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箱の家 PROJECT 青本往来記
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コンパクト箱の家

2009年02月28日(土)

今日は一日事務所。風邪気味で微熱がある。11時沼田一家とカクニシビルダーが来所。「133沼田邸」の工事契約締結。契約書と性能保証の読み上げ。確認申請の正式提出はこれからである。午後4時コンペ打ち合わせ。微熱が続き集中できず。ぼんやりとした頭で読書と原稿スケッチ。夜は『ぼくの伯父さん』(監督:ジャック・タチ 1958)のDVDを観る。フランス的なエスプリによってモダン・リビングを痛烈に批評した映画だが、カラフルな建築やファッションが描かれているので、観方によってはポストモダニズム批判にも解釈できる。しかし僕の感性にはややテンポが遅すぎる。10時半帰宅。

散発的に読んでいた『1995年以後:次世代建築家の語る現代の都市と建築』(藤村龍至/TEAM ROUNDABOUT:編著 エクスナレッジ 2009)を読み終わる。1970年代生まれの建築家たちの多様性を知ることはできるが共通点を見るのは難しい。あえて共通点を挙げるなら、やはり歴史意識の欠落だろうか。結局のところ本書から最大の成果を得たのは編著者である藤村さん自身だろう。藤村さんが唱える「批判的工学主義」をリトマス試験紙とした若い建築へのインタビューとして読めば興味深いかもしれない。批判的工学主義はフランプトンの「批判的地域主義」のもじりだろうが、フランプトンがインターナショナル・スタイル(国際様式)に地域性を導入することによって、モダニズムのユニバーサリズムを批判的に乗り越えようとしたのであれば、批判的工学主義は何に対して工学主義を導入しようとしているのだろうか。美学/形態主義だろうか資本/経済主義だろうか。あるいは昨今流行のアルゴリズムを意味するのだろうか。建築が工学に根ざすのは当たり前の話なので、カントの三批判と同じく、批判的工学主義とは工学の総合的・徹底的な適用のようにも思える。ならばそれはそのままサステイナブル・デザインに通じるかもしれない。


2009年02月27日(金)

10時コスモシスイニシア来所。国交省が主催する優良住宅モデル事業の申請に関する打ち合わせ。今回のココラボ住宅には直接関係はないのだが、コンセプトはココラボ研究を下敷きにしている。ハード面だけでなくソフト面のコンセプトも明確に提示するようにアドバイス。第2段階のプロトタイプ住宅に結びつけば言うことはないのだが、どうなるだろうか。午後大学行。1時半から卒業設計合同講評会のリハーサル。3大学から各4作品、計12作品のスライド・プレゼンテーションを見る。全員未完成で盛り上がりに欠ける。突出した作品はないが、無理な作品ははっきり分かる。そこは我慢してコメントを避ける。5時前事務所に戻る。芦澤さんから『建築の四層構造』が届いたお礼の電話。『箱の家に住みたい』を文庫本化する話を持ちかけられる。環境研との研究結果をやさしくまとめれば可能かもしれない。夜は読書と原稿スケッチ。10時半過ぎ帰宅。

今日は76年前(1933年2月27日)ドイツ国会議事堂が放火された記憶すべき日である。この事件を機にナチスは共産主義者を排除して政権を奪取し、以後東西ドイツが統一されるまでこの建築は「ベルリンの壁」の一部として放置された。統一後にベルリンが再び首都となりノーマン・フォスターによって新国会議事堂(ライヒスターク)としてリノベーションされたことはあまりに有名である。
http://sankei.jp.msn.com/photos/world/europe/090227/erp0902270236001-p1.htm

石山研究室から『アニミズム周辺紀行2:空跳ぶ三輪車―アポロ13号』が届く。表紙はプノンペンにある小笠原成光(ナーリ)さん邸の模型写真。左上に小さな小笠原さんが横になっている。表紙裏には石山さんが描いた小笠原さんのスケッチ。まるで仏陀のようだ。裏表紙の裏には作業場で三輪車を製作中の小笠原さんの写真が掲載されている。去年の夏の訪問を懐かしく想い出しながら眺め入る(『青本往来記』2008年9月19日)。目次の後に石山さんによる4枚の直筆スケッチ。渦巻模様が一瞬QuestionのQに見える。両開きのスケッチが男と女のようにも見えるが、メコン河とトンレサップ河の渦巻だろうか。小笠原さんの話だから手こぎ自転車の車輪かもしれない。そう思って見ると次のページ二つのスケッチは地雷のように見えてきた。読み始めると、やけに面白くて一気に読み通す。小笠原さんが作り続けている手こぎ自転車とアポロ13号事故を結びつける石山さんの21世紀テクノロジー論には、モダニズム初期のウィリアム・モリス論やレヴィ=ストロースのブリコラージュ論がこだましている。後半の渡邉大志君による小笠原さんのインタビューは、話があちこちに飛びまくり、何が何だか分からないが、大笑いしながら読む。結局、石山さんは小笠原さんを通じて、近未来のテクノロジーとライフスタイルのプロトタイプを提唱しようとしているのではないだろうか。


2009年02月26日(木)

今日は一日事務所。連続講義「近代建築論」の原稿スケッチ。鈴木博之さんの『建築の世紀末』に合わせて19世紀末と20世紀末のテクノロジーの比較論を試みる。ベンヤミンの言う「遊戯的テクノロジー」の建築版について検討するという枠組イメージはあるのだが『建築の四層構造』の範囲を一歩踏み出すヴィジョンが見えない。午後4時コンペ打ち合わせ。パタンランゲージ、模型、パース、プレゼンテーション・レイアウトの分担を確認。真壁智治さんから電話。『建築の4層構造--サステイナブル・デザインをめぐる思考』が南洋堂に平積みされているのを見たそうだ。正式発売は3月1日(日)だが、アマゾンをチェックするとすでに予約販売が始まっている。院生から卒業設計公開講評会のリハーサル立ち会いの依頼が届く。夜も引き続き読書と原稿スケッチ。久しぶりに呻吟の日々がやってきそうだ。11時前帰宅。『「多様な意見」はなぜ正しいのか』を再開。序論からパート1へ差し掛かる。序論で「多様性」の定義が行われ、パート1「ツールボックスを分析する」で多様性の具体的な内容が検討される。ちなみに「多様性」と訳されているのはvarietyではなくdifference(差異)である。


2009年02月25日(水)

午前中は原稿とコンペ・パタンスケッチ。午後、新橋のコスモスイニシア本社へ。ココラボ住宅の図面検討会。僕たちならば現場で調整するような細かなことまで実施図面に明記しようとする偏執的な要求。前回5時間かけて検討したデザインを今回も3時間かけて再検討。2割感心3割呆然5割食傷。よほど僕たちに信用がないのか、これがディベロッパーのやり方なのか。多分前者だろうが、どちらにしてもこんなことに時間をかけて商売になるのか心配になってくる。一敷地が終了したところで、いたたまれず退席。5時半に事務所に戻る。夜はコンペのパタン・ダイアグラムの打ち合わせ。10時半過ぎに帰宅。

『「日本の住宅」という実験:風土をデザインした藤井厚二』(小泉和子:著 農文協 2008)と『1995年以後:次世代建築家の語る現代の都市と建築』(藤村龍至/TEAM ROUNDABOUT:編著 エクスナレッジ 2009)の2冊が届く。前者は3月の関西旅行で「聴竹居」を訪れる予定なので前知識として読み始めるが、藤井のデザインと技術は時代に制約されすぎているようだ。環境制御そのものよりも住空間をトータルにとらえる視点を学ぶ方向へ読み方を転換する。後者は4月のトークセッションのための準備。読み進むうちに30年前の『40 under 40』を想い出す。一気に半分まで読んだが、やや物足りず「暖簾に腕押し」状態。郊外論が通底テーマのようだが、東浩紀や北田勝大の言説に振り回され過ぎの印象を受ける。社会学者の分析を真摯に受け止めるのはいいが、コールハースがオプリストとの対談で言っているように、建築と都市の落差を忘れないでもらいたい。野武士世代や団塊世代のように1970以降に都市から逃走した僕たちの世代には、本書のような都市への視線は共有しにくい。何よりも気になるのは歴史的視線の欠落である。もはやゼロから出発することはできない時代だから、まずは現代史を辿り直すことから始める必要があるのではないか。本格的な郊外化が始まったのは、ごく最近の1970年代である。僕の考えでは、ここ30年の歴史を巻き戻すのはそれほど難しくはないような気がしている。もちろんそれが計画的になされるべきだという意味ではなく、徐々に自生的に進むだろうということだが。


2009年02月24日(火)

10時高間三郎さん来所。遠藤事務所が加わりコンペ打ち合わせ。水、空気、光、熱、音の制御に関する基本的な条件についてアドバイスを聞く。終了後メンバーだけでパタン・ランゲージのダイアグラム化について打ち合わせ。午後大学行。1時半ココラボ実施設計の構造打ち合わせ。4時前に事務所に戻る。INAX出版から『建築の四層構造』10冊が届く。スタッフ全員に贈呈。贈本先のリストを出版社に送信。出版を記念して4月10日(金)の夜に新宿のジュンク堂書店で若い建築家とのトークイベントを開催するそうだ。夜は原稿スケッチ。10時半帰宅。

『アーキテクチャの生態系―情報環境はいかに設計されてきたか』(浜野智史:著 NTT出版 2008)を読み終わる。現在のウェブの多様な状況が詳しく説明されている。40年前にマーシャル・マクルーハンはメディアを身体性の拡張手段だと言ったが、現代のウェブは個人性を超えて社会に潜む感性や集団性の拡張メディアになっていることがよく分かる。アメリカと日本の社会性・集団性の違いがウェブの利用状況の違いとして増幅されているという説明も説得的である。僕が実際に知っているのは、せいぜいグーグル、ウィキペディア、YouTubeまでで、2ちゃんねる、ミクシィ、ウィニィー、ニコニコ動画についてはまったく無知でアクセスしこともないのだが、その使われ方や社会的な影響力についてはよく理解できる。ウェブの無意識的な増幅作用がウェブ・デザイナーの当初の意図を超えて予想外の展開を辿る状況を、著者は「生態系」と呼んでいる。そこには進化論のメタファーや複雑系の科学からの連想があるが、同じようにインターネットの自動的な展開をハイエクの「自生的秩序」に結びつけて論じている点も興味深い。ウィキペデァがパタン・ランゲージをモデルにして生みだされたことも宜なるかなである。ふと、ウェブは現代の社会的なアルゴリズムではないかと考える。
次は『「多様な意見」はなぜ正しいのか』(スコット・ペイジ:著 水谷淳:訳 日経BP社 2009)に向かう。多様な意見がうみ出す自生的な知恵という点ではウェブの展開と構造が似ているかもしれない。


2009年02月23日(月)

11時、TH-1の朝倉社長が来所。ココラボ住宅の家具工事の見積を依頼。午後大学行。伊藤教授、西出教授と人事に関する簡単なミーティング。その後しばらく専攻長の雑用。4時過ぎに事務所に戻る。コンペのパタン・ダイアグラムをスケッチ。サンプルとして敷地に関するパタンをダイアグラムにスケッチ。引き続き建物のパタンのスケッチ。遠藤事務所からレイアウト案が届くが、パタン・ダイアグラムがないので少々分かりにくい。明日、再検討しよう。11時帰宅。『アーキテクチャの生態系』を読み続ける。残すところ最終章。夜半過ぎ就寝。

昨日に引き続き「箱の家」と「無印住宅」に込めたライフスタイルについて考えてみる。この問題については、3月初めに出版される拙著『建築の4層構造--サステイナブル・デザインをめぐる思考』(難波和彦:著 INAX出版 2009 ¥2200+税)のなかでも詳しく論じているので、ここでは要点だけを整理しておく。
「箱の家」と「無印住宅」で提案したライフスタイルのプロトタイプを一言で言うなら「一室空間住居」すなわち家族が間仕切のない一室空間の中で生活するという提案である。僕が一室空間住居を提案するに至った背景には、いくつかの理由がある。それを列挙すると以下のようになるだろう。
1)僕は東京の大学に入る18歳までは元禄時代に建てられた関西の町家で育った。間口が狭く奥行の深い町家は襖や障子によって仕切られた一種の一室空間住居であり、それが僕の住まいの原体験となっている。1980年代に僕はこの町家の保存改築(柳井の町家)を行った。
2)大学院時代に僕の師匠である池辺陽から戦後モダニズムの住居観を学んだ。その成果は『池辺陽試論:戦後モダニズムの極北』(彰国社 1999)にまとめている。池辺は住宅No.シリーズにおいて、住宅の工業生産化と並行して、家族の民主化と婦人解放のための一室空間住居を提案した。池辺の自邸はその典型であり、池辺の死後、僕はその増改築を担当した。
3)このような体験から、僕は個としての自立を個室の確保に結びつける住居観に対して違和感を抱くようになった。たとえばnLDK住居は現代の不安定な家族にはまったくふさわしくないし「個室群住居論」は結局のところ一種の機能主義に過ぎないことに気づいた。
4)僕自身、結婚後の夫婦生活と子育てを一室空間住居で試み、核家族と住空間の関係をあり方を自らの体験を通して検証した。この体験から生活時間の異なる家族が緩やかな関係を保ち続けるには一室空間的な住居がふさわしいことを確信するようになった。
以上が一室空間住居のプロトタイプとなる「箱の家001」が生まれた経緯である。
とはいえ一室空間ならば、どんなプランでもいい訳ではない。むしろコンパクトな一室空間住居だからこそ、空間構成や動線計画に周到なプラニングが必要不可欠である。プラニングを間違うと一室空間住居は単に住みにくいだけの住居になってしまう。この条件については池辺陽以上にクリストファー・アレグザンダーのパタン・ランゲージから多くのことを学んだ。直接目には見えないが「箱の家」の平面計画を詳細に検討すれば、明確な領域配置と動線計画がなされていることが分かるだろう。以上が「箱の家」に込めたライフスタイルの要点である。

ところでここ数日イームズハウスや「箱の家」についてあれこれ考えを巡らせているうちに、ひとつ重大なことに気づいた。僕の自邸+アトリエは「箱の家112」だが、これは僕が育った町家に酷似している。設計時にはほとんど意識していなかったが、ある雑誌の取材を受けた時に若い建築家に指摘され、我ながら驚いたことがある。今回さらに驚いたのはイームズ・ハウスも「箱の家112」にそっくりな点である。間口と奥行がほぼ同じサイズであるだけでなく、南北に長く、中央に中庭があり、住まいとアトリエを備え、構造が鉄骨造である点も同じなのである。以上から自然に導かれるのは、イームズ夫妻はこの住宅を都市住宅のプロトタイプとして設計したのではないかという仮説である。この仮説の決定的な問題点は敷地の広さである。しかし東の庭側に細い路地が通っているにせよ、出入口はこの路地側ではなく南北端と中庭に面して置かれ、建物全体がユーカリの樹列によって庭と仕切られている点から考えても、この仮説はそれほど荒唐無稽ではないような気がするのだが、いかがだろうか。


2009年02月22日(日)

今日も一日事務所。午前中は読書とスケッチ。午後は通信レンタルしたDVD2本をぶっ続けで観る。1本目は日本映画の『幸福な食卓』(監督:小松隆志 2007)。ひとりの少女の眼から見た家族の解体と再生を描いた作品。日常を淡々と描くことによってテーマの深刻さを浮かび上がらせている。家族の解体と再生が朝の食卓に象徴されている点が興味深い。少女が川沿いの道を歩き続ける最後の長回しのシーンが印象的である。もう1本は『FAGO』(監督:コーエン兄弟 1996)。アメリカ中北部のミネソタ州の田舎町で実際に生じた事件にもとづく物語。同じ監督の『ノー・カントリー』に似た感じだが『ノー・カントリー』の背景がアメリカ南西部の砂漠であるのに対し、この映画は北部の広大な雪原である。吹雪の中を車が近づいてくる冒頭シーンが『おくりびと』(監督:滝田洋二郎 2008)に酷似しているのでビックリした。家族内のちょっとした悪巧みが悲劇的な結末へと展開するのだが、主人公の女性警官の飄々とした話し振りが事件の悲劇性に一抹のユーモアを与えている。夜はココラボ住宅の外構デザイン・チェック。コンペのコンセプト・ダイアグラムのスケッチ。

昨日に続き石山修武さんの問いかけについて考える。石山さんは2月15日の「青本往来記」に対して2月16日の「世田谷村日記」で問題点を4点に絞り込み、2月19日付「絶版書房交信18」で回答している。
http://ishiyama.arch.waseda.ac.jp/www/jp/hintabout.html#090219
石山さんは「自分にとって、ライフスタイルとDIY(Do It Yourself)は一体に結びついている」と言う。つまり「住み方」と「作り方」とは不可分だということである。さらに石山さんは、ヨーロッパ初の観念的なモダニズムよりも、ヘンリー・デヴィッド・ソローやバックミンスター・フラーのような、アメリカ流のプラグマティズムとトランツェンデンタリズム(超越主義)に結びついたモダニズムの方に親近感を感じると述べ、次のように言っている。「要するに僕は、理念としてのバウハウス・タイプのモダーンを教育されたけれど、それに余り馴染めなかった。それでアメリカン・モダーンの中に自分の趣向のプロトタイプを求めていったのだ」。イームズ・ハウスに対する関心も、この延長線上にあるのだろう。
この問題に関連してひとつのエピソードを紹介しよう。これは岸和郎さんから聞いた話だが、イームズ・ハウスを含むケーススタディ・ハウス・シリーズに対して、英国のモダニストたちがいたく興味を持ち、次のような問いかけをしたという。「ケーススタディ・ハウスには鉄骨造が多いが、これはアメリカの高度な鉄鋼技術を背景にして住宅生産の工業化をめざしているためだと思われる。ならば鉄骨部材はボルト接合にすべきだと考えるが、ケーススタディ・ハウスでは現場溶接が多用されているのは、住宅部品の工業生産化に矛盾しているのではないか」。これに対して、クレイグ・エルウッドかエルスワース・ケリーがこう応えたという。「アメリカではボルト接合よりも溶接接合の方が工事費が安いから使っているだけである」。要するにケーススタディ・ハウスでは工業化の「思想」よりも「実用性」を優先しているという訳である。ちなみにイームズ・ハウスの鉄骨構造部材はボルト接合になっており、他のケーススタディ・ハウスとは一線を画している。英国の建築史家コーリン・ロウも、これと同じようなことを言っている。彼は『マニエリスムと近代建築』に収めた「シカゴ・フレーム」という小論で、シカゴで発祥した鉄骨造とミースの鉄骨造を比較しながら、両者を「事実としてのフレーム」と「観念としてのフレーム」と呼んでいる。これに対して「ミースは溶接接合を多用しているではないか」という反論がありそうだが、これは工業生産化とは無関係であり、あくまで美学(観念)的な理由であることは言うまでもないだろう。
石山さんは最後に「難波和彦さんが「箱の家」「無印住宅」に託そうとしているライフスタイルの内実をうかがいたいと思います」といっている。この問いかけについては少し長くなるので、次回に検討する。


2009年02月21日(土)

今日は一日事務所。コンペスケッチ。5時前遠藤事務所来所。図面検討。6時、佐々木睦朗君来所。構造の検討。僕たちの案の不明瞭さが明らかになる。早急にプラニングを整理する必要がある。パタン・ランゲージにしたがってダイアグラムを作ることも必要である。8時終了。遠藤君たちと夕食。そろそろピッチを上げねばならない。11時前帰宅。

石山修武さんの2月16日付「絶版書房交信17」について考える。
http://ishiyama.arch.waseda.ac.jp/www/jp/hintabout.html#090218
石山さんはイームズ・ハウスの脇に植えられたユーカリの樹列に関して考える前に、敷地の広さについて考えるべきではないかと返答している。確かにイームズ・ハウスのユーカリ樹列の東側には緩やかな傾斜の広大な芝生の庭が広がっている。具体的な面積は不明だが、この庭はユーカリの樹に囲まれていてイームズ夫妻は2人の子供を自由に遊ばせていたらしい。イームズ・ハウスは南北に長く、西側の斜面に堀込まれているから、敷地東側に最大限の広さの庭を確保するための配置だと考えられなくもない。実現したイームズ・ハウスは第2案で、その前にエーロ・サーリネンと共同設計の第1案がある。第1案は建物全体がキャンティレバーによって持ち上げられた東西に長いプランで、地上面は完全に開放されている。敷地の広さ、斜面地形、方位と日照、太平洋への眺望などの条件を考えれば、第1案の方が自然な配置であるにもかかわらず、イームズはなぜ第2案に変更したのだろうか。その経緯については『イームズ・ハウス/チャールズ・イームズ&レイ・イームズ』(岸和郎:著 東京書籍 2008)で詳細に分析されているので参照していただくとして、僕としては次の一点だけを指摘しておきたい。すなわちイームズ・ハウスはスイーツ・カタログから選択された既製部品によって建設されたプロトタイプ的な住宅だが、そのことと建物を敷地条件に馴染ませることとは決して矛盾しないという点である。穿った観方をすれば、イームズ夫妻は宙に浮いた国際様式的な第1案よりも、敷地に馴染んだ第2案の方がよりプロトティピカルだと考えたのではないだろうか。プロトタイプとは特定のコンセプトに基づいて提案された仮説的な案であり、本来は抽象的な存在である。そのプロトタイプを特定の敷地条件に「適合させる」ことによってうみ出されるのが実現案である。イームズ夫妻はプロトタイプに近い抽象的なピロティ案よりも、斜面に堀込むというより困難な条件にプロトタイプを適応させる案の方がずっと実験的だと考えたのではないか。その点に20世紀住宅のプロトタイプとしてのイームズ・ハウスの真骨頂があるように思われるのである。

「箱の家シリーズ」や「無印住宅」は都市住宅のプロトタイプとして提案されている。したがって当然のことながら、敷地条件についてもプロトティピカルな条件が想定されている。しかし実現した「箱の家シリーズ」の敷地広さは、最小20坪弱から最大500坪までさまざまである。さらに庇のプロポーションは敷地の緯度(太陽高度の季節変化)によって決められているし、開口の位置は敷地の支配的な風向によって決められている。プロトタイプとは、そうした敷地条件への適応システムを内包した仮説的な案である。ライフスタイルや生産・建設システムについても同じことが言えるのだが、この問題についてはまた別の機会に説明しよう。

最後にプロトタイプに関してひとつだけ付け加えておきたい。石山さんは『東京の地霊』(鈴木博之:著 ちくま学芸文庫 2009)の解説で、ミースのシーグラム・ビルがニューヨークの地霊を体現しているという鈴木博之さんの指摘に瞠目したと書いている。これもミースのプロトティピカルな空間コンセプト(時代精神)がニューヨークの敷地割グリッド(資本主義的精神?)に適応してうみ出された奇跡的な例である。プロトタイプに関するこの論理が正しいとすれば、モダニズムと地霊とは決して対立しないことに注意を喚起しておこう。


2009年02月20日(金)

9時、栃内と「木の家2」の打ち合わせ。10時、ムジネット商品開発部3人が来所。3つのプロトタイプをプレゼンテーション。いくつか質問を受けた後これまでに実現した無印住宅の敷地について説明を受ける。「木の家2」プロトタイプを建設予定の敷地は既に決まっているようだ。午後1時過ぎ大井町線等々力駅着。山代悟+ビルディングランドスケープ設計の「STEPS」のオープンハウスへ。不定形な敷地一杯を使って多様なプランの住戸を詰め込んだ賃貸集合住宅。RCフレームの外側にスキンを回すことによって外観の表情と内部空間に変化をつけている。広い屋上テラスを持った最上階の住戸が気持ちよい。引き続き近くにある集合住宅の外観を見学。こちらはSTEPよりも一回り小さいが、路地を挟む表情が楽しそうだ。3時前大学行。3時から専攻会議。修士論文の最終評価。大学院試験について議論。しかし僕にはもう関係がない。5時、INAX出版の高田千永さんとメディアデザイン研究所の齋藤歩さんが来研。『建築の4層構造―サステイナブル・デザインをめぐる思考』(難波和彦:著 INAX出版 2009 ¥2200+税)が刷り上がったので見本を持ってきてくれた。コンパクトながらどっしりとした本になっている。蛍光イェローの地に銀色の細かな斑点を刷り込んだ表紙がカッコいい。本屋に出るのは3月1日(日)の予定だそうだ。出版に合わせて記念イベントを企画しているという。若い建築家との対談を考えているようだが、プログラムは任せることにする。6時コスモスイニシア来研。ココラボ実施設計ミーティング。工務店から出てきた見積結果、外構工事のデザイン、木造骨組のシステム、基礎システムについて検討。7時半終了。その後、岩元、院生と正門前の中華料理屋で夕食。9時半に事務所に戻る。井上とコンペについて簡単な打ち合わせ。花巻、岩元と「133沼田邸」の最終見積について打ち合わせ。ようやく収斂してきた。直ちに結果を沼田夫妻に送信。11時前帰宅。『建築の4層構造―サステイナブル・デザインをめぐる思考』にざっと目を通す。校正段階で何度も見直しているので少々食傷気味。読んでいるうちに眠り込んでしまった。


2009年02月19日(木)

昨夜は「木の家2」の模型作成のため岩元が徹夜したようだ。9時過ぎ栃内と事務所を出て、洗足の「131吉田邸」へ。外部の足場が取れて外観が姿を現している。内装工事はほぼ完了し、内部の塗装工事中。現場監督とスケジュールについて相談。玄関の鉄骨階段とバルコニーの製作に手間取っているため、3月半ばの竣工は難しそうだ。もしかすると引渡とオープンハウスは「131鶴見邸」と同日になるかもしれない。11時半大学行。12時半から学科会議。卒業設計の公開情報の報告。次期専攻長が提出した来年度の学務担当に関する議論。2時過ぎから教授会。退職教員4人の挨拶。8人の人事説明と投票。他専攻の人事説明はまじめに聴くとなかなか興味深い。説明を聞きながら原稿をスケッチする。5時から学科長・専攻長会議。年度末で報告事項と専攻長の雑務が多く少々シンドイ。8時過ぎ終了。研究室では留学生歓送会が始まっている。今年度一杯でオランダとドイツの学生が帰国する。4月には新しく4人の留学生が来室予定。パリのラ・ヴィレット大学留学生から無印住宅についてインタビューを受ける。11時前終了。11時半に事務所に戻る。「木の家2」のプロトタイプ模型3戸が完成している。12時過ぎ帰宅。『アーキテクチャの生態系』を読みながら1時過ぎ就寝。


2009年02月18日(水)

8時半、青山歯科医院にて歯の定例メンテナンス。10時前鷺沼駅で栃内と待ち合わせ「130鶴見邸」現場へ。外壁のガルバリウム鋼板張の最中。昨日から工事をスタートして西面が終了したところ。今週中に外装工事は完了の予定。内部は階段の工事中だが内装仕上げは未着手である。2階の家族室+台所は北西と南東のベランダからの光で十分に明るい。内装を仕上げすればさらに明るくなるだろう。工務店社長、栃内と相談し引渡とオープンハウスはデッドラインギリギリの3月28日(土)に決定。正午前に事務所に戻る。午後はコンペ・スケッチ、読書。夜は『近代建築論講義』への掲載原稿「技術の世紀末」スケッチ。9時半遠藤事務所(EDH)とコンペ打ち合わせ。空間構成の全体像がようやく見えてきたので、今週末に構造コンサルタントと相談することになった。

『住宅建築』3月号が届く。第2特集「光、風、熱をデザインする」で「箱の家」の実測やココラボ研究が紹介されている。この特集には他に小泉雅生さんと伊礼智さんも取り上げられている。山田脩二さんの瓦工場について布野修司、石山修武、竹原義二、内藤廣といったメンバーが寄稿している記事も興味深い。

『アーキテクチャの生態系―情報環境はいかに設計されてきたか』(浜野智史:著 NTT出版 2008)を読み始める。著者はインターネット上のウェブネットのことを「メディア」と呼ばず「アーキテクチャ」と呼ぶ。アーキテクチャとはまさに建築のことだが、一般に言われるように、それはネットの「構築性」を意味しているのではない。すでに情報社会学において、アーキテクチャという概念は、規範、慣習、市場と並ぶ人の行動や社会秩序を規制する「環境管理型権力」としてとらえられている。そこでは「アーキテクチャ/環境管理型権力」は、以下のように定義されている。
1)任意の行為の可能性を「物理的」に封じてしまうため、ルールや価値観を被規制者の側に内面化させるプロセスを必要としない。
2)その規制(者)の存在を気づかせることなく、被規制者が「無意識」のうちに規制を働かせることが可能である。
この定義はベンヤミンが『複製技術時代の芸術』で指摘した建築の働きを連想させる。つまり建築もアーキテクチャも、無意識のうちに人の行為を規制する点では共通しているのである。これによって建築はウェブネットをモデルとする新しい定義を得たのではないかと思う。


2009年02月17日(火)

7時半に事務所を出て、東上線の終点、寄居駅へ。10時過ぎアタゴ工場着。まず工場長から出張中の社長からの伝言を聞き、着工が延期になっている新工場の今後の進め方について意見交換した上で、基本方針をまとめる。1時過ぎ大学行き。2時から環境研究室の修士論文6編を聴く。「箱の家」の環境調査に関する論文を聞いていたら「箱の家124」のクライアントである佐藤さんが来たのでビックリ。学生、教員との短いやり取り。4時からココラボ住宅実施ミーティング。6時半過ぎ事務所に戻る。8時半から遠藤政樹+EDHとコンペ打ち合わせ。パタンランゲージがようやく眼に見える形になってきた。今週中にまとめてコンサルタントに相談しよう。10時過ぎ終了。

アタゴ工場の往復電車の中で『ポスト戦後社会』(吉見俊哉:著 岩波新書 2009)を読み終わる。大学紛争が終わった1970年以降今日までの日本現代史を駆け足で走り抜けた感じである。大学卒業後に僕の辿った道が、ここに綴られた歴史の潮流の中にすっぽりと嵌っていることにあらためて驚かされる。著者の結論が余り明るくないせいもあり、少々暗澹たる気分になる。新書だが腹に応えた。


2009年02月16日(月)

9時大学行。9時半から修士論文発表会。デザイン研と歴史研の論文のうち主査と副査を担当した論文12編を聴講。興味深い論文は数編だが、どれも全力で研究した結果なので、それなりのレベルになっている。とはいえ集中して聴くと頭の芯から疲れる。1論文あたり15分発表、5分の質問時間の予定だが、時間通りには進まず、最終的には1時間余りの遅れ。間に休みを挟んで8時過ぎ終了。9時過ぎに事務所に戻る。いくつか簡単な打ち合わせを済ませ、10時半過ぎ帰宅。


2009年02月15日(日)

9時出社。午前中は「無印住宅:木の家2」の設計要旨をまとめる。精細な検証はまだだが、現在の一般的な技術によって可能な高性能でローコスト住宅をめざす。そのためには徹底的な単純化が必要だろう。午後はコンペのスケッチと読書。修論梗概の読み込み続行。夜は石山修武さんが「世田谷村日記」と「絶版書房」に書いている問いかけに対する回答について考えながら、過去の「青本往来記」やHPのアーカイブを見直し、関連のありそうな文章を探し出す。

『解明 M・セールの世界』(ミシェル・セール:著 梶野吉郎+竹中のぞみ:訳 法政大学出版局 1996)は全第5話のうち第2話まで読んだところで途中休止。セール思想の特徴は古代思想(たとえばルクレティウス)と現代科学(たとえばカオス理論や複雑系の科学)を横断するところにあるようだが、コンテクストが掴めないため具体的な内容が理解できない。やはりセール自身の本を読んでからでないと、対話の背景を理解するのは難しい。次は視線を現代に戻し『ポスト戦後社会』(吉見俊哉:著 岩波新書 2009)を読んでみる。

石山修武さんが2月10日(火)の『青本往来記』への返答で、いくつかの問いを投げかけている。その中で気になる文章があった(絶版書房通信14)。
http://ishiyama.arch.waseda.ac.jp/www/jp/hintabout.html#090213
「「幻庵」「開拓者の家」の作家、石山と、一九七五年アメリカからの住宅部品輸入、コンテナを物流ユニットとして使用した実行者としての石山が矛盾そのものの存在としてあります。それを自覚したうえでの先生への問いかけでもあるのです。長い時間が、だからかかりそうです。急ぐつもりは全くありません。」

長い間、僕は石山さんに対して次のような疑問を持ち続けてきた。石山さんは一方で「幻庵」や「開拓者の家」のように工業部品を使いながらもアーティスティックで固有の作品を作り続けているが、他方では、大野勝彦さんや僕のようにプロトタイプをめざす住宅の工業生産化に興味を持つのはなぜなのかという疑問である。上記の石山さんの文章から、この疑問を石山さんは「矛盾」として自覚していることが分かった。しかしその矛盾を解消する意志はあるのかどうか、確かめてみたいところである。「絶版書房通信14」の最後のあたりで、石山さんはこう書いている。
「私はスペース・ユニット化を今更支持する者ではない。内田研出身の剣持昤氏の規格構成材方式については、それではどのようにお考えでしょうか。六〇年代当時部品のオープンシステムか、セキスイハイムのスペース・ユニットのクローズドシステムかの議論が一部にあった記憶があり、最近では磯崎新が二〇世紀の住宅はチャールズ・イームズの自邸ケース・スタディハウスにとどめを刺すという指摘もありましたが。」

この文章を読んで、石山さんがプノンペンの「ヒロシマハウス」のレポートに書いた以下の文章を想い出した。ここにも剣持昤の名前が挙げられている
「私が細々と積み上げている開放系技術・デザイン世界の近親者を挙げるならば、ウィリアム・モリス、B・フラー、コンラッド・ワックスマン、チャールズ・イームズ、J・プルーヴェ、川合健二、剣持昤、と多士済済だ。決して根無し草ではない。ただしウィリアム・モリスを除いて、皆、歴史、風土からスッパリ切れた、今で言えば超モダニスト達である。もう一つあり得たかも知れぬ道だったかも知れぬという意味ではヴァーチャル・モダニストと呼べなくもない。モダーン・デザインの主流は彼等とは別筋を、あるいはもう少し表層を流れた。」

僕は以前、大野勝彦の「セキスイハイムM1」と剣持昤の「規格構成材方式」について以下のようにコメントしたことがある。この考えは今でも変わっていない。(『青本往来記』2005年06月02日)
「『住宅建築』6月号が送られてきた。「自由のための部品」という特集で、剣持昤の「規格構成材方式」や大野勝彦の「セキスイハイムM1」と合わせて「MUJI+INFILL木の家」と「箱の家100」「エコハウス01」が紹介されている。建築家が提案する戦後の部品化建築史に「箱の家シリーズ」が位置づけられたのは光栄だが、剣持さんや大野さんと僕の考えはかなり違うように思う。決定的な相違点はライフスタイルを提案しようとしているかいないかである。剣持さんや大野さんは、建築家はライフスタイルの提案を放棄すべきだと主張している。特集の中で松村秀一さんも述べているように、建築家は「道具としての住まい」を提案すればよく、ライフスタイルは住み手が自分で決定すべきだという考え方である。おそらく石山修武さんも同じ考えだろう。しかしいくら否定しても、結果的に建築はライフスタイルを規定する。僕の考えでは、住み手が自由にライフスタイルを設定できるという建築観は一種のユートピア思想である。部品としての「箱」と、ライフスタイルとしての「箱」は、はっきりと区別しなければならない。大抵のクライアントは、建築家に何らかのライフスタイルの提案を求めてやってくる。「箱の家」の一室空間的住居は、まさに特殊なライフスタイルの提案であり、「MUJI+INFILL木の家」も「無印良品」的ライフスタイルの提案なのである。」

さらに「規格構成材方式」の背景にある住宅部品のオープンシステム化について、松村秀一さんと交わした以下のような議論もある。(『建築の軽さと性能は両立するか』建築文化2001年6月号)
http://www.kai-workshop.com/archives/003.html
「難波―松村さんからみて、軽さは工業化というか、建築生産的にはどうなんですか。
松村―面白いですね。たとえばフライ・ハウス・のこのキッチンはどうしたんですかとフライに聞いたら、ホームセンターみたいなところにメールでオーダーすれば配達されるんだとか、この屋根のこの材料はどこそこで買ってきたとか、そういう感じなんですよ。アメリカは全体的にそうかもしれないですが、特にカリフォルニアの場合は、要するに売っているものをアセンブルしてつくれるんだという感じがあります。イームズ邸(1949)はそれの理論的な代表的な作品ですが、あそこまで必死にならなくても、現実にそういうことがカリフォルニアあたりで起こっている。
あとは、やっぱりユニオンが弱いとか、いろいろ条件がある。東海岸に行くと、伝統的な職人社会を持っているところですから労働組合が非常に強い。いまではそうでもなくなってきているようですが。そうすると、大工はどこまで仕事をするかとか、左官はこれをやってはいけないとか、職種の分担がはっきり決まっている。ところがカリフォルニアに行くと、そんな既存の社会がたぶん昔はなかったでしょうし、いまでもはっきりしたかたちがないから、どんなつくり方でも構わない。どの職人に何を頼んでもいい。そういう日本にないような自由さがあるんじゃないですか、カリフォルニアには。
難波―僕がアルミをやろうとしたのも、どちらかというとそっち方向に行ったらいいなと思ってのことで、日本だと剣持昤さんがそうですね。あと、石山修武さんもそうかもしれない。でも,あちこちから部品を寄せ集めてつくればいいという方向で工業化を捉えているような建築家って、そんなにいないでしょう。
松村―アメリカではもう現実になっているんじゃないですか、それが。たとえばホームセンターに行けば全部売っているし、日本から輸入住宅を頼むときに、石山さんが昔やっていたときは、石山さんが自分でコンテナでコンポーネント一式を個人輸入されていましたが、いまだと、向こうの港の近くにあるコンソリデーターというところにファックスを入れると、向こうでアメリカの部品を集めてコンテナに一式入れて、ぽんと送ってくる。だからアメリカでは特段意識しなくても、そうなっているんじゃないかと思います。
難波―アメリカ人て、やたら自分でつくりますね。驚くべきことに、部屋の増築まで自分でやっちゃう。そういうのは日本にはないですね。
松村―ないですね。何でだろうということですが、おそらく日本は職人が安かったんじゃないか。日本はそこらじゅうに大工がいて、畳屋とか建具屋がいて、自分でやるよりもそっちに頼んでしまうというのが日本の習慣として根づいて、いまでは職人は高くなってしまいましたが、昔は安かったんだろうと。ところがカリフォルニアあたりで職人を使おうと思ったら、高いに違いないと言っていた人がいました。これは根拠があるかどうかわからないですが。
難波―非常に説得力がありますね。
松村―あと、アメリカのDIYについてレポートしてくれと頼んだ時にアメリカ人から聞いたのは、アメリカ人というのは、別に家に限らず、何でも自分でやるんだと。クルマは自分で直すし、役所の届け出も書類は自分で書くし、なんでも自分でやりますと。日本のように教習所に通って免許をとるなんてことはなくて、その辺の道を走って練習して免許をとる。だから住宅だけとりたてて自分でやっているという感覚はない。生活が基本的にそうなっていると。
だからフライのような人たちも、アメリカに行ってからは自分でものを買ったりしてやるのは当たり前という感じでやっていたんでしょうね。
難波―このフライ・ハウス(1947-53)をみても、専門家がやったのと素人がつくったものの中間みたいな感じですね(笑)。
松村―そうですね(笑)。
難波―一応これは建築家として設計しているわけでしょう。
松村―もちろんそうです。
編集部ーフライ的な、軽やかにアセンブルしてつくるというのは、日本の建築家はあまりやらないというお話でしたが、実際に街に建っているものでのはけっこう多いのではないですか。
松村―日本では、その辺に建っている建物は全部そうですよ。建築家的世界だけがそうじゃないのであって、街中に建っている、たとえば角形鋼管とH形鋼、ALC板、そしてアルミサッシュでできたビルというのは、売っているもののアセンブリー以外のなにものでもないですね。もちろんそれはファブで加工したりはしていますが、世の中に流通しているものをアセンブルしたかたちになっていますよ。ALC建築は。」

鈴木博之研究室の院生が、今年の修士論文に「剣持昤研究―規格構成材方式の背景--」を書いている。明日が発表日なので、それを聴いた上で後日もう少し詳しく報告することにしよう。

「イームズ・ハウス」については、これまでさまざまな議論が展開されてきた。磯崎新さんの見方は、オープン部品による住宅デザインの先駆という歴史的位置づけだろう。これに対して、岸和郎さんがまとめた『イームズ・ハウス/チャールズ・イームズ&レイ・イームズ』(岸和郎:著 東京書籍 2008)では、まったく別の見方が展開されている。これに対して僕は、さらに別の角度からコメントしたことがある。僕の考えでは「イームズ・ハウス」のデザインは、敷地の方位や西海岸の地中海性気候を考慮しなければ理解することはできない。今や住宅の工業化は地域の気候を考慮しなければ成立しないのである。(『青本往来記』2008年08月02日)
「『イームズ・ハウス/チャールズ・イームズ&レイ・イームズ』を一気に読み通す。岸さんが長年追い続けてきたアメリカ近代住宅研究の集大成である。前半のイームズ・ハウスに関する分析には、建築家+歴史家としての岸さんの真骨頂が表れている。僕ならば鉄骨構法とライフタイルからアプローチするだろうが、岸さんは形・空間システムから出発してイームズ夫妻のメディア戦略へと論を展開させている。流石である。読み進むうちに岸さんが翻訳したレイナー・バンハムの『建築とポップカルチャー』を想い出した。フォリップ・リュオーの写真もすばらしい。本書によってイームズ・ハウスの歴史的評価は確立したといってよいだろう。
ところで僕の視点からひとつだけ気になる点があった。イームズ・ハウスの長手方向に沿って立ち並ぶユーカリの樹列の解釈である。岸さんはこの樹列が最初から計画されている点に注目し、これは建物に並行する建築的スクリーンではないかと解釈している。確かにそういう面もあるが、僕の見方は少し異なる。断面詳細図を見ても分かるように、イームズ・ハウスのシェルター性能はきわめてスリムで脆弱である。温暖な地中海性気候のカリフォルニアではこの程度でも十分だが、直射日光だけは強烈である。僕の見るところ、この樹列は夏期の強烈な朝日に対して、東面のスクリーン性能を補完する日射制御装置として計画されたのではないかと思う。つまり岸さんと僕の解釈の違いは、日射を光として捉えるか、あるいはエネルギーとして捉えるかの相違である。もちろんイームズ夫妻は日射を光として捉えて東面をユーカリの影を映すスクリーンとしてデザインしているのだが、同時に樹列をエネルギー制御装置としてデザインした点に、この住宅の先進性があったとはいえないだろうか。西面は丘に沿って1階分掘り込み、南面には深い庇を計画し、アトリエの南面は全面アルミ壁としている点からみても、イームズ夫妻が日射制御を意識していたことは間違いない。そのように解釈した方が、アメリカン・プラグマティストとしてのイームズ夫妻にふさわしいように思える。お望みなら、この視点から、合板の腕木や家具のデザインを通して身体的な快適性を追求していったイームズ夫妻のもうひとつの物語を紡ぐことができるかもしれない。もっとも岸さんは、自分の解釈はイームズ夫妻の意図とは無関係な物語だと明言しているので、僕の解釈は余計なお世話かもしれないが。」

少々長くなったが。とりあえず以上を石山さんへの回答とする。剣持昤の「規格構成材方式」については、いずれ改めて議論するつもりである。


2009年02月14日(土)

8時出社。栃内がまとめた無印住宅の図面チェック。卒業設計日本一決定戦の原稿をまとめ、作品写真データと一緒に事務局へ送信。午後はコンペ・ミーティング。パタンランゲージを何とか形にする試みの第1回。これからの公共建築の設計では、市民参加のワークショップが不可欠になることは間違いない、そのためにはパタンランゲージによるデザインプロセスが強力な提案になるだろう。僕の中でも揺れがあるが、ともかくパタンすべてを取り入れ、なおかつ単純明快な建築をめざすことを確認する。引き続き、無印住宅ミーティング。栃内がムジネットが新たに開発した無印住宅の新バージョン「朝の家」の公開見学会について報告。「木の家」や「窓の家」よりもコンベンショナルなタイプで際立った魅力はないがプラニングはよくできている。しかしヴィジュアル面は今一の感じ。箱形デザインのもっとも難しいところである。とはいえ技術的な仕様は十分に参考にしなければならない。夜は、副査を引き受けた修士論文の梗概に目を通す。主査を含めて14人の多種多様なテーマを理解するのは、なかなか大変だが、面白いテーマもある。鈴木研の卒論生が剣持昤の規格構成材論について研究をまとめている。剣持昤については石山修武さんとの議論でも問いを投げかけられているので、ちょうどいいタイミングである。月曜日の発表を聴いてから考えをまとめてみよう。


2009年02月13日(金)

午前中事務所。コンペのパタン・ランゲージを読み込み頭のなかでイメージを作る。午後大学行。2時から修士論文プレゼン・リハーサル。かなり明確になったので部分的なチューンアップを指示。4時ココラボ実施設計ミーティング。申請関係の報告と細部のアドバイス。今週中にすべての図面をまとめ来週初めコスモスイニシアに送る予定。5時半伊藤教授、西出教授と一緒に研究科長に面談し来年度の人事予定について相談。基本方針の承認を受ける。6時から非常勤懇親会。いつも出席率は悪いが少人数なので緊密な話し合いができる会である。防火の先生にはCCTV火災の話を聞き、設計製図の先生には学生の成長ぶりについて話を聞く。8時半事務所に戻リコンペミーティングに参加。パタン・ランゲージによる設計に慣れないためか、パタンへの思い入れがないためか、なかなかうまく展開しない。一種のゲームとしてでもパタンの複合を形にするアイデアが必要であることを確認して10時前終了。無印住宅ミーティング。3つのプロトタイプを確定。来週中にプログラムと模型をまとめ金曜日にプレゼンテーションの予定。11時前帰宅。


2009年02月12日(木)

10時大学行き。10時半設計製図会議。2年生、3年生の設計製図成績を確認の後、卒業設計の採点を確認。総合点と推薦教員数から辰野賞候補2作品を選定。引き続きテーマ性と推薦教員数から奨励作候補7作品を選定。12時半から学科会議。僕から伊東忠太賞の審査経過と結果を報告。歴史研の2論文に決定。引き続き卒業設計の採点と受賞作候補の報告。一部教員の強い推薦により辰野賞に1作品を追加。奨励作についても追加要求が出たが、議論がまとまらず専攻長の裁断で原案通り決定。最終的に辰野賞3作品、奨励作6作品となる。3時から学内講評会。辰野賞と奨励作を発表した後、設計製図担当教員が選定した5作品を加えた14作品で3大学合同公開講評に出品する4作品の選定を兼ねたプレゼンテーションと講評。公開講評までには少し時間があるので、完成度よりもテーマ性に重点を置きながら見る。最終投票で3作品は問題なく決まったが、残る1作品が収斂せず、最後は助教による投票を加えて決定。最終的に僕が推薦した4作品になったが、学内の受賞作と微妙にズレた結果が興味深い。6時半から研究室会議。難波研の卒論生は卒業設計でまったく振るわなかったので反省会。今年は全体の平均レベルは上昇したが、難波研に限らずデザイン系学生は皆不発だった。その最大の原因はコアとなる建築イメージを持っていないからだと思う。要するに器用貧乏なのだ。何人かが奨励作に入りはしたが、語弊を恐れずに言えば、明らかにデザイン系教員の深読みの結果でしかない。研究室会議終了後、難波研4年生3人と慰労会と反省会を兼ねた食事。修士課程で卒業設計の借りを返すようハッパをかける。9時半に事務所に戻る。そろそろ無印住宅のプレゼンテーションに向けてピッチを上げねばならない。10時半帰宅。『解明 M・セールの世界』を読み続ける。数学から人文学へと進んだセールの経歴が興味深い。


2009年02月11日(水)

8時半出社。午前中はメンバーが作成したコンペのパタン・ランゲージに目を通す。イメージを作るにはまだ少ないようだ。11時過ぎ事務所を出て湘南新宿ラインで茅ヶ崎へ。駅の食堂で簡単な昼食をすませた後、1時前に改札口でクライアント候補と待ち合わせ。徒歩約10分の候補敷地へ。おそらく農道を舗装した細い道の奥にある閑静な住宅地。北側道路の南北に細長い敷地。ライフラインに問題はない。親子4人がすむには2階では難しいので2.5階か3階になりそうだ。4時に事務所に戻る。栃内と花巻が出社している。間もなく井上も出社。コンペ敷地を見てきたという。7時帰宅。夜は再びコンペのパタン・ランゲージのチェック。栃内がまとめた無印住宅案のチェック。
 
茅ヶ崎への電車の中で『遠近の回想』(クロード・レヴィ=ストロース+ディディエ・エリボン:著 竹内信夫:訳 みすず書房 2008)を読み終わる。第2部「精神の法則」には共振する部分が沢山あった。レヴィ=ストロースの人類学に対しては、いつも構造と歴史(出来事)との対立が問題にされるが、彼の考えは明解である。両者は対立するのではなく相補的である。両者の関係はデザインにおけるプロトタイプ(構造)とその適用(出来事)に似ている。
「私は社会生活とかそれを含む経験世界というものは人間にとっては偶然の支配する世界だと思っています。だからこそ私は我々を何ものにも還元できない偶然性に立ち向かわせる歴史というものに敬意を表するのです。ただ私の考えでは、この経験世界という無秩序が支配している大きなスープ皿のなかではあちこちに小さな秩序の島が形成されていると思うのです。」
ダーシー・W・トムソンの『成長と形態』を参照しながら、レヴィ=ストロースは構造人類学における「構造」の概念について数学にもとづくダイナミックな定義を行っている。構造変換によって親族や神話の「不変項」を発見することが構造人類学の目標である。これは対称性(シンメトリー)の定義とまったく同じである。
「ところで変換概念は構造分析には必然のものなのです。構造はシステム、つまり一定の要素とそれらの要素を繋ぐ関係によって構成される全体集合というものに還元できるものではありません。構造というものを語りうるためには、いくつかの集合の要素と関係の間に、不変の関係が出現し、ある変換を通じて一つの集合から別の集合へ移れるのでなければなりません。」
ジャック・デリダがレヴィ=ストロースの構造人類学を「主体なきカント主義」と呼んだのは余りに有名である。レヴィ=ストロースは自らを「超カント主義者」と呼ぶ。「超」をつけたのは、カントの言う純粋理性を、実践理性さらには倫理的判断にまで適用しようとするからである。「カントから何を学んだのか」という問いかけに対して彼はこう応えている。
「精神はそれ自身の枠組みを持っているということ。精神はその枠組みを、精神にとって到達不可能な現実というやつに押しつけるのだと言うこと。この枠組みを通してしか、精神は現実を把握できないということです。」
フランス革命がもたらした理念に関するレヴィ=ストロースの歴史的判断は手厳しい。これはモダニズムに通底する原理主義・抽象主義に対する、さらにはデカルトに端を発する近代思想に対する根底的な批判だと言ってよい。
「フランス革命はいくつかの理念と価値を流通させ、それらの理念と価値はヨーロッパを、それからさらに世界を魅了したものです。それはフランスに1世紀以上にもわたって特別の権威と栄誉を耐えたものでした。しかしながら同時に、西洋を襲った何度かの破局の原因がそこにあったかもしれないと考えることは許されるでしょう。つまり人間の頭のなかに、社会というのは習慣や習俗でできているものではなくて、抽象的な理念に基づいているのだという考え、また理性の臼で監修や習俗を挽き潰してしまえば、長い伝統に基づく生活形態を霧散霧消させ、個人を交換可能な無名の原子に変えることができるのだと言う考えを叩き込んだからです。真実の自由は具体的な内容しか持つことができません。小さな範囲の帰属関係と小さな集団がバランスをとっている、その均衡状態から自由は成り立っているのです。これを理性的と言われる理論的思考は攻撃するのです。それが目標を達成した暁には、もはや相互破壊しか残っていないのです。その結果を我々は今日見ているわけですよ。」
これ以外にも考えさせられたことは山ほどある。ありすぎて頭の整理がつかない。

次は『解明 M・セールの世界』(ミシェル・セール:著 梶野吉郎+竹中のぞみ:訳 法政大学出版局 1996)を読んでみる。セールはまだ読んだことがない。対談相手がブルーノ・ラトゥールなので食指が動いた。セールはレヴィ=ストロースよりも1世代下だが、彼も科学と哲学を横断している。


2009年02月10日(火)

午前中事務所。CCTVの火災は本社ビルではなくホテル棟だったらしい。原因は旧正月の爆竹と花火だという。それにしても超高層ビルが全焼とは異常である。午後大学行。卒業設計の採点。気になった作品から押さえていく。採点はスムースに進むが推薦5作品の選定で頓挫。どうしても6作品になってしまい、1作品を外すために1時間以上作品を比較。結論が出ないまま一旦休止。4時からココラボ実施設計ミーティング。主要な問題点だけをチェックし、金曜日までにまとめるように指示。今後コスモスイニシアとの打ち合わせは僕と岩元で対応し、院生の作業参加は今月一杯の実施設計図面終了までとすることを確認。5時半終了。再び卒業設計の採点に戻り、気になる作品を比較し、5作品の選定を決断。結果を鵜飼助教に渡す。6時半に大学を出て京橋の美々卯へ。環境研究室との懇親会。前真之准教授、赤嶺助教に加えて「箱の家」の環境調査とココラボ研究に参加した院生4人が参加。凍結酒とうどんすきをいただきながら今後の研究について話し合う。「箱の家」の環境実測の結果がある程度まとまってきたので、本にまとめてはどうかという話題になる。専門家向けではなく素人にも住宅の環境性能が理解できるような本なら可能かもしれない。出版社に相談してみることを約す。9時半終了。10時過ぎに事務所に戻る。

石山修武さんが2月4日(水)の「青本往来記」への返答として、セキスイハイム開発の歴史的な背景について論じている(絶版書房通信10)。
http://ishiyama.arch.waseda.ac.jp/www/jp/hintabout.html#090204
石山さんは、大野勝彦さんが箱形スペース・ユニットを開発するにあたって述べた、次のような言葉を紹介している。「箱は本当はね、住宅の為に生産されるべきではないんだ。もっと広範な社会的産物として生産されるのが理想なんだ」。要するにセキスイハイムの原型である箱形スペース・ユニットは住宅専用ではなく、もっと多様な用途に使われることをめざして開発されたというわけである。さらに石山さんは、内田元享の「住宅産業論」を引きながら(不勉強で僕は本書を読んでいない)1960年代の住宅産業は自動車産業をモデルにして生まれたことを紹介している。確かに同じような話は池辺陽から何度も聞いたことがある。ミサワホームやトヨタホームがその典型である。当時の八幡製鉄の協力を得て(おそらく当時の「ナショナル」も加わって)東方洋雄氏が開発した工業化集合住宅YNSU(おそらくYAHATA NATIONAL SPACE UNITの略)は、まさに池辺研究室の発案になるものである。1969年に池辺研究室に入った僕は、研究室で東方氏に何度も会ったことがある。氏は研究生だったのではないかと思う。さらに池辺研究室の先輩(中原某氏)がこの住宅開発の担当者としてナショナル(パナホームの前身)に就職したことも記憶している。池辺研究室では、並行して当時の通産省や川崎重工の委託による海上集合住宅や集合住宅ユニットの開発を進めており、僕もこのプロジェクトに参加していた。残念ながら、こうした一連の開発計画は1973年のオイルショックの影響ですべて中止になった。
当時の建築工業化論と住宅産業の関係については、石山さんの指摘に間違いないだろう。ただしその後の展開は大野勝彦さんの予想を大きく外れて進んだように思う。大野さんが言う汎用スペース・ユニットは最終的にコンテナの国際標準化に行き着いた。運搬性に特化して進化したコンテナは、コンテナ用トラック、コンテナ車輛、コンテナ船、コンテナ用クレーン、コンテナ専用港、コンテナ流通センターへと波及し、巨大なネットワークを形成することによって、世界の物流システムを根底から再編成した。運搬性においてコンテナに勝るシステムはもはや存在しない。コンテナは単体としてだけでなく、ネットワークとしても標準化されているからだ。たとえば輸入木材の最大長さ6mはコンテナのサイズによって決まっている。現在ではコンテナを住宅に転用するプロジェクトも数多く出現している。コンテナに比べると、運搬性と住宅の機能性の調整をめざしたセキスイハイムのシステムは中途半端と言わざるをえない。住宅の多様性に対応するには、トラック運搬用サイズに適応したセキスイハイムのフレーム(軸組)構造(コンテナはパネル(壁)構造である)は運搬用性能に偏り、平面的な自由度が低すぎるのである。住宅生産においては、運搬性に特化したコンテナに対抗するのではなく、むしろ生活性に特化した工業化システムを追求すべきではないか。部品の巨大化・スペースユニット化と多機能化をめざした工業化は1960年代の発想である。むしろ部品サイズを人体寸法に合わせ、高性能化し、その組み合わせによって住宅の多様性に応えるのが、これからの住宅工業化のあり方ではないかというのが僕の考えである。


2009年02月09日(月)

9時半大学行。講評室と多目的演習室に展示された卒業設計を観る。採点はせず、しばらく展示会場を歩き回る。昨年以上に底上げが進み、ほぼ全員が60点以上の案になっている点は喜ばしい。しかし残念ながら突出した作品はない。デザイン系の学生が不振である。対照的に歴史系の学生が頑張っている。学部時はほとんど気に止めなかった学生が頑張っているのに驚く。全体として不思議な捻れを感じる。社会的なテーマが不在で、個人的なイマジネーションだけが頼りの時代になったせいだろうか。公共建築は空疎なテーマとなり、かろうじて集住体だけが社会テーマとして残っているようだ。ともかく今年は激戦になりそうな予感がする。1時、再入学希望学生の面接。2時、留学生の修論相談。3時、アキュラホーム商品開発部来研。大工出身の社長が興した工務店だが、技術開発に熱心で、埼玉県だけでなく全国的なネットワークを築いたベンチャー企業である。研究開発の可能性について意見を交わす。4時、修論のプレゼンテーション・リハーサル。できるだけ単純明快に論を組み立てるようアドバイス。6時半、恵比寿ガーデンホールへ。妻の友人が勤める配給会社が開催した『7つの贈り物seven pounds』(監督:ガブリエレ・ムッチーノ)のプレミア試写会に家族3人で参加。主人公を演じるウィル・スミスとムッチーノ監督の挨拶の後、2時間余の上映。内容は言えないが、かなり重いテーマで考えさせられる。9時半終了。終了後、招待してくれた友人と食事。11時半に事務所に戻る。北京のCCTVビル(設計:レム・コールハース)が全焼したというニュースが飛び込んでくる。爆破の可能性も取沙汰されており何かキナ臭いものを感じる。

鈴木博之さんから『東京の地霊』(ちくま学芸文庫 2009)をもらう。この本は2度目の文庫化である。早速、石山修武さんの解説を読む。前回の文庫化の際の藤森さんの解説と読み比べると、すこぶる面白い。連続講義「近代建築論」を想い出しながら読むともっと面白い。それにしてもこの3人の文章のうまさには感服する。


2009年02月08日(日)

8時半出社。午前中は読書とスケッチ。午後3時が卒業設計の締切なので、大学に行こうと考えて一旦地下鉄に乗ったが、何の手助けにもならないことに思い至り、急遽予定を変更してコンペの敷地を見に行く。Googleマップのストリートビューで見るよりも意外にスケールが小さいのにビックリする。やはり実際に敷地を訪れるに若くはない。快晴だが風が強いせいか子供2人が遊具で遊んでいるだけ。30分周辺を歩き回りベンチに座ってしばらく読書。冬と夏の気候について思いを馳せる。4時帰宅。栃内と岩元が出社。最初のパタン・ランゲージをまとめてメンバーに送信。構造システムのアイデアについて構造コンサルタントに質問メールを送る。夜もスケッチと読書。10時半帰宅。

『遠近の回想』は第1部「ドン・キホーテの帰還」を読み終わる。17年前に読んだ時よりもコンテクストが読み込めるようになっているのが自分でもよく分かる。学生時代のマルクス主義への傾倒と社会主義活動。ブラジルでの人類学調査とフェルナン・ブローデルとの出会い。ニューヨークに亡命中のシュールレアリストとの交友、構造言語学者ローマン・ヤコブソンとの衝撃的な出会いから得たアイデアと構造主義数学者集団ブルバキのメンバー、アンドレ・ヴェーユの助力を得てまとめた博士論文『親族の基本構造』(1949)といったことは戦前から第2次大戦へいたる歴史的背景の中に置くと理解が深まる。ブルバキとの交流はル・コルビュジエの「モデュロール」と共振していたのだろうか。戦後パリに帰還した後のメルロ・ポンティ、ミシェル・フーコー、ロラン・バルト、ジャック・ラカンといった煌めく才能たちとの交友には眼が醒める。コレージュ・ド・フランスへ招かれる合間にまとめた『悲しき熱帯』(1955)がもたらした予想外の評判に対する戸惑いが率直に語られる。アンドレ・ルロワ=グーランと共有する「不変項」の追求がうみ出した『構造人類学』(1958)と構造主義の伝説的なテキストである『野生の思考』(1962)は僕にとっては永遠の教科書である。『野生の思考』最終章で展開されるジャン・ポール・サルトルの歴史観批判はあまりにも有名である。サルトルに対する次のコメントには思わず天を仰ぐ。
「サルトルは天才でした。この天才という言葉はアロン(レイモン・アロン)にはあてはまりません。サルトルは特別の人間です。大きな文学的才能に恵まれ、あらゆるジャンルで抜きん出た仕事を残すことができました。それはそうとして、サルトルという人間は、どんな優れた知性でも、歴史を予言し、さらにいっそう悪いことには、歴史の中で一つの役割を演じようとすれば、支離滅裂なことになってしまうことの、もっとも典型的な例なのです。人間の知性というものは、アロンがやったように、歴史を後から理解しようとすることができるだけなのです。歴史を作る人間の精神的能力というのは、知性とはまったく違った性格のものです。」
これを読んで思わず以前から気になっていた『レイモン・アロン自伝』をAmazonに注文した。1968年5月に対するレヴィ=ストロースの歴史的評価は否定的である。それは戦後に始まる社会的矛盾の最終的な表れに過ぎないと彼はいう。主体による歴史変革の不可能性を信じる人間としては当然の評価だろう。しかし主体の確立していない日本においても同じだったと言えるか俄には判断できない。
第2部「精神の法則」は構造人類学における「不変項」の追求の話題から始まる。レヴィ=ストロースの次の学問的マニフェストには思わず武者震いを感じる。
「私の考えでは、複雑なものの背後には単純なものがあるはずなのです。」
これは僕が信じるデザイン原理でもある。単純性の追求とは対称性(シンメトリー)の追求であり、変換によって変わらない構造の発見である。プロトタイプとはデザインにおける対称性の追求だと言ってよい。


2009年02月07日(土)

7時半起床。昨夜はさまざまな考えが駆け巡ってなかなか寝付かれず1時過ぎまでウィスキーを飲み続けたため少々二日酔い気味。9時過ぎに事務所を出て10時前千川着。徒歩約10分で「132石野邸」現場へ。すでに工務店が地鎮祭の準備をしている。石野夫妻と花巻も到着。10時半から略式の地鎮祭。終了後、近隣挨拶。敷地北側の家は電機大建築の岩城和哉さん宅であることが判明。僕の東大就任と入れ替わりに助教を辞めた建築家である。11時前現場を発ち正午前に事務所に戻る。1時半石野夫妻と環境研前真之准教授が来所。石野邸の太陽熱給湯器の実測に関する話し合い。実験条件に関する簡単な契約書を取り交わして2時半終了。3時遠藤政樹君とスタッフが来所。コンペの打ち合わせ。コンセプト模型を作ってきたのでそれを見ながらディスカッション。区民を巻き込んだワークショップの方法としてパタン・ランゲージによるデザインを提案。文章なら市民にも伝え易いだろう。テーマを分担し文章によるアイデアの記述を行うことにする。あまり時間がないので次週までにアイデアを持ち寄ることにする。5時過ぎ終了。引き続きムジハウス・プロトタイプの打ち合わせ。スタッフが提案したスケッチから家族構成と空間構成のタイプが異なる3案に絞り込む。7時過ぎ終了。事務所内を掃除して7時半解散。夜はコンペのパタン・ランゲージのスケッチと読書。10時半帰宅。

『クラウド化する世界』(ニコラス・G・カー:著 村上彩:訳 翔泳辧2008)を読み終わる。最終章「iGod」で著者はインターネットが我々の思考や感性に及ぼす影響についてベンヤミン的な問いかけをしている。しかしグーグルのような膨大な外部記憶への依存が、われわれの視界を拡大するのか、あるいは思考を表層化するのかという問題については、予測は不確定だとしている。第1部の歴史的分析に比較すると、第2部のテクノロジー・アセスメントは今一切れ味が悪い。それにしても印刷媒体からもっともかけ離れたワールド・ワイド・コンピューティングについて、印刷媒体の中核である書籍を通して論じようとする著者の意図を、無自覚な矛盾と見るか、あるいは依然として印刷媒体の可能性を信じていると見るか、いずれにしても過渡的な現象だろう。
引き続き『遠近の回想』(クロード・レヴィ=ストロース+ディディエ・エリボン:著 竹内信夫:訳 みすず書房 2008)を読み始める。


2009年02月06日(金)

午前中アレグザンダー講義のシナリオをまとめる。直ちに住団連の主催メンバーに送信。引き続き、建築国際会議の後援願いをまとめて直筆サインを入れる。2時半に事務所を出て、飯田橋のダイワハウス本社ビルのホールへ3時過ぎ着。120人余りの聴衆。ほぼ全員がハウスメーカーの設計者である。友人の江田修司さんの顔が見える。この会はどうも彼の仕掛けらしい。筑波大の渡和由さんに紹介される。3時半から「パタン・ランゲージの可能性:クリストファー・アレグザンダーから学ぶこと」と題して1時間半のレクチャー。『10+1』の連載に書いた内容をさらに広げ、彼の仕事の時代背景を含めて論じる。聴衆にとってはややアカデミック過ぎる内容だったかもしれないが、僕としては久しぶりにパワー全開の講義だった。その後30分間の質問。5時過ぎ終了。5時半大学行。院生室で見本のチェック。6時からコスモスイニシアを交えて図面検討会。細かな図面チェックに少々食傷気味になるが、学生の対抗がまどろっこしい。これではどちらがクライアントか分からない。だんだんコスモスイニシアの担当者に申し訳ない気分になってきた。これでは手間と迷惑をかけるばかりである。そろそろ学生仕事は切り上げる時期かもしれない。9時半終了。正門前の中華料理屋で学生たちと遅い夕食を摂りながら、今日のような対応では仕事にならない旨を率直に伝える。学生たちには仕事に対する目配りとスピードが欠けている。やけ酒気味に紹興酒を呑む。11時前解散。11時半過ぎに事務所に戻る。しばらく雑用をこなし夜半過ぎ帰宅。


2009年02月05日(木)

10時大学行。留学生の博士課程面接試験。本郷と生研の関係教員が参加。難波研にもイタリアから一人が受験。デザイン系研究室に来るヨーロッパ人留学生のほとんどが、ヨーロッパと東京の都市性の比較研究をしたいという。完全にステレオタイプのテーマであり、大抵は判を押したように失敗する。日本語の歴史的文献が読めないから、結果的に現在の現象分析しかできないからである。日本語を必死で勉強しているようだから突破を期待しよう。0時半から建築学科会議。来年度の助教人事が大変そうである。2時過ぎ教授会。退職教授挨拶で小宮山総長と鈴木博之教授ほか3人が挨拶。それぞれの先生が大学が社会とどう結びつくべきかという問題に関して自説を述べた。短いスピーチだがそれぞれユニークな内容で考えさせられる。他の教授が社会との緊密な結びつきを強調したのに対し、鈴木さんだけが大学は社会とは直接結びつかないテーマを研究する役割があるのではないかと歴史家らしい説を述べた。その意味で鈴木さんは産学協同批判から発した1968年のトラウマを堅持し続けた最後の教授かもしれない。その後10人余りの人事投票。5時前終了。6時から学科長・専攻長会議。年度末の報告が多く、ひたすら研究科長の話を聞き続ける。久しぶりに苦痛な会議だったが、研究科長はもっと大変だろう。これで果たして研究できるのだろうかと人ごとながら心配になった。8時終了。研究室に帰ると研究室会議が丁度終了したところ。年度末で研究室の指導も大変なのだが、学生たちにも皺寄せが行ってしまう。9時まで専攻長の雑用。製図室は熱気で溢れ還っている。残すところ3日間である。10時前に事務所に戻る。井上と新しいコンペの簡単な打ち合わせ。「132石野邸」の確認申請が認可されたのでいよいよ着工する。環境研究室との実測実験についても話し合わねばならない。建築国際会議の後援願いをまとめる。来週には送付の予定。11時前帰宅。子猫が僕のベッドに潜り込んできた。3日で完全に家猫になったようだ。

『クラウド化する世界』は第2部「雲(クラウド)の中に住む」の最終章にさしかかる。クラウドとはグーグルのCEOエリック・シュミットがワールドワイドコンピュータをcomputer in the cloudと呼んだことから来ている。インターネットが張り巡らされた今日のコンピューティングは、もはや自分の位置が不確定でコンピュータが高密度に集まった雲の中にいるような状態だという意味である。プラットフォーム化したネットワークの中では我々は絶えず監視されている。インターネット社会にはプライバシーは存在しない。インターネットがもたらす自由の底には眼に見えない監視のネットが張り巡らされている。これも分散化と統合化のひとつのあらわれである。しかし今一リアルな危機感が感じられないのはなぜだろうか。それさえクラウド・コンピューテングに飼いならされた感覚なのだろうか。


2009年02月04日(水)

今日は一日事務所。午前中、木造コンペの設計要旨とプレゼンテーションの最終チェック。午後、岩元がコンペ事務局へ届けに行く。午後はアレグザンダー講義のスライドを追加し、スライド編集。夜はレクチャーのシナリオ作成。11時前帰宅。昨夜、我が家に子猫が来た。3年前に三毛猫が死んで以来である。最初は緊張していたが一夜明けると家中を走り回っている。猫も子供なら直ぐに空間に適応するようだ。

石山修武さんが世田谷村日記と「絶版書房交信6」で大野勝彦さんのセキスイハイムと「箱の家」とを比較しながら工業化住宅、広くは住宅一般について近代建築史のコンテクストで議論することを提案している。
http://ishiyama.arch.waseda.ac.jp/www/jp/outofprintpublishing.html#090204
議論の手始めに、ひとつのエピソードを紹介したい。数年前にセキスイハイムと「箱の家」が一度だけ接近遭遇したことがある。僕が東京大学に呼ばれた直後に、セキスイハイムの首脳と開発部が研究室を訪れ、セキスイハイムの製造ラインを使った「箱の家」を開発できないかという相談を受けた。直ちに埼玉の工場を訪問し、スペース・ユニットの製造ラインを詳細に調査した結果、セキスイハイムの原型は完全な箱であり、斜め屋根や軒は完全に付け足しであることが分かった。ついでに言えば、現行の「2×4住宅」も同じ箱型のシステムで屋根は付属品である。したがって余計な付属物を除去すれば、そのまま「箱の家」にできると考えた。しかしながらセキスイハイムのモデュール寸法は、トラックによる運搬条件を基準にしているため、尺間法で構成した「箱の家」のモデュール寸法とは大きく異なっている。もちろん運搬条件で決めたモデュール寸法を機能条件によってチェックしているのだが、セキスイハイムの組織化された寸法システムを「箱の家」と調整するのは至難の業である。それ以上に大きな問題は、スペース・ユニットによる構成であるために、上下に重ねると2階床梁が2重梁になり、平面的に並べていくと住戸中央に柱が4本束ねられる箇所が生まれる点である。つまりシステムが生産と運搬の論理によって組み立てられているために、完成した住戸ではかなりなオーバースペックになっているのである。間隔を空けてユニットを配置し柱の重複を避けるシステムなど、あれこれ突っ込んだスタディを試みたが、システム開発の前提条件が根本的に異なるため、最終的に開発を諦めたという経緯がある。モデュール寸法は生産条件と機能条件を調整するシステムだから、相互の調整はある程度可能だが、構法は生産条件にもとづいて決められているため、双方を折衷するのは難しい。これは「生産の論理」と「生活の論理」の違いの典型的な例だと言ってよい。今ならば、別のシステムを考えて、もう少しフレキシブルに対応できるかもしれないが、当時はとても調整は不可能と感じたことを記憶している。


2009年02月03日(火)

10時半、木造コンペのプレゼンテーション打ち合わせ。午後、アレグザンダー講義の準備。スライドソースが揃ったので全体を組み立て始める。少し資料が足りないかもしれない。午後大学行。3時前に福武ホールの「鈴木博之教授最終講義」へ。会場は通路に人が座るほどの超満員。伊藤毅教授の司会で3時に開始。最初に僕が専攻長として挨拶。鈴木さんの経歴を紹介し建築学における建築史の重要性について強調。引き続き鈴木さんの最終講義開始。1968年の東大紛争の話から説き始め、英国留学を通して19世紀英国建築と出会い、近代建築史への興味へと焦点を絞っていった経緯について1時間半の講義。鈴木さんは日本の明治以降の近代建築の変遷を紹介しながら、何度も「非西洋の近代建築史はそれほど単純ではない」と強調し、その度に僕の顔をチラリと見たような感じがしたのは気のせいだろうか。いずれにしても僕の単純化指向を批判されているような気がした。確かに配布された鈴木さんの経歴を見れば、近代建築史研究がいかに錯綜しているかがよく分かる。マルクスが『ルイ・ボナパルトのブリュメール18日』で指摘した「過去の亡霊」を、建築家である僕は字義通りに乗り越えるべき桎梏としてとらえたが、歴史家である鈴木さんは人びとが未来へ向かう時にとらざるを得ない「与えられた状況」への態度としてポジティブに読み替えているように思える。ユリウス・ポーゼナーが『近代建築への招待』のなかでペーター・ベーレンスの「AEGタービン工場」を評価したときの歴史観に近いと言えばよいだろうか。この問題を突き詰めれば「大文字の建築」の問題に行きつく。東京駅周辺の建物が1970年代以降の30年余りの間に次々と建て替えられていった様子を示すスライドが映し出されたときには会場からどよめきが生じた。今後の鈴木さんの活動の主軸が近代建築の保存にあることを宣言するような講義だった。5時前終了。その後ロビーで懇親会。沢山の懐かしい顔に会う。青木淳さんの顔が見えたので、直ちに千葉さんを呼び2人で来年度の修士設計の非常勤を依頼する。少しだけ躊躇ってから「できる範囲でなら」と言われた。日建設計の桜井潔さんと日本設計の六鹿正治さんには「建築教育国際会議」の後援を依頼する。6時タクシーで不忍池を臨む韻松亭へ。鈴木博之夫妻、伊藤毅、藤井恵介の歴史研メンバーに安藤忠雄、石山修武、藤森照信、隈研吾の四氏が加わり会食。講義に関する様々な話題で盛り上がる。石山さんからはブログ上で住宅に関する議論を展開しないかと持ちかけられる。確かに現在は住宅について議論するいいタイミングかもしれない。8時半解散。9時過ぎに事務所に戻る。木造コンペのプレゼンテーションパネルのレイアウトを確認。今日の講義について頭の整理。10時半帰宅。

『クラウド化する世界』を読み続ける。第2部はワールドワイドコンピューテングがもたらす正負の影響分析から始まる。1970年代に始まるテクノロジー・アセスメントである。建築とはなかなか交差しないが間違いなくボディブローのような影響があるはずだ。建築界との関係はどうなるのかについて考えを巡らせながら読み続ける。


2009年02月02日(月)

9時半に事務所を出て大学へ。製図室では卒業設計が追い込みである。3階エレベーターホールに置かれている模型群を直ちに撤去するように学生たちに指示。11時前、法文2号館入口前で文学部の小佐野教授と待ち合わせ。館内の学生ホールと大教室の見学。大教室を学生用会議室とメディアセンターに改装する件の相談。僕の立場は設計者ではなく文学部教授会の建築コンサルタントである。文学部の建物には初めて入ったが1号館とはずいぶん雰囲気が異なるのに驚いた。11時半終了。午後1時半からココラボ住宅実施設計の打ち合わせ。先週金曜日の図面検討会の結果を整理し、何点かアドバイス。今週金曜日の定例会議までにまとめるように指示。4時半に事務所に戻る。隈さんから連絡が入る。3月の正式就任の準備を進めているらしい。来年度の設計製図と講義に関して質問を受けたので、とりあえず設計製図スケジュール案を送信する。建築教育国際会議の後援願い状の下書き。夜は木造コンペの打ち合わせとアレグザンダー・レクチャーの準備。

『クラウド化する世界』の第1部を読み終わる。GoogleやAmazonは1990年代に巨大なコンピュータープラントを建設し、ユーザーに対してデータだけでなくソフトウェアのサービスを提供するユーティリティ・コンピューティングを始めた。これによってユーザーは自分のPCにいちいち高価なソフトをインストールしなくて済む時代が来るという主旨である。こうした状況はジェネラル・エレクトリックス社が1920年代に巨大発電所を建設しアメリカ全土に電力サービスを始めた状況に似ていると著者は指摘する。1893年にシカゴで開催されたコロンビア万博が電力業にとってエポックメーキングな転機だったことが紹介されている。T型フォードの大量生産を可能にしたのは、電化された効率的な組立ラインと労働者の給与アップだったという指摘は興味深い。テクノロジーのネットワークがユーティリィティ化を急速に推し進め、人びとのライフスタイルを変えていった典型的な例である。サービスの分散化と統合化が両極的に進むのは、電力とコンピュータのどちらも同じというわけだ。分散化の背景には必ず巨大な統合化がある。統合化されたテクノロジーはプラットフォームとして無意識化される。これがベンヤミンの言う遊戯的技術の本質ではないだろうか


2009年02月01日(日)

昨日と打って変わって快晴だが北風が強い。朝、風で倒れたベランダの植木鉢を何度も立て直す。9時前に出社。午前中は3年前の引っ越し以来、机の下に放置していた数個のダンボールを開いてアレグザンダーの資料を漁る。予想通り探していた資料を発見しホッと一息する。懐かしい資料に見入るうちに正午を過ぎる。昼過ぎ栃内と岩元が出社。午後はスライドの探索と読書。新しいコンペについて資料を整理しGoogleで敷地を調査する。7時過ぎに一旦帰宅し夕食を摂った後8時半に再び出社。Amazonから新たに購入した数冊の本の前書きと後書きを読み、次に何を読むかを決める。

石山修武さんが『世田谷村日記』に並行して書いている「絶版書房交信―1」のなかで「アニミズム周辺紀行-1」に関する僕の感想(「青本往来記」1/27)を手厳しく批評している。
http://ishiyama.arch.waseda.ac.jp/www/jp/outofprintpublishing.html#090129
「視覚的人間ではない」と書かれたのでは建築家として立つ手がないが、石山さんの手描きスケッチに関するコメントを書かなかったせいだろうか。事務所のスタッフと感心しながらスケッチを観たのだが。僕の分類癖は確かに単純化の弊もあるが、他方で議論を喚起する格好の契機でもある。僕は何事についても単純化が対話をうみ出すと信じている。単純化は問題点を明確にするからである。石山さんは1980年代の僕の仕事についてアニミズムの可能性を感じていたとコメントしている。ありがたいことだが「柳井の町家1982」「オフィスマシン1985」「EXマシン1990」が混ぜこぜになった感想で少々当惑した。コメントから推測するに、石山さんがいうアニミズムとは建築の装飾性を意味するようである。実を言えば「箱の家シリーズ」はこれらの仕事に潜在していたアニミズム=装飾性を意識的に削ぎ落とすことによってうみ出されたので、僕としては少々考え込んでしまった。今更、逆戻りするわけにはいかないので、現在の方向をどのように突き抜ければよいかについてしばらく考えてみよう。

『隷属への道』(F・A・ハイエク:著 西山千明:訳 春秋社 2008)を読み終わる。第13章「我々の中の全体主義」では、英国の英知である経済学者J・M・ケインズ、歴史学者E・H・カー、生物学者C・H・ウォディントンといった人たちの計画主義的、全体主義的な思考が批判されている。ハイエクの主張は至極当たり前なので、なぜ超一流のインテリたちが計画主義的思想に囚われるのかは確かに謎と言わざるを得ない。本書冒頭の「1944年の序文」でミルトン・フリードマンもこう書いている。「集産主義のためのどんな議論も、虚偽をこねまわした主義でなければ、きわめて単純な主張でしかない。すなわち、それは直接に感情に対して訴えるだけの議論でしかないのだ。そして感情に関する諸機能は、逆説的にというべきか、とりわけというべきか、自らをインテリとみなす人々において、きわめて高度の発達しているのだ。(中略)どうして世界のいたるところで、知識階層はほとんど自動的に集産主義の側に味方するのだろうか。集産主義に賛意を表する際には、個人主義に基づくスローガンをもちいているにもかかわらず、またどうして、資本主義を罵り、これに対する罵詈雑言をあびせかけているのだろうか。(中略)インテリの共同体の大半は、政府の権力の拡大が、個人を大型の悪質な企業から守るためとか、貧困者を救済するためとか、環境保護のためとか、「平等化」を各国において推進するためとか、等々政府が宣伝すると、ほとんどその拡大に賛成してしまう」。これもあまりに的を突いた指摘である。僕の心理にも確かにそうした傾向が潜在しているのがよく分かる。インテリはおそらくマルクス主義的科学性に被れているのであり、資本主義に浸された企業よりも中立的な国家権力を通じて自らが把握した科学的法則性を検証したい気持ちに駆られるのではないだろうか。とりわけ建築的・都市工学的発想を持った人たちにはその傾向が強いのではないかと思う。ヒトラーやスターリンが強大でモニュメンタルな建築を好んだことが、それを傍証しているだろう。建築家や都市計画家のみならず、経済学者や科学者も、法則の発見を生業としている以上、法則にもとづく「予測」へと向かうのは当然であり、その意味で潜在的な計画主義者なのだ。そしてインテリの計画主義は善意にもとづく発想であるだけにタチが悪いということである。

引き続き『クラウド化する世界』(ニコラス・G・カー:著 村上彩:訳 翔泳社 2008)を読み始める。エジソンの発電所から始まり、当今のGoogleへ至るプラットフォーム技術(遊戯的技術)の歴史を探るためである


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