた高級住宅である。僕の建築観とは随分異なる世界なので、僕としては設計のコンテンツよりも、横河さんのテーマの立て方を学びながら見学する。唯一気になるのは、強固な擁壁が街に対して拒否的に見える点だが、細やかな石張りの優しい表情が救いである。5時半にお暇しすぐ近くにある横河さんの自邸「トンネル住居」へお邪魔する。20年振りくらいになるだろうか。2階家族室の床はココヤシカーペットからナラ・フローリングに張り替えられている。庭の樹木もかなり成長している。お茶をいただきながらしばらく歓談。横河さんの祖父、横河民輔の『是の如く信ず』(横河民輔:著 PHPパブリッシング 2010)を貰う。横河民輔は日本で最初の民間設計事務所の設立者である。6時過ぎにお暇し、6時半に事務所に戻る。夜はLATs第3回原稿続行。なかなか展開しない。10時帰宅。明日、ニューヨークに向う妻とハートフォードに住んでいる義理の兄家族に伝えるメッセージについて話す。夜半過ぎ就寝。


2011年06月21日(火)

8時半出社。梅雨の曇り空だがやけに暑い。10時半から花巻、栃内と「KAMAISHIの箱」の打合せ。3案それぞれが自己完結したプレゼンテーションになるように構成。金曜日までには一両日中にはまとめるように指示。午後2時半、遠方からの来客。別室にて打合せ。今後のミーティングのスケジュールを決めて4時前終了。4時過ぎに事務所を出て湯島の新建築社へ。5時から今年度の日本構造デザイン賞の一次審査会。佐々木睦朗、横河健、中谷正人、中井政義と僕の5人の審査委員に『新建築』の橋本純さんと編集部2人がオブザーバーとして参加。途中からJSCA(日本構造技術者協会)の中田さんも参加。最初に業績賞の推薦書についての報告を受け承認。引き続き各自で応募作品の書類を読み込んだ後に投票。3作品に票が分散したのでしばらく意見交換し2作品に絞り込む。最終決定は現地審査によって行うことになった。現地審査の日程を決めて7時前終了。その後、近くの蕎麦屋で会食。冷酒を飲みながら震災やfacebookの話題など。8時半解散。佐々木くんと一緒に地下鉄で帰る。佐々木くんは、先月ニューヨークで開催されたAIA 主催の「Japan : Brainstorming」に出席しせんだいメディアテークの被災状況について報告したそうだ。その内容は「THE WALL STREET JOURNAL」というメジャーなメディアで「Why One Remained Standing」という記事で取り上げられている。佐々木くんからそのコピーを貰う。それくらいアメリカの建築界が東日本大震災に対して予想以上に大きな感心を抱いていることに佐々木くんは驚いたそうだ。9時過ぎに事務所に戻る。雑用を済ませ10時過ぎ帰宅。

ベッドの中で『M』(広木隆一:監督 2006)のDVDを観る。郊外の住宅地に住む若い核家族の主婦が、些細なきっかけからヤクザの売春組織に巻き込まれる。そこにかつて父親からDVを受けたトラウマを持つ少年が絡み殺人にまで至る。主婦と少年の逃避行に中でフィクションと現実の境目が消えかけるが、最終的には核家族としての日常生活が回復される。観ながら僕はデヴィッド・リンチの『ブルーヴェルヴェット』を連想していた。美元という新人女優の不思議な雰囲気が印象に残る。


2011年06月20日(月)

7時半起床。8時半出社。風邪は治ったようだが少々疲れが残っている。午前中は雑用で過ごす。MDRの齋藤歩さんからLATs第3回原稿の催促メールが届いたので書き始める。しかし相変わらず展開しない。あちこち文献を漁りテンションを上げようと試みる。『新潮』2011年7月号に掲載の新連載「哲学の起源:第1回」(柄谷行人)を読む。『世界史の構造』における4つの交換様式を哲学史へと展開させる試みである。第1の互酬交換を止揚する第4の交換様式のモデルは世界宗教だが、柄谷は思想における同じような第4の交換様式を、ギリシアのポリスにおけるデモクラシーの起源となったイオニアのポリスにおける「イソノミア」に見出そうとしている。デモクラシーにもとづくポリスが自由と平等との間を揺れ動くことを通して最終的に不平等や支配-被支配の関係をうみ出すのに対し、イソノミアは自由と平等をともに成立させる原理である。柄谷はこう書いている。「イオニアには、そのような不平等や支配-被支配の関係が生じなかった。もしあるポリスの中に不平等や専制支配があるならば、人は別の所に移動すればよい。その意味で、イソノミアは根本的に遊動性を前提としているのである。イソノミアは商工業の発展によって、氏族社会の拘束性を否定するとともに、そこにあった遊動性を回復するものである。それは遊動民的なものを高次元で回復することだ。交換様式という観点から見ると、イオニアでは、交換様式A(互酬)および交換様式B(再分配)は交換様式C(商品交換)によって越えられたが、それと同時に、交換様式Aを高次元で回復することが実現された。それが交換様式D、すなわち、自由であることが平等であるようなイソノミアである」(P.25)。柄谷は、自由主義と民主主義の混成体である近代議会制民主主義を乗り越える政治形態を探るために、自由と平等を巡る壮大な思想史を目論んでいるようだ。連載の展開を注意深く見守っていこう。引き続き『イギリス近代史』(村岡健次+川北稔:編著 ミネルヴァ書房 2007)と『ジェントルマンの文化』(鈴木博之:著 日本経済新聞社 1987)を並行して読み始める。夜、芳賀沼さんから電話。今週中に3種類の「KAMAISHIの箱」のプレゼンテーション一式を仕上げる予定なので、来週中に再度釜石に赴くことになった。

夜、ベッドの中で『キャタピラー』(若松孝二:監督 2010)のDVDを観る。終戦直前に四肢を失って故郷の農村に帰還した傷痍軍人と妻の生活を微細に描いた映画。キャタピラー(芋虫)とは四肢を失った夫のことである。寺島しのぶの演技が話題になったが、全体としてはやや教訓臭の強い反戦映画である。若松監督は、戦前の夫と妻の支配-被支配の関係が、四肢を失うことによって徐々に逆転して行くプロセスを、極私的な二人の性と公的な戦況の変化との対応を通して描こうとしたのではないかと思う。


2011年06月19日(日)

6時起床。7時過ぎに家を出て品川駅へ。8時前発の新幹線で新大阪に10時半着。タクシーで北区茶屋町のハーモニーホールへ10時45分着。安藤忠雄事務所が設計した建築だが内装は別の事務所らしい。10階で荷物を預け22階へ。難波研OBでハンガリーの留学生Peter Bodaくんの結婚式。花嫁は神戸育ちのお嬢様だそうだ。10時からの結婚式は既に終了して披露宴の待機中。Peterの家族、両親、妹、弟の4人がハンガリーから来日している。ここ数日は京都を見学したらしい。早速挨拶。フィアンセのご両親にも挨拶。難波研OBで現在は安藤事務所に勤めているハンガリーの留学生Matyas Gutaiくんと彼のパートナー、メキシコの留学生で隈研博士課程のRafael Balboaくんも出席している。11時から披露宴。鋭角三角形平面の頂点に新郎新婦が座り、扇上に机を並べた空間に約50人のコンパクトな披露宴。難波研OBで安藤事務所の森山一くんと千葉研OBの竹内くんが司会。最初に僕が主賓祝辞。新幹線のなかであれこれ考えたことを話す。その後さまざまなパフォーマンス。1時過ぎに終了。直ちに23階の結婚式場を見学する。鋭角三角形平面で外装は総ガラス張り、ベンチもアクリル製の透明な空間。高所のためガラスはペアではなく合わせガラスなので周囲からの輻射熱でかなり暑い。夏は大変だろうな。皆で三角形頂点の祭壇に立ちPeter夫妻を挟んで記念撮影。その後、僕が非常勤だった頃の教え子で安藤事務所OBの酒井康介くんや、森山夫妻、竹内くんらと外に出る。阪急梅田駅の北側一帯は再開発が進んですっかり賑やかになっている。近くのホテルのロビーカフェで歓談。震災復興などについて話す。震災の情報は大阪にはほとんど入ってこないそうだ。森山くんとは同期の寺崎雅彦くんの結婚式で再会することを約し3時に別れる。タクシーで新大阪駅へ。3時半過ぎの新幹線に乗り6時半に事務所に戻る。夕食を済ませて8時に再出社。9時前に芳賀沼さんが来所。福島県の震災復興計画に関する相談。国レベルで原発事故の終焉後の壮大なまちづくり計画が進んでいるそうだ。僕は昨日の伊東塾の報告。Archi-Aidでは福島県の活動情報が欠落しているので連携を図るべきではないかと提案。五十嵐太郎さんがパイプ役になるかもしれないという話。今週半ばの打合せを約して10時半終了。11時帰宅。

往復の電車の中で『アジアと欧米世界:世界の歴史25』(加藤祐三+川北稔:著 中公文庫 2010)を読み終わる。近代世界システムの視点から見ると、産業革命や日本の開国が、これまでの通説とは異なる歴史的意味を持つことがよく分かった。「イギリスを中心として湧きおこった工業化の波は、イギリス人やヨーロッパ人が勤勉であったとか、発明の才に恵まれていたとかいった主体的な条件のみによって引きおこされたのでは毛頭ない。「世界はひとつ」になっており、そのひとつの世界がつぎつぎと新しい地域を飲み込む傾向を持っていた。イギリス産業革命に端を発した工業化という長期の、世界的な動向も、そのような世界システムのなかでこそ、おこったことなのである。イギリスは、この世界システムのなかで、圧倒的な地位---ヘゲモニー---を獲得した。インドの農民がつくったアヘンで、中国の農民がつくった茶を買い取り、カリブ海やブラジルで黒人奴隷やアジア系移民がつくった砂糖をあわせて、イギリスの都市労働者の朝食は成立した。彼らが工場で紡いだ綿花もまた、アメリカの黒人奴隷やインドの農民の生産物であった。できあがった製品の市場もまた、世界各地にあったことはいうまでもない。1951年のクリスタル・パレスの輝きは、まさに世界システムの頂点に立った国の輝きだったのである」(p317)。要するに、近代建築もまた近代世界システムの中で生まれた訳である。この近代世界システムに最後に参入したのが日本である。他のアジア諸国とは異なり、開国がイギリスではなくアメリカに対して、しかも戦争を経ず、植民地化もされず、自らの意志において行われたことが、その後の日本の急速な近代化をもたらした。明治維新後の日本が、日清戦争と日露戦争に勝利した後、ヨーロッパ列強やアメリカと同じような形でアジアの植民地化を試みた要因はそこにあるというのが本書の結論である。


2011年06月18日(土)

8時半出社。「140北山邸」のオープンハウスのポスターを栃内が作成したので、直ちにHPにアップするように指示。午前中は雑用。午後1時過ぎに事務所を出て神谷町の伊東建築塾神谷町スタジオへ。2時から土曜講座。テーマは「東日本大震災 現地からの報告」。会場には約100人の設計関係者が集まる。伊東豊雄さんの挨拶から始まり、東北大の小野田泰明さんと東北工大の福家粧子さんによるArchi-Aidの活動紹介と震災の現況報告。引き続き小嶋一浩さんの司会で釜石ワークショップと夏に牡鹿半島の集落の何カ所かでワークショップを開催する計画の紹介。山本理顕さんによる仮設住宅の配置提案の報告。岩手県の何カ所かで山本さんの提案が実現されるらしい。僕に話が振られたので、先日の福島でのJIA復興支援会議と木造仮設住宅を紹介し、プレ協の鉄骨仮設住宅の性能面における問題点を指摘。熊本から来た桂英史さんが、熊本県が仙台市に「みんなの家」を寄贈する件の報告。内藤廣さんが岩手県の復興土木会議の報告。断片的ではあるがさまざまな意見を知ることが出来た。予想外だったのは参加メンバーが建築設計の業界だけでなく建設業界の復興活動の情報をほとんど持ち合わせていないことである。とくに福島県の活動に関する情報は皆無で、小野田さんは「福島県は暗黒ゾーンである」と言っていた。女川原発に関してもそうだがArchi-Aidは原発に関してはお手上げらしい。それにしてもJIA福島があれだけの活動を展開しているにもかかわらず、その情報がまったく知られていないことにビックリした。建築界は狭いにもかかわらず小さな島に分割されているようだ。小野田さんはArchi-Aidは復興活動のプラットフォームをめざすと言っているが、建築界の小さな島をネットワークすることも重要ではないだろうか。最後に伊東さんが「震災復興へのコミットメントは自らへの問いかけである」というメッセージを会場に投げかけて4時過ぎ終了。5時に事務所に戻る。5時半事務所内掃除。6時前解散。6時過ぎに事務所を出て赤坂の鰻屋へ。娘夫婦主催による父の日の会食。9時半帰宅。明日が早いので11時過ぎ就寝。


2011年06月17日(金)

8時半出社。まだ頭痛が続いている。明らかに風邪である。「140北山邸」の最終スケジュールがようやく固まる。7月2日(土)午前に最終検査を行い午後にオープンハウス、7月7日(木)に完成引渡と決定。早速、オープンハウス案内を作成するように栃内に指示。11時半に事務所を出て新宿へ。ホームで村松映一さんと待ち合わせ12時発のスパーあずさに乗車。日本建築士連合会作品賞の現地審査である。2時半に塩尻着。改札口で設計者の柳澤潤さんと待ち合わせ、徒歩で「塩尻市民交流センター」に向う。2006年に開催されたコンペの入選作品である。このコンペには僕たちも参加した。市立図書館と集合住宅を組み合わせた興味深いプログラムだったが、実現案では住宅がなくなり、代わりに賃貸オフィスが作られている。2階のセンター事務室でセンター長の田中速人さんと事業部長の藤森茂樹さんに挨拶し、簡単な説明を受けた後、柳澤さんと藤森さんの案内で外観から室内へとじっくりと見て回る。変形敷地に合わせたマッシブな3階建てのヴォリュームを、2.5mグリッドに従ってランダムに立てた厚さ20センチ、幅250センチのPCパネルによって支えている。柳澤さんによれば、PCパネルのサイズは運搬可能な最大サイズによって決めたという。もちろん機能的な寸法チェックも行ったのだろうが。この構造システムは建築センターの構造評定を受けたそうだ。4階床は40センチ厚のヴォイドスラブ。この床を人工地盤として、その上に鉄骨造2階建ての貸事務所が載せられている。地下1階は閉架書庫と機械室、1、2階が図書館、3階が市民交流センターである。3階建てのヴォリュームにサイズの異なる4個の正方形平面のヴォイドを配置し、それぞれのトップライトから室内に自然光を取り入れ、自然換気するというシステムである。外周はガラスとアスロックの単純なカーテンウォール。3階レベルで前面道路を挟んだ既存の立体駐車場と連絡通路で結ばれている。この連絡通路は土木構造物なので、実現にもっとも手間取ったという。地下の免震装置も見学。村松委員長は隅々まで考え抜かれた隙のない建築に感心している。僕も基本的に同感なのだが、どことなく引っかかるものがある。ひとつは塩尻市という街にこの施設はやや規模が大き過ぎるように思える点である。果たしてプログラムは十分に稼働しているのだろうか。ウィークデーのせいか3階の市民交流センターはまったく使われていない。しかしこれは建築家の責任ではなく市の運営の問題かもしれない。もうひとつは建物のヴォリュームが必要以上に大きく感じられる点である。3層吹抜けの巨大なヴォイドが4カ所もあるのだから、他の空間はもっとスケールを抑えてもいいはずである。しかし2階の階高がやけに高いのは、恐らく駐車場との連絡通路のレベルによって階高を決めたからではないか。ギリギリの予算で壁や天井をフラットな仕上げにしていることも起因して、全体としてやや茫洋とした空間になっている。さらに巨大なヴォイドのトップライトの熱負荷はかなり大きいのではないかと思う。とくに夏の日射が気になる。総じてエネルギー的な配慮に問題がありそうである。4時近くになると学校を終えた中高生が増えてくる。彼らにとってこの施設は格好のたまり場になっているようだ。1階の子供支援センターの入館者も増えてくる。この施設の利用時間は午後遅くから夜までのようだ。4時に見学を終えて事務室に戻り、田中センター長から建物の利用状況について報告を受ける。僕と同じような疑問を持つ人が多いと見えて、利用人数が最近は増加傾向にあることを強調される。4時半にセンターを発ち、柳澤さんと一緒に徒歩で塩尻駅へ。5時過ぎの特急あずさに乗車。車内ではビールとワインで盛り上がる。コンペの審査委員長だった山本理顕さんや、ボスだった伊東豊雄さんも見学に来たそうだ。柳澤さんは東工大の坂本一成研究室の出身で、塚本由晴さんや西沢大良さんと同期だという。相変わらず偏頭痛は止まらない。8時前に新宿着。原宿で柳澤さんと別れ8時半に事務所に戻る。9時過ぎ帰宅。風呂につかり今日一日をボンヤリと反芻。1時過ぎ不思議な夢で目が醒める。ウィスキーを煽って1時半に就寝。


2011年06月16日(木)

8時半出社。後頭部の鈍痛。ズキズキはしないが気分が良くない。7時間は寝ているのに眠い。風邪のせいだろうか。「KAMAISHIの箱」の3つの分解案を整理しチェックする。「帰心の会」の「みんなの家」としてはやや規模が大きいが、5m材を4m材に変えても成立するので十分に対応できる。詳細図だけでなく、規矩図、部品図、組立図、模型を揃えたセットとしてまとめることにする。まとめの仕様を指定しスタッフに指示。来週半ばまでには仕上げよう。午後、頭痛が止まらないので一旦帰宅ししばらくベッドで休憩。5時半に事務所を出て東武東上線のときわ台へ。雨が降り始めている。改札口で石山さんと待ち合わせ鈴木邸へ。久しぶりに鈴木邸にてXゼミ・ミーティングを開こうということになった。オープンハウス以来の再訪である。奥さんも在宅。夕食をいただきながら震災復興や日建連作品賞の現地審査などについて意見交換。3人がそれぞれの活動を展開している。缶ビールを2杯呑んだ所で頭が朦朧としてくる。8時にお暇し9時過ぎに事務所に戻る。構造家の多田脩二さんからメールが届く。一昨日の「日本大学理工学部船橋キャンパス新サークル棟」に関するコメントへの返答である。建築家の要求への不満や現場監理が出来なかったための結果だという説明。僕にも同じような経験が多々あるので気持ちは痛いほど分かるが結果は結果である。次はぜひ頑張って欲しい。頭痛が激しくなって来たので早目に帰宅。『アジアと欧米世界』を読みながら夜半前に就寝。


2011年06月15日(水)

8時半出社。昨夜の芳賀沼さんとの話し合いを思い浮かべながら「KAMAISHIの箱@大只越公園」の第3案をスケッチ。小規模な建築でも周囲の都市スケールに対峙できるようにするには、やはりリニアな建築が適切だと考え、トンネル状ではなく壁状の建築に変更する。スケッチをまとめて栃内に清書を指示する。午後1時半、芝浦工業大学の堀越英嗣さんが来所。毎年、建築学科で開催している「デザイン・チャンピオン・シップ」の出題を依頼される。建築学科の学生全員を対象とする学内コンペのような課題である。藤木隆男さんが在任中に始めたプログラムで、堀越さんが引き継ぎ、今年で10年目になるらしい。二もなく快諾。直ちに大学に伺うスケジュールを決める。堀越さんにはこれまで何度かおあい会しているが、今回初めてじっくりと話をさせていただいた。僕よりも少し若いが世代感覚はほとんど同じである。『断面パースで読む 住宅の「居心地」』(山本圭介+堀越英嗣+堀啓二:著 彰国社 2010)をいただく。図版満載の美しい本である。お返しに『建築の理』を贈呈する。LATs第3回原稿のスケッチ続行。せんだいメディアテークを見学した日、帰途の新幹線内での多木さんとの会話から始めることにする。多木さんと直接お話ししたのはその時の一度だけである。夜までかかかってようやく全体のストーリーが見えてくる。アタゴ工場の設備システムに関する短文をまとめ『新建築』編集部に送信。栃内が「KAMAISHIの箱@大只越公園」の第3案をまとめたので、コメントを添えて芳賀沼、浦部両氏に送信。10時過ぎ帰宅。

ベッドのなかで『ドッペルゲンガー』(黒沢清:監督 2002)のDVDを観る。何がテーマなのかよく分からないが妙に腹に応える映画である。映画のプロが観客のプロに向かって挑戦的に作った映画と言えばいいだろうか。最初のうちは黒沢監督らしいホラー映画だが、だんだんズレていって舞台劇のようになり、ロードムービーから突然ドタバタ喜劇に転換し、ハッピーエンドに終わるという不可思議極まりない映画である。シナリオはほとんど破綻寸前である。黒沢の出世作『CURE』(1997)をますます観たくなって来た。


2011年06月14日(火)

8時半出社。芳賀沼さんからメールが届く。昨日の釜石での岩間さんとの打合せと調査結果の報告のために今夜来所することになった。それまでに僕の仮設的な案を一通り示すため「KAMAISHIの箱」の鈴子公園ヴァージョンのスケッチをまとめて栃内に渡す。12時半過ぎに事務所を出て、地下鉄半蔵門線、東西線を乗り継ぎ船橋日大前駅に2時過ぎ着。改札口で松川淳子さんと設計者の山中新太郎さんと待ち合わせ。日本建築士連合会作品賞の現地審査である。駅舎のシェルターは斉藤公男さんのデザイン。駅のすぐ前に日大船橋キャンパスの正門がある。正門からしばらく西に歩き「日本大学理工学部船橋キャンパス新サークル棟」に着く。関係教員と職員が出迎えてくれる。ダイアグラマティックな平面計画に興味を惹かれてピックアップした作品。構造は斉藤公男さんの弟子で、佐々木睦朗事務所出身の多田脩二さんだそうだ。「箱の家007」の構造担当は多田さんだったと記憶している。鉄骨造平屋の建築で主構造材にH-100×100を使っている。最小サイズのH型鋼によって繊細で軽快な構造を実現したい気持ちはよく分かるが、問題は剛接合部の納め方である。僕も経験済だが、ボルトによる剛接合はH-100×100の軽快さを台無しにするほどゴツイ。この材を使う場合は、すべての接合部をピン接合として完全なブレース構造にするか、あるいはフランジを溶接した剛接合とするかのどちらかしかない。実際、あちこちにボルト剛接合が目につき、多田さんらしくないナァという感想。屋根や壁のための二次構造のシステムも十分に整理されていない。構成要素をすべてアラワシにするという僕のポリシーと共通する点の多い建築だけに残念である。プラニングのコンセプトは明解だが、構法は未完成という結論である。5時前に事務所に戻る。夜、芝浦工大の堀越英嗣さんから電話。設計製図課題の依頼があり快諾。明日、来所して詳しい話を聞くことになった。栃内と「KAMAISHIの箱@鈴子公園」の詳細打合せ。8時過ぎまでに図面一式をまとめて、はりゅうウッドスタジオと浦部研に送信。9時前、芳賀沼さんが来所。先週末のJIA福島のパネルディスカッションについて意見交換した後、昨日の釜石訪問の報告を受ける。「KAMAISHIの箱」の当初案をふたつに分解し、大只越公園と鈴子公園の2カ所に設置する点を再確認。芳賀沼さんのイメージと僕の構想とに微妙な差があるので、今日までにまとめた案を再検討することを約して10時過ぎ終了。10時半に帰宅。

『アジアと欧米世界』を読み続ける。第5章「ヨーロッパの工業化とプランテーション開発」に本書の中核的な主張が書かれている。「18世紀末にイギリスでおこった産業革命というのは、もともと世界的に見ると、16世紀いらい、ヨーロッパ人がアジアやアメリカに求めた華やかな製品を、ヨーロッパのなかで自給しようとする動きであったことは、あきらかである。つまり「商業革命」にともなう「生活革命」で、イギリス人をはじめとするヨーロッパ人の生活に入り込んだいろいろな商品、砂糖、茶、タバコ、その他の食品、藍などの染料、そして何よりも綿織物や絹織物、焼き物などのうち、気候条件などに左右されてヨーロッパでは作れないものも多かった。それらは一般にプランテーションのかたちをとって、ヨーロッパ外の世界で大量生産された」。要するに、産業革命はこれまでの通説のように科学技術の進展によってではなく、商業革命とそれに伴う生活革命によってもたらされたということである。これを普遍的に言い換えれば「技術」が先にあるのではなく「交換」が先にあるということである。交換は「共同体」の内部ではなく、外部すなわち「都市」において行われる。近代世界システムと都市の形成とは密接に結びついているのである。


2011年06月13日(月)

7時起床。8時半出社。朝、芳賀沼さんからメールが入る。午前中に釜石に入り岩間さんと一緒に敷地を回るという。伊東塾のワークショップは今日まで続いているそうだ。午後に鈴子公園の写真が届く。樹木の正確な位置が欲しいが、ともかく「KAMAISHIの箱」第2案のスケッチを開始。第1案をふたつのパヴィリオンに分解し、一方を大只越公園に、もう一方を鈴子公園に配置する案を作成する。とりあえず大只越公園の案を図面化するように栃内に指示。この案は「帰心の会」から呼びかけがあった「みんなの家」になるかもしれない。午後、Xゼミ第16信原稿に取り組む。前半部分だけをまとめて石山研究室に送信。夕方サイトにアップされる。最近のモダニズム批判の不明解さに対する反批判である。モダニズムとモダニゼーションに関する歴史認識は「建築家の思想」の根幹にあるように思う。夜、「KAMAISHIの箱」第2案の図面一式をコメントを添えて芳賀沼、浦部両氏に送信する。10時過ぎ帰宅。鈴子公園の方の案が頭の中を駆け巡る。

『Always 三丁目の夕日』(山崎貴:監督 2005)のDVDを観る。東京タワーが完成する昭和33(1958)年の愛宕山三丁目の人間模様を描いた映画。集団就職、街場の工場、駄菓子屋、孤児、文学青年、ちんちん電車など、団塊世代だったら涙腺を刺激されるエピソードが満載だが(なので僕もほんの少し刺激されはしたが)芝居の臭さには閉口させられる。昭和30年代とは本当にこういう時代だったのかどうかは別にして、ノスタルジーと異国趣味にまみれた通俗映画というしかない。これが公開年の映画賞を総嘗めにしたとはとても信じ難い。


2011年06月12日(日)

7時半起床。9時出社。曇りだが相変わらず蒸し暑い。午前中は新しい敷地に合わせて「KAMAISHIの箱」のスケッチ。公園の南北両面に道路が通っており、その北側には現在、自衛隊が駐屯している。周辺の建物配置はGoogle Earthでチェックできるが、地上面のコンテクストが把握できないので、アプローチを決められない。もう少し資料が欲しい旨を芳賀沼さんにメール送信。昼過ぎに事務所を出て西新橋のビルダーズシステム研究所へ12時半着。パッシブデザインコンペの一次審査。野沢正光(審査委員長)、中村好文(日大)、小林光(前環境省事務次官)、清家剛(東京大学)、中野淳太(東海大学)が出席。会場に並べられたパネルを観ながら、気になる応募作品をチェックし採点していく。住宅部門には140点余、技術製品部門には26点、住まい手・ライフスタイル部門に110点余の応募があるので、すべてを見終わるのに2時間半かかり3時過ぎに終了。直ちに審査員の採点を合計した後、それぞれの部門の上位作品をリストアップ。最終的には審査員全員でパネルを観ながらディスカッション。住宅部門の入賞作品は最終審査会でのプレゼンテーションによって決めるので、候補作品を15点に絞る必要がある。突出した作品はなく上位20作品余はほとんどドングリの背比べ状態である上に、審査委員の意見が多様で集約するのが難しい。僕は作品を選ぶというよりも審査委員のコンペに対するスタンスを示すという視点から意見を述べる。このコンペは単に優秀なパッシブデザイン作品をピックアップする場所ではなく、共有できる問題提起としてのパッシブデザインを選ぶ場所だと考えるからである。したがって優れた作品であっても設計条件が恵まれている場合は基本的に選ばないという立場になる。環境条件のいい場所であれば、優れたパッシブデザインが実現できるのは当たり前である。そのような作品を選んでもコンペとしての問題提起的なメッセージにはならない。あれこれ意見交換し5時前にようやく15作品に収斂。他の2部門については、大きな意見の食い違いはなくスムーズに決まる。それにしても応募作品全体を通して3・11以降の問題提起はほとんど見られない。とくに「住まい手・ライフスタイル部門」の危機感の無さには唖然とさせられる。マイホーム主義がくまなく浸透していることの証左だろう。審査委員毎に簡単な審査所感を述べた後、7月13日(水)にホテルオークラで開催される最終公開審査のプログラムを確認し6時前終了。タクシーで銀座の沖縄料理屋に向かい懇親会。沖縄料理と泡盛で盛り上がる。8時過ぎ終了。小雨の中、8時半に事務所に戻る。芳賀沼さんから電話とメールがあり、明日「KAMAISHIの箱」の敷地調査に釜石へ向うという。感謝のメールを送り、再びスケッチ。10時過ぎ帰宅。『アジアと欧米世界』を読みながら夜半就寝。


2011年06月11日(土)

6時半起床。雨が降り続いている。蒸し暑い。7時半過ぎに家を出て東京駅へ。8時20分発の新幹線で郡山へ10時着。改札口で芳賀沼さんと待ち合わせ、彼の車でログハウス協会郡山支部へ。福島県のログハウス仮設住宅を監理している臨時事務所である。芳賀沼さんのはりゅうウッドスタジオや日大郡山の浦部研究室の学生達はここで寝泊まりすることもあるのだという。芳賀沼さんのお兄さんでログハウス協会東北支部長の芳賀沼養一さんと志賀正敏さん、ログハウス協会技術委員長の池田均さん、ログハウスの製材とプレカットを行っている赤井製材所の鈴木裕一さん、ログハウスの運送を行っている遠野運送の中野光さんらにお会いする。芳賀沼さんが「KAMAISHIの箱」の概要について説明し実現へ向けての協力を依頼する。11時過ぎにお暇して福島へ。途中はりゅうウッドスタジオが手がけたお好焼屋で広島風お好焼の昼食。木材と金属波板によるカジュアルな内装。家族全員で経営している楽しい店。子供も同じユニフォームでカウンター席に座っている。1時過ぎ福島駅近くのコラッセ福島に到着。1時半から5階大会議室でJIA福島地域会主催の第2回復興支援会議。題して参加型座談会「福島県木造仮設住宅から復興へ」。JIA福島地域会会長の辺見美津男さんの挨拶から始まり、間に質疑回答を挟みながら工務店4社による木造仮設住宅の仕様紹介、配置計画の紹介、仮設住宅再利用の検討、復興住宅の問題などについて報告。五十嵐太郎さんがヴィデオ参加でログハウス仮設住宅地内の共用施設のプロジェクトを説明。私見ではログハウス協会の仮設住宅が仕様や配置の点でもっとも充実しているように思える。最後の意見交換では、僕やスタジオ・ナスカの八木さんが発言したがプラクティカルな意見ではないため反応は今一。福島県土木部の建築担当の佐々木孝男さんがプレファブ協会の鉄骨仮設住宅だけでなく木造仮設住宅を採用するに至った経緯を説明する。阪神大震災で被災した兵庫県の建築家が紹介した地域の文化遺産の民間再生事業も興味深い。5時半終了。東京だけでなく北海道や兵庫県からの参加者もあり百花繚乱のシンポジウムだった。とくに印象深かったのはプレハブ協会の鉄骨仮設住宅に対する批判が頻出したことである。災害時の緊急性という条件に胡座をかいて、ここ20年以上まったく性能改善を行わず旧態依然としたシステムを提供してきたプレファブ協会の対応はほとんど犯罪に近いと言ってよい。今回、木造仮設住宅が本格的に実現されることによって両者の性能の相違が明瞭になり、プレ協の仮設住宅が淘汰されることになるのは間違いないだろう。そうなる前に構法と性能の再検証が行われることを期待したい。6時前、芳賀沼さん、滑川さん、浦部さん、構造家の濱尾博文さんらと近くの居酒屋で打上げ。NHKの若い女性ディレクターも参加。敷地が変わった「KAMAISHIの家」について意見交換。新しい敷地についてもう少し詳しい情報収集を行うことを確認して7時過ぎ解散。7時半の新幹線に飛び乗り9時過ぎ東京着。10時に事務所に戻る。少しだけスケッチをして11時過ぎ帰宅。シャワーを浴びて汗を流しビールを飲んで夜半過ぎ就寝。頭の中を「KAMAISHIの箱」や「みんなの家」の構法やプランが駆け巡りなかなか眠れない。2時過ぎに起きウィスキーを煽って再び床に就く。


2011年06月10日(金)

7時起床。8時出社。8時半過ぎに事務所を出る。今日は一日、日本建築士会連合会作品賞の現地審査である。まずJR山手線で恵比寿へ。東口から歩いて約15分。近くの道路で日建設計の櫻井潔さんと待ち合わせ、9時20分に「恵比寿の家」に着く。設計者の納谷学+新兄弟が迎えてくれる。極小の路地に面した極小の住宅。建主は若い夫婦。半地下から1階床までがRC造、その上の3層が鉄骨造。フレーム構造ではなく鉄板を曲げ加工したフラットな側壁が構造体である。クレーンが入れないので構造パネルを小部材に分解し手作業で建方したそうだ。構造設計はアラン・バーデンさん。室内はスキップしており、踊り場で生活するのは東孝光の「塔の家」に似ているが、それよりもやや広い感じ。外断熱だがサッシ周りの壁厚を見ると少々性能不足に思える。屋上に上ってしばらく話を聞く。櫻井さんは外壁のサイディングが今一気に入らないようだが法規とコスト上やむを得ない解決だろう。10時半終了。櫻井さんの車に同乗し調布北の深大寺へ。11時過ぎに着いたので車を降りて深大寺境内を見学。天台宗の古刹。その後、近くの蕎麦屋で昼食。時間があるので店を移動しコーヒーを飲む。12時過ぎに店を発ち12時半に「木箱:深大寺56/100」に到着。家の前で設計者の葛西潔さんが待っている。連作「木箱」の56番目だそうだ。間もなく建主が帰ってきたので室内に入る。「木箱」は2×12材を門型に組み合わせたフレームを450ピッチで並べたトンネル状の空間である。間口方向がラーメン構造、奥行方向が耐震壁構造。トンネル構造なので道路側にも開放しているのがいい。斜面敷地を利用し、中央に吹抜を挟んだスキップフロアの空間。道路側は地下1階、地上1.5階、奥は2階建て。奥行12インチの柱を利用して両側の壁面全面を棚にしている。1階床はモルタル仕上げで土間スラブ下に蓄熱式電気床暖房が組み込まれている。室内全体がラフでカジュアルな空間。とはいえ外装の下見板張りは僕の眼には少々やり過ぎのような気もする。葛西さんは設計だけでなく2×12材の輸入から工事までを請け負っているという点に感心する。2時終了。櫻井さんの車で新宿まで送ってもらい靖国通りで別れる。時間があるので無印良品新宿店の地下にある「MUJI+INFILL木の家」のショールームを覗いてみる。店員に声をかけようかと思ったがグッと我慢。店内をザッと回って3時過ぎに店を出る。新宿駅から湘南新宿ラインで横浜まで行き、根岸線に乗り換えて新杉田駅へ。金沢シーサイドラインに乗り換えて鳥浜駅で下車。待ち合わせ時刻の17時までに1時間以上もあるのでテクテクと歩いてベイサイド・アウトレットモールへ向う。海岸には無数のヨットやボートが係留されている。1時間前の16時に「ベイサイド・マリーナホテル横浜」に到着。建物の周囲をざっと見回った後レストランで本を読みながら一服。17時15分前に竹原義二さんと合流。間もなく村松映一さんも到着。ホテルのロビーで設計者の吉村靖孝さんの説明を一通り聞いた後、敷地内に分散配置された客室ユニットを見学。最長のコンテナサイズ(12m)の客室ユニットをタイで製作しコンテナ船で横浜の本牧港まで運搬した後、敷地に設営したという。スタジオタイプと1層タイプの室内を見る。1層タイプの方がユニットらしい空間に思える。ユニットをランダムに配置しているのは、海側の歩道を歩く人への視線を一方向に集中させないためだそうだ。共用部分は無垢の鉄骨柱のフレームにスキンを被せ、開口部を標準化したフレームで納めている。構造設計は佐藤淳さん。無垢の鉄骨柱と板金加工の窓枠フレームの見かけのサイズが逆転しているのはご愛嬌だが。その後、レストランでビールを飲みながら歓談。吉村さんが建築の表現よりも流通や生産のシステムに注目することの意図を聞いてみたが、村松さんの「建築家としての戦略でしょう」の一言で片が付いてしまう。しかし私見では、吉村さんの仕事は建築家の作家性や職能の見直しの試みである点に社会的意義があるような気がする。もちろんそれによって今までとは異なる建築がうみ出されていることが前提条件だが。6時過ぎ、吉村さんの車で鳥浜まで送ってもらい、横浜駅で村松さん竹原さんと別れる。東横線で渋谷まで戻り銀座線で表参道へ。8時に事務所に戻る。メールチェック。今日貰った資料を整理し10時過ぎ帰宅。


2011年06月09日(木)

7時起床。8時半出社。芳賀沼さんからの「KAMAISHIの箱」の敷地が変わる可能性があるというメールが届く。釜石の岩間さんからの連絡で、大只越公園には店舗が建設されることになりそうだとのこと。新しい敷地候補は釜石駅近くの鈴子公園である。住宅地内の大只越公園とはコンテクストがまったく異なり、ややロードサイドショップ的な街路に面した公園である。果たして「KAMAISHIの箱」がロードサイド的な都市コンテクストにうまく納まるだろうか。要検討である。10時に事務所を出て、北千住経由成田エクスプレスでつくば駅へ12時前着。バスに乗り継ぎ12時半に建築研究所着。「LCCM(Life Cycle Carbon Minus)住宅」の見学会である。かなり多人数の見学者が集まりそうなので、先に現場に行く。小泉雅生アトリエのスタッフ唐木さんが案内してくれる。『jt』の記事を読み込んだ上で訪れたが、スケールはほぼ予測通り。かなり暑い日だが風が抜けて心地良い。通風塔の効果だろう。ただ「ENEOS実験住宅」でもそうだったが、僕の基準から見るとややヘビーデューティな感じがするのは、設備が重装備というだけではなく、アピアランスのための仕上げが為されているためでもある。外装には2種類以上の材料が使われ、床のフローリングも2種類が使い分けられている。天井と壁が石膏ボードAEPで仕上げられている点にも少し引っかかる。これは良い悪いの問題ではない。感覚の問題である。僕としては構造体を現わしたいし、仕上げにはもう少しラフネス(揺らぎ)が欲しい。とはいえ小泉さんのテイストの方が一般受けすることよく分かる。本館前で小泉さん、村田さん、金子さんに会ったので、しばらく立話。2時過ぎにタクシーでつくばへ戻る。構内のスターバックスで簡単に昼食を済ませ、2時半発のつくばエクスプレスに乗車。3時半に事務所に戻る。伊東豊雄さんや山本理顕さん達の「帰心の会」から「みんなの家」の提案の呼びかけメールが届く。直ちに芳賀沼さんや浦部さんに転送。「KAMAISHIの家」と同じ構法で別のデザインを提案してみようか。「パッシブデザイン・コンペ」の応募作品のコピーが届いたので、眼を通し始めるが、かなり数が多いので1回見ただけでは絞り込めない。疲れたせいかXゼミ原稿にもLATs原稿にも集中できない。10時帰宅。『アジアと欧米世界:世界の歴史25』(加藤祐三+川北稔:著 中公文庫 2010)を読み始める。14世紀末から20世紀初めまでのアジアと西欧世界との関係を「近代世界システム論」の視点から捉えた歴史である。


2011年06月08日(水)

7時起床。8時半出社。10時過ぎ、北京精華大からの留学生、崔軒さんが来所。修士論文のエスキス。舞台空間にリプレゼントされた都市空間と現実の都市空間との関係の変遷がテーマだが、あまりにテーマが大きいので研究範囲を絞ることを提案。トニー賞の資料がもっとも系統的に手に入るらしいので、トニー賞に絞って上記のテーマを追ってみたらどうかとアドバイス。6月中に目次と梗概をまとめるように指示して11時半終了。それにしても難波研に留学して来て舞台空間の研究とは・・・。午後「141小澤邸」減額変更案に関して小澤さんから承認をもらったので、直ちにまとめて工務店に送信。何とか今月下旬までには決着をつけたい。Xゼミ第16信の原稿を書き始める。例のごとくなかなか展開しない。意図とは別に文章がひとりで走っていく、というか無意識が文章によって引き出されていく感じである。3枚まで書いた所で頓挫。構成を練り直すこととする。6時『新建築』の四方編集長と雨川さんが来所。「アタゴ工場」の図面の方針や写真の選択などについて打合せ。「KAMAISHIの箱」について聞かれる。ウェブ『新建築』を通して芳賀沼さんの仮設住宅の情報を得たらしい。図面を見せながら計画の概要を説明。夜は読書。10時帰宅。

『「明日の田園都市」への誘い---ハワードの構想に発したその歴史と背景』(東秀紀・他:著 彰国社2001)を読み終わる。いくつか新しい発見があった。「田園都市」の思想は第2次大戦後に国の行政によるニュータウン開発の思想へと展開し、英国各地にニュータウンが建設されるが、レッチワースはそのような動向に抵抗してあくまで民営化に拘り、マーガレット・サッチャーによる1980年代の行政によるニュータウン事業放棄と民営化による都市再開発への大転換の荒波を乗り越えて、最終的に財団法人化することによって生きのびることになる。「レッチワース田園都市財団法案」が成立するのは1995年である。もうひとつの発見は、日本の田園都市の草分け、澁澤栄一・秀雄父子の「田園都市開発株式会社」による田園調布開発のモデルは、レッチワースではなくアメリカ西海岸のニュータウンであったこと。駅から放射状に伸びる道路計画は、確かにレッチワースのカミロ・ジッテ的な道路計画とは対照的である。五島慶太による戦後の東急線沿線の多摩田園都市の開発は、民営による郊外住宅地の開発であり、田園都市思想の日本的換骨奪胎版である点も銘記されてよいだろう。


2011年06月07日(火)

7時半起床。8時半出社。「KAMAISHIの箱」のディテールスケッチの続行。短期間で建設する仮設建築だが、機械類に頼らなくても冬の寒さと夏の暑さをクリアできるだけのシェルター性能を確保したい。そのために必要な最小限の装備を考える。屋根構造についてあれこれスタディした挙げ句、テント張りの屋根下地として2×10材を細かいピッチで差し掛け、杉縁甲板によって面剛性を得る方法を思いつく。結露の可能性が高いので、新聞紙を再生した吸湿性断熱材を間に挟めば、何とか湿気を吸収できるだろう。これで単純で高性能なシェルターが実現できそうだ。電気設備はメンテナンスができる高さにレースウェイを水平に通し、そこに蛍光灯を直付けする。レースウェイからCD管を下げてスイッチとコンセントボックスをつける。換気扇もレースウェイの脇に付ける。すべてを露出させたメンテナンス可能なシステムである。栃内と短い打合せをくり返し、夕方までに図面一式と設計趣旨をまとめて芳賀沼さんや浦部さんに送信。6時半に事務所を出て千駄ヶ谷のメキシコ料理屋へ。井上の誕生会。最初はテカーテ・ビールで乾杯。やたらとアボガドの多い料理に少々辟易するが、海産物のトマト煮込みは美味しい。メキシコの赤ワインはそこそこ行けるので2本開ける。9時過ぎ終了。裏原の小さなバーで二次会。30㎝LP盤で70年代のハードロックをガンガン聴かせる店である。ほとんど顔馴染みの客ばかりらしく、僕たちはボックス席に座らされる。ズブロッカで乾杯。10時過ぎ解散。10時半に事務所に戻る。伊東豊雄さんや芳賀沼さんから「KAMAISHIの箱」の関するコメントメールが届いていた。11時帰宅。そのままベッドに倒れ込む。


2011年06月06日(月)

7時起床。8時半出社。「KAMAISHIの箱」の屋根構造と詳細スケッチ開始。10時過ぎ伊東豊雄さんに電話。伊東さんが出張中なので秘書に「KAMAISHIの箱」の計画を伝えた後、概要をまとめてメールで送信する。15時までにプランの変更、屋根構造システム、屋根テントの詳細などをまとめる。終了後、栃内に図面を大至急清書するように指示。井上と「アタゴ工場」について打ち合わせ。花巻と「141小澤邸」の減額変更について打ち合わせ。小澤夫妻から届いた追加変更項目を精査し、変更査定をまとめて小澤夫妻に返信。ウェブマガジン『10+1』に掲載するLATs第3回の原稿スケッチ開始。『建築雑誌』7月号のゲラが届いたので直ちに校正し返信。夜は先週末のショートトリップについて考えながら読書。Xゼミミーティングについてメンバーに打診するがスケジュールが合わない。今週の開催は難しそうだ。10時帰宅。

ベッドの中で『Helpless』(青山真治:監督 1996)と『回路』(黒沢清:監督 2000)の2本のDVDを立て続けに観る。『Helpless』は青山真治の初監督作品。北九州を舞台に父子と友人の錯綜した関係を描いている。過激な暴力描写は北野武映画に似ているが、どこか淡々とした乾いた印象がある。『ユリイカ』(2000)から『サッド・ヴァケイション』(2007)へと展開するモチーフがあちこちに散りばめられている。80分の短い作品だが、実際以上に長く感じるのは、さまざまな読み取りを可能にする映画だからだろう。『回路』は途中で一度観たことがあることを想い出した。インターネット社会がうみ出す新種の幽霊映画というかSFホラー映画である。現実空間と仮想空間との境界を描こうとしている点が2000年時点では新しかったかもしれない。しかし現在ではややリアリティやスピード感に欠けるような感じがする。


2011年06月05日(日)

窓際に寝たので明るくて5時に目が醒める。雑魚寝は何十年か振りで、ほとんど眠れなかった。しばらくウトウトした後7時半起床。ホールでおにぎりとインスタントのみそ汁をいただく。8時過ぎ、岩間親子に見送られて出発。芳賀沼さんの車に同乗しひたすら南下を続け、大船渡、陸前高田、気仙沼、南三陸、登米を経て仙台へ。リアス式海岸の湾に出る度に凄惨な瓦礫の街が視界に飛び込んでくる。どんな小さな湾も均し並みに津波に襲われている。とりわけ南三陸町の光景は凄まじい。山の上に船が打上げられ瓦礫が樹に引っかかっている。寸断された南リアス線の橋脚の上に瓦礫が乗っている風景はシュールリアリズムの絵画のようだ。広大な瓦礫の広がりを見ると、だんだんと神経が麻痺し、すべてを元通りに復旧するのは不可能に思えてくる。かといって復旧の拠点を見極めることも難しい。今回の大震災は都市計画の視点の決定的な転換をもたらすのではないか。そんな予感がする。復興に対しては、行政も土木計画家も都市計画家も建築家も、自分ができる範囲で虫瞰的に取り組むしかないからだ。その中から自生的に街が復興されることを期待するしかないのではないか。「KAMAISHIの箱」もその極小の一歩である。国や行政がやるべきことは、もはやトップダウン的な計画ではない。ましてや統一的な復興ヴィジョンの提案でもない。そうではなく、復興資金の提供ルールを含めて、一歩引いた立場から、各地域の自生的な復興を促すような公平なルールづくりに徹するべきではないか。2時前に仙台駅着。日曜日の街は異常に賑わっている。駅前のスターバックスで簡単な昼食。五十嵐研の博士課程院生と待ち合わせ。芳賀沼さんたちが担当している仮設住宅地内の公共施設のエスキス。仮設建築とはいえ県の基準や緊急性の条件をクリアしなければならない難しい仕事である。まだ観念的ではあるが、身体スケールから地域スケールまでを視野に入れた興味深いテーマに取り組もうとしている。1時間余エスキスした後、退席する。3時半の新幹線に乗車。6時に東京着。7時から杉本貴志さんの出版記念会だが、とても出席する気力も体力もない。会場に電話し欠席の報告。7時に帰宅。荷物を片付け、風呂に入った後、日記をまとめてHPにアップ。11時過ぎ就寝。

往復の新幹線で『「明日の田園都市」への誘い---ハワードの構想に発したその歴史と背景』を読み続ける。ハワードの構想した田園都市が、密度の問題を除けばコンパクトシティにきわめて近いことが分かる。実際に建設されたレッチワースは中世的集落のように見えるが、それは建築家レイモンド・アンウィンと彼が範と仰いだウィリアム・モリスの美意識によるものである。これに対してハワードは街の中央に「水晶宮」という鉄骨とガラスのショッピングセンターを置くというように、もっとモダンなヴィジョンを持っていたようだ。土地を公有化するという社会主義的計画でもなく、すべてを民営化し投資の対象とする資本主義的計画でもない、民間の寄附による計画をめざした点がハワードの「田園都市」の限界であり、同時に最大の可能性かもしれない。彼はアソシエーショニズム(協同主義)的な組織による都市づくりを構想していたからである。しかし実際の計画は株式会社組織による資本主義的計画によって建設された。20世紀初頭の英国では他に選択肢はなかったからである。


2011年06月04日(土)

6時半起床。急いで朝食を摂り7時15分に家を出て東京駅へ。8時10分発盛岡行の新幹線に乗車。11時半前に北上駅着。西口改札口で芳賀沼、滑川、浦辺3氏と待ち合わせ。日大郡山の院生4人と合流し車で東へ向かう。遠野の道の駅で簡単な昼食。遠野は東北地方とは思えない緩やかな山に囲まれた盆地である。さらに東南東に向かい2時過ぎに釜石に到着。街中の建物の1階が完全に破壊されている。車の通りは激しいが、街は完全にゴーストタウン化している。JR釜石駅もブルーシートで囲まれている。駅前のコンビニだけが営業している。2時過ぎに敷地候補の大只越公園前に到着。釜石災害復興推進本部復興プロジェクトチームの岩間正行さん、娘さんの建築家、岩間妙子さん、市の洞口政伸さん、建設技術研究所の松本健一さんらが迎えてくれる。公園内に立って敷地の周囲を眺める。公園から南に伸びる幅の広い道路は都市計画によって拡幅され、今年3月に完成したばかりだという。北には急斜面が迫り、手前に曹洞宗石慶禅寺の伽藍がある。津波はこの寺の山門前で止まったとのこと。西の斜面にへばりつくように墓場が広がり、東の海側には釜石の市街が広がっている。敷地の地面に置いた模型を見ながら建物配置について検討。9月には南の道路でテント市が開催されるそうなので、それまでに何とかこの建築を完成させるということで意見が一致。大まかな建物配置を決めた後、公園手前にある「子育てセンター」に移動。正面玄関の大ガラスが割れている。この建築も津波に襲われて数人が亡くなったそうだ。ボランティアの人たちが1階の床を水洗いしている。玄関脇の丸机に模型を置き、建築の詳細について説明。日常的にはインターネット・カフェや市民のミーティングやバザーの会場になるだろう。来週末に釜石で伊東豊雄さんや小野田泰明さん達による復興計画のワークショップが開催されるので、その活動とのリンクを提案し了承される。9月までに完成すれば、ワークショップの会場としても使われることを期待しよう。その後、車で周辺の街の被災状況を見て回る。街中にはまだ瓦礫が沢山残っている。芳賀沼さんによれば、他の街よりも瓦礫の撤去作業の進行は遅いそうだ。海岸に沿った道路を北上すると、リアス式の湾に差し掛かる度に瓦礫になった街や集落が現れる。鵜住居では川に沿った公営アパートの4階までが構造体だけになり、手前にあったというコンビニは完全に姿を消している。津波は川に沿った奥地まで達し、両側の山肌を見ると水が達した高さがはっきりと分かる。優に10mを超える巨大な津波である。潰れた小型車に花が捧げられている。釜石港では護岸が沈下して海水に覆われ、中国籍の巨大な貨物船が護岸の擁壁に乗り上げている。船の所有者は雲隠れしたのだという。岩間さんの説明は淡々として深刻さは微塵も感じられないが、時折漏らす「復興はいつになるやら」という嘆息まじりの独白には何とも応えようがない。確かに湾岸沿いの集落はすべて全滅だから、完全な復興は不可能のように思える。4時過ぎ釜石クリーンセンターに移動。3月に完成したばかりのゴミ焼却場で、海に近いがやや高い位置にあるため津波は達しなかったとのこと。現在この建物は釜石市を訪れる人達のための宿泊所として使われている。3階ホールで模型を囲んでミーティング。プログラムを再検討し、水回りは最小限に抑えることにする。屋根も格子リブとテントによる単純な納まりに変更。仮設だから雨は垂れ流しでも大丈夫だし、雨だれによるウェザリングも期待できる。建物名称は「復興の箱」から一旦「記憶の箱」に変更され、最終的に「KAMAISHIの箱」という固有名になった。6時半、全員で風呂に入る。ゴミ焼却場の熱で沸かしたお湯である。畳の広間に岩間妙子さんが用意してくれた夕食をいただきながら、ビール、日本酒、焼酎で盛り上がる。午前1時終了。そのまま皆で雑魚寝となる。遠くで波の音が聞こえる。津波が来たら裏山に登るようにという岩間さんのアドバイスが耳に残る。


2011年06月03日(金)

午前中、絵本『家の理』の再構成のスケッチをまとめて岩元に送信。デザインの全面的な変更を提案する。11時過ぎに事務所を出て東急線の大岡山駅へ。東工大付属図書館の見学会。改札口で設計者の安田幸一さんと待ち合わせ。竹内徹さんも到着。竹内さんは安田さんと同じ東工大教授で図書館の構造設計の担当者である。間もなく齋藤裕さんも到着。残念ながら佐々木睦朗さんはキャンセル。篠原一男行きつけのトンカツ屋でカツ丼の昼食。美味しいが僕には少々ヘビー。正門前で編集者の三輪直美さんと待ち合わせて新図書館へ向かう。安田さんによれば、旧図書館に耐震的な問題があるため、急遽、新図書館を建てることになったのだそうだ。地上3階、地下2階の建物で、地上部分は学習室、地下が図書館である。地上部分は鋭角三角形の平面で、2、3階が巨大なV字型の鉄骨によって空中に持ち上げられている。最近では珍しいアクロバティックな構造である。鋭角三角形の平面は、本館から南北に延びるキャンパスの軸線と敷地境界線によって挟まれた形から、半ば自動的に決まったとのこと。近い将来、本館からの軸線が、東急線を跨ぐブリッジによって坂本一成さんの東工大蔵前会館にまで延びるのだそうだ。2、3階の学習室は白色をモチーフとした全面ガラス張りの明るい空間。ガラス面には斜の模様がセラミック・プリントされ、幅の広いマリオンには細長い太陽電池が組み込まれている。合板製の机と椅子は藤江和子さんのデザイン。学習室は学生で一杯である。対照的に地下の図書館はコンクリート打ち放しと白色レンガ壁の静謐な空間。開架式の図書館で、ここの家具も藤江さんのデザインである。亜鉛ドブ漬けメッキのLED手元照明がカッコいい。書架は既製の書架にアルミニウムの棚板と側板を組み合わせたキレのいいデザイン。現在は旧図書館から本を移動中で、開館は7月だそうだ。その後、篠原一男の東工大百年記念館の最上階に移動し、図書館全体を俯瞰。屋根にも太陽電池が並べられている。新たに作られた篠原一男展示室を見学した後、1階のカフェでしばらく歓談。2時過ぎに解散。僕は蔵前会館まで足を伸ばし、しばらく散策。建物を通り抜ける公共通路がやや淋しいが、キャンパスと繋がれば両側の店はもっと活気づくだろう。全体としてややヘビーデューティなデザインとはいえ、軽くて中心性のないアンチドラマチックなデザイン。アスロックやアルミルーバーの使い方が坂本一成さんらしい。こういうのを「日常性の詩学」というのだろうか。3時半過ぎに事務所に戻る。栃内がまとめた「142森山邸」第3案を森山夫妻に送信。夕方、花巻が「141小澤邸」の現場説明から戻る。直ちに小澤夫妻に報告メールを送信。夜は読書とスケッチ。明日が早いので10時前に帰宅。


2011年06月02日(木)

7時起床。8時半出社。昨夜の打合せにもとづいて「復興の箱」の屋根の納まりを検討。太陽電池の装備は問題ないことを確認。テント屋根は雨仕舞が難しい。太陽電池との組み合わせはもっと難しい。絵本『家の理』のエスキス続行。最後の落とし所についてあれこれ頭を絞る。「箱の家」の仕様をもっと詳しく紹介すべきかもしれない。小澤さんから連絡が入り地元の工務店の見積も撮るように示唆された。直ちに先方に連絡し明日会うことにする。栃内と「142森山邸」の第3案の検討。東西スキップ案をヴァージョンアップした案。採光や建具について方針を決め、明日までにまとめるように指示。10時帰宅。海外取材が決まったので準備のために『「明日の田園都市」への誘い---ハワードの構想に発したその歴史と背景』(東秀紀・他:著 彰国社2001)を読み始める。僕にとってハワードの都市観は反面教師だが、19世紀のロンドンの状況を見ればやむを得ないとも言える。問題はそれが100年以上の後の現在にも通用するかどうかである。震災後の状況を考えれば、田園都市よりもコンパクトシティの方にリアリティがあることは明らかである。重要な条件はコンパクトシティに緑をどう採り入れるかだろう。コンパクトだがフラクタルな空間にヒントがありそうだ。

昨日の熱性能の続きで、熱容量(thermal capacity)についても考えてみる。熱容量は物質の比熱、正しくは比熱容量(Specific Heat Capacity)によって決まる。比熱容量とは、圧力または体積一定の条件で、単位質量の物質を単位温度上げるのに必要な熱量のことである。水の比熱容量(18℃)は1 cal /g・K = 4.184×103 J /kg・Kで、物質の中でもっとも大きいことはよく知られている。cal(カロリー)という単位は、現在は標準単位系ではなく、J/ g・Kが用いられるが、僕たちにはcalの方が馴染みは深い。主な物質の比熱は以下の通り。単位はcal /g・Kである。
・ 水 1
・ ガラス 0.1〜0.2
・ エタノール 0.6
・ 氷 0.46
・ 銅 0.09
・ 鉄 0.1
・ アルミニウム 0.2
・ 銀 0.24
・ 金 0.03
比熱容量は重量単位だが、建物の熱容量(thermal capacity)は比熱だけでなく材料の使用量(容積)によって大きく左右されるから、実際には容積比熱(J/m3·K)の方が重要な条件かもしれない。つまり物質の比重を考慮する必要がある訳である。たとえばコンクリートの比熱容量は約0.27だが、比重は2.3なので容積比熱は0.27×2.3=0.621cal/ cm3・Kとなる。


2011年06月01日(水)

7時起床。8時半出社。放送大学から海外ロケ申請の採択書が届く。これでマルセイユのユニテとロンドン近郊のレッチワースの取材が確定した。時期は来年の今頃だが、まずは取材メンバーの意志統一を図るため番組ディレクターに会合のセッティングを依頼する。界工作舍では「まちづくりハウス」の模型製作続行。建物の目的は定まっていないが、インターネットカフェやある程度の人数によるミーテングを想定した設えとする。伊東豊雄さんがインターネットのニュースでインタビューを受けている。釜石のまちづくりに協力するそうだ。僕たちが提案する「まちづくりハウス」との調整が必要かもしれない。
http://sankei.jp.msn.com/life/news/110601/trd11060114510008-n1.htm
絵本『家の理』の構成を再検討。「箱の家」の導入までのシークエンスを組み直すが、その後の展開をどうするかが思案のしどころである。あれこれスケッチをくり返すが、なかなか光明が見えてこない。夜8時、芳賀沼さんと浦部さんが来所。図面と模型で建物の概要を説明。芳賀沼さんから、部材の手配による規模縮小の可能性やコストダウンのための仕様変更などの打診を受ける。即答はできないが、システムが単純明解な建物なので、対応は充分に可能であると返答。こうした検討によって案の厚みが出てくるように展開させねばならない。最後に釜石という場所のコンテクストについて芳賀沼さんの意見を聞き、伊東さんの活動との関係を考慮して「まちづくりハウス」という名称を「復興の箱」に変更することにした。ピンポイントで建設する建物であることを明確にするためである。ちょっと固いような気がするがニュートラルでいいかもしれない。模型を渡して10時半終了。

昨夜、Matyas君との対話の中で、水の熱性能が話題になった。水の蓄熱性能(thermal capacity)の高さはよく知られているが、水の熱伝導率(thermal conductivity)についてはほとんど言及されないことを話していたら、栃内がWikipediaで調べてくれた。ほとんど知られていない珍しいデータなので、備忘録として記録にとどめておきたい。熱伝導率とは熱の伝わり易さの指標で、単位時間に単位面積を通過する熱エネルギー(熱流速密度)を温度勾配で割った物理量である。その逆数が熱抵抗率(thermal resistivity)である。熱流束密度をJ、温度をT、温度勾配を gradTとすると、熱伝導率λとの関係は次のように表される。  
J=−λgradT
一般的な材料の室温付近での熱伝導率は以下の通り。単位は W/(m・K)である。
・ カーボンナノチューブ(C) 3000〜5500 
・ ダイヤモンド(C) 1000〜2000 
・ 銀(Ag)420 
・ 銅(Cu) 398 
・ 金(Au) 320 
・ アルミニウム(Al) 236 
・ シリコン(Si) 168 
・ 真鍮 106 
・ 鉄(Fe) 84 
・ 白金(Pt) 70 
・ ステンレス鋼 16.7 〜 20.9 
・ 水晶(SiO2) 8.0 
・ ガラス 1.0 
・ 水(H2O) 0.6 
・ ポリエチレン 0.41 
・ エポキシ樹脂("bisphenol A") 0.21 
・ シリコーン(Qゴム) 0.16 
・ 木材 0.15 〜 0.25 
・ 羊毛 0.05 
・ 発泡ポリスチレン("Styrofoam") 0.03 
・ 空気 0.0241
熱伝導率がもっとも低い物質はアルゴンガスだと聞く。アルゴンガスをペアガラスに封じ込めるのはそのためである。窒素と酸素の混合ガスである空気が、熱伝導率がきわめて低い物質であることはよく知られている。空気は対流すると熱を伝えてしまうが、対流しない小さな独立気泡に分散した発泡断熱材にすると熱伝導率の低い材料になる訳である。木材の熱伝導率も比較的低いとはいえ、通常の発泡断熱材に比べると断熱材としての性能はかなり落ちることが分かる。水はさらに熱伝導率が高く対流もするから断熱材としては失格と言わざるを得ない。鉄、アルミニウム、銅よりもダイヤモンドやカーボンナノチューブなどの炭素系物質の方が熱伝導率が高いのは意外である。木材も炭素が主成分だが、分子構造がランダムなのと内部に細かな空気泡が封じ込められているために、それなりの断熱性能があるのではないだろうか。


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