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箱の家 PROJECT 青本往来記
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コンパクト箱の家

2005年08月31日(水)

9時過ぎ大学行き。すでに製図室で院試の設計製図試験が始まっている。昼過ぎまで研究室で待機。原稿スケッチ。
安藤忠雄さんから電話。研究助成の件で打ち合わせ。外部からの研究助成がないと海外でのワークショップは難しい。午前中、花巻とメールで「112神宮前」の鉄骨金物図の打ち合わせ。昼過ぎまでに収斂。
午後2時から製図試験の採点開始。4時過ぎまでかけてじっくりと見て、一通り採点をまとめる。明日、再度確認することにして、4時半過ぎ大学を出る。

5時半事務所に戻る。花巻がまとめた図面を工務店に渡し「112神宮前」の打ち合わせ。これで作業は進むだろう。
『都市・建築・歴史』(鈴木博之+石山修武+伊藤毅+山岸常人:編 東京大学出版会 2005)の第2巻『古代社会の崩壊』が届く。山岸常人さんが担当の巻である。「メタル建築論」の校正刷りが届く。早急に目を通さねばならない。


2005年08月30日(火)

10時前大学行。今日は専門科目の院試が進んでいる。10時半から計画意匠系の会議。新領域創成学科の大野秀敏さんが来年度に柏キャンパスに移るに際して、その事後処理の方針に関する話し合い。とはいえこれは建築学科全体の問題なので、最終決定は学科会議に諮らねばならない。基本方針だけを決めて学科会議に発議することになった。合わせて、これまで大野さんが担当していた設計意匠講義のプログラムについても議論。設計製図の担当教員の協働で新しいカリキュラムを立ち上げる方針を決める。

午後、メールで事務所とやりとり。ようやく「112神宮前」の鉄骨現寸検査の日が決まる。スケジュールが迫っているのに、何度催促しても工務店は依然として明確なスケジュールを立てようとしない。僕にはその理由が理解できない。ファブリケーターが忙しいせいかもしれないが、それならなおさら明確にスケジュールを立てるべきではないか。現寸検査、製作、製品検査、建て方にいたる作業には最低限必要な時間がある。僕の経験では、現段階ではほぼ限界のスケジュールである。何かつまずきが生じたら建方の日は間違いなく延期になるだろう。万が一そうなったら僕としては工務店の責任を問わざるを得ない。

安藤忠雄さんから電話。9月中旬に表参道の同潤会現場見学会に誘っていただいた。12月の即日設計課題のスケジュール打ち合わせ。スタッフの募集も打診された。院試が終わったら学生達に話しをしてみよう。夕方まで原稿スケッチ。PHP新書の原稿が大幅に遅れている。アルミ建築の原稿締切も迫っている。

8時半、雨の中を事務所に戻る。メールチェックといくつかの雑用。実施設計中の仕事が並行して進んでいる。時々チェックしないと脇道に逸れる場合があるので要注意である。
花巻と「112神宮前」の鉄骨打ち合わせ。主要な骨組だけでなく外壁、屋根、サッシなどの副次的な骨組を指定しなければならない。そのためには前もってすべての納まりを検討しておく必要がある。今度は鉄骨ファブではなく、こちらのお尻に火がつきそうだ。


2005年08月29日(月)

9時前に一旦銀行に行き、給与と経費を振り込む。その足で大学行。今日から院試が始まるので学内は静かである。他学科の院試結果が出始めている。研究室で昨日の『ディテール・ジャパン』原稿の続きに集中。何冊かの文献を参照しながら、夕方までに概略をまとめる。最終的には20枚を少し越える量になった。内容は最近の建築デザインの潮流を技術の側面から概観したものである。いつものように「建築の4層構造」を下敷きにしながらまとめた。デザインの全体像を見るには、やはりこの方法が有効である。「建築の4層構造」はカントのカテゴリー論の建築版というか、建築を総合的に見るためのマトリックスである。

5時過ぎ事務所に戻り原稿を校正。直ちに編集部に送る。
井上がまとめた逗子の住宅ビルの基本図を佐々木事務所に送信。基本的な構造を検討してもらう。夜、佐々木君から基本的な方針を聞く。全体をRC造にするか、鉄骨との混構造にするかが思案のしどころである。ともかく見通しが立ったので模型製作に着手し9月半ばにプレゼンテーションの予定。

内藤廣さんから島根芸術文化センターの内覧会の案内が届く。青木淳さんの青森県立美術館の内覧会も近づいている。どちらも遠いが直接見るにしくはない。何とかスケジュールを調整して出かけることにしよう。


2005年08月28日(日)

9時起床。10時に家を出て事務所へ。『ディテール・ジャパン』の原稿を書き始める。昼食を挟んで夕方7時までに何とか400字詰めで15枚を書き上げたが、頭が痛くなり中断。8時過ぎに帰宅。夕食を食べ、しばらく原稿の校正。明朝までに書き上げようと思ったが、大学に置いてある文献の参照がどうしても必要である。やはり明日一日かかりそうだ。

原稿を書く合間に『複雑な世界、単純な法則:ネットワーク科学の最前線』を読む。1960年代末にグラフ理論や流行したことがある。アレグザンダーの『形の合成に関するノート』もグラフ理論の応用だったので、彼のダイアグラム論やパタンランゲージ論を思い出しながら読み続ける。本書では数少ないネットワークによって緊密なネットワークができあがることを検証しているのだが、だとしたらパタンランゲージの最大の問題点である発見性と意外性の欠落を傍証できるかもしれない。もう少し勉強してみよう。


2005年08月27日(土)

10時前、埼京線与野本町の「108小野塚邸」現場へ。すでに中川も来ていた。外部足場が取れて外観が姿を現している。いつもと同じスケールだが予想以上に大きく見える。周囲の住宅が迫っているのと、現状地盤が低いためだろう。建物外周は20センチ以上盛土する必要がありそうだ。ガルバリウム鋼板とフレキシブルボードの外壁はキッチリ納まっている。方位が南北から少しずれているので、この時期の午前中には日射がすこし室内に入る。床に蓄熱しないようにカーテンかブラインドを閉めてもらわねばならない。室内は家具工事の最中である。台所回りの構成が見えてきた。いつもより奥行きが小さいが、ほとんど気にならない。2階に昇り塗装見本を見る。やや濃い目の白色を選択する。集成材の赤味を消すためだ。この「箱の家108」では、本格的な環境調査を行う予定である。9月上旬にもう一度来ることを約して11時前に現場を発つ。

12時前、大学着。製図室では新領域創成学科の院試設計製図が行われている。受験者は建築学科からの数名のみのようだ。
研究室でしばらくの間原稿スケッチ。2時、後藤一家が来研。今日は後藤夫婦と両親の4人である。第2案の図面を見ながら概要を説明。要求条件をほぼ満足した案になったが、床下収納や外部収納を追加要求された。10月末までに基本設計を終え、来年3月までに実施設計をまとめる予定。本郷近くに2軒目の「箱の家」が出現するのは来年末である。
3時半、事務所に戻る。鎌倉グループホームのスケッチ。ぼんやりと方向が見えてきた。花巻と「112神宮前」の鉄骨階段打ち合わせ。

『対話の回路:小熊英二対談集』を読み続ける。ほとんどがナショナリズムについての対談だが、なかなか僕の回路に嵌ってこない。社会人として自覚すべきテーマであることは認識しているが、建築デザインへの結びつき方が今一想像できない。先日読んだ八束はじめの本や清水重敦の論文も同じようなテーマを扱っているが、明治以降の日本近代建築史に焦点を当てているので、何とかついて行けた。磯崎新の「和様化」の問題も一種のナショナリズム論だが、近代建築史としてならともかく、現代建築との結びつきについては今一ピンと来ない。僕としては建築の科学的・工学的側面に興味があるので、それがナショナリズムとどう結びつくのかという疑問もある。建築デザインがグローバル化するときには、当然ナショナリズムが絡んでくるだろう。しかし今、現実に展開している建築デザインがナショナリズムに影響されているとは思えない。むしろそこから脱しつつあるのではないだろうか。いずれにせよデザインとナショナリズムはまったく次元が違うような感じがする。
この問題は少し置いておくことにして、次は少し趣向を変えて『複雑な世界、単純な法則:ネットワーク科学の最前線』(マーク・ブキャナン:著 阪本芳久:訳 草思社 2005)を読んでみることにする。

夜、秋野不矩を見る。


2005年08月26日(金)

9時半、大学行き。研究室にて環境研究会議。イゼナの前田誠一さん、前助教授、院生2人、花巻が参加。これまでの調査研究の経緯とこれからの予定について話し合う。議題は、アクアレイヤーの環境効果のモデル化の可能性について、「108小野塚邸」の環境調査の予定について、これからの「箱の家」に組み込むべき技術として太陽熱利用の給湯についてなど。引き続き「106結城邸」の調査報告。短期間でも興味深い調査結果が得られている。引き続き調査を続行。「106逸見邸」についても、現在調査結果を整理中とのこと。着々、研究は進んでいる。次のステップは、「箱の家」のシステムに太陽熱給湯を組み込むことである。それも単に設備を付加するのではなく、建築的・構法的に統合しなければならない。

午後、留学生の書類に目を通す。まったく日本語をしゃべれない学生には、正規のコースに入る前に語学が必要だろう。時間がかかるがやむを得ない。その後、原稿スケッチと読書。事務所とのメールのやりとり。
3時、建築学専攻会議。久しぶりに生産技術研究所の面々に会う。院試直前の打ち合わせ。問題のチェック。面接や留学生の受け入れの問題など。4時半終了。

6時過ぎ大学を出て、東京駅の丸ビルへ。早めに着いたので、1階のロビーを散策していたら坊城さんに出会う。彼が勤める文化庁は丸ビルの隣だそうだ。しばらく立ち話。
7時に青木茂さん、岐阜のゼネコン社長と待ち合わせ。5階の中華料理屋で食事をしながら10月のシンポジウムの打ち合わせ。九州の八女市長も参加するそうだ。9時終了。事務所に戻り、いくつかの雑用をこなす。


2005年08月25日(木)

今日も雨の中ビッグサイトへ10時前着。しばらく会場を散策。10時半からユニット審査員5人で応募作品を一通り見直す。約1時間ディスカッションしながら再審査し、数点の入賞作品を追加。お昼前までに入選作を最終決定。応募作280点のうち入選作は90点余となった。約3割の入選率は去年よりずっと低い。僕としてはもっと厳しく審査してもいいと思ったが、委員長によれば、これが限界だそうだ。その後、僕たちのユニットの金賞候補と特別賞の決定。飛び抜けた作品はないので、複数作品が候補に挙がる。1時前にすべて完了。

2時過ぎ、大学行。原稿のスケッチ。全体の構想がほぼ固まる。週末にかけて集中的に書き上げよう。
4時過ぎ、修士論文の審査会。僕は伊藤毅さんと一緒に千葉研の留学生の修士論文を審査。銀座の都市構造についての研究だが、新しい視点はほとんど見られない。伊藤さんは優しく諫めていたが、僕はコメントするにとどめる。留学生は厳しく指導しないと異国趣味的な研究に終始する可能性が高い。他山の石としよう。

6時前、事務所に戻る。花巻と昨日の「112神宮前」の打ち合わせの続き。サッシ回りは方向が見えてきた。引き続き、階段を検討するように指示する。
留学生がようやくプレゼンテーション用の模型を完成させる。時間もかかったし精度も今一で70点の出来。もう少し時間をかけて鍛えないと難しいかもしれない。

『対話の回路:小熊英二対談集』(小熊英二:著 新曜社 2005)を読み始める。巻頭の村上龍対談を読み終わる。ナショナリズムと共同体の話題が中心。共同体への違和感が共同体を強化すること。アイデンティティの自覚がアイデンティティの喪失の徴候であるといった逆説。
『GA JAPAN 76』が届く。佐々木睦朗君が「コンテンポラリー・ストラクチャーの緒言」でオフィスマシンやEXマシンの「微細な構造」について書き、遠藤政樹君が「Atelier talk」で僕との出会いについて話しているのを興味深く読む。

台風11号が近づいている。関東地方にも警報が出ているので、早めに事務所をやめて、スタッフを帰す。


2005年08月24日(水)

9時半、有明のビッグサイトへ。グッドデザイン賞の第2次審査。10時、審査説明会。審査員の集まりは今一。別の日に審査を行うユニットが多いようだ。10時半。各ユニットに分かれて現物審査。
今年の応募総数は3000点を越え、第1次審査を通過したのは2500点余り。僕は去年と同じく家具、住宅設備機器のユニットを担当。5人の審査員で約200余の応募作品を審査する。お昼過ぎまでに各人が選定。去年よりも全体としてレベルはやや低い感じがする。僕はかなり厳しく審査。昼食後、5人全員で作品を見て回る。一通り審査が終わったのは5時半過ぎ。最終決定は明日に持ち越して6時前に解散。懇親会への出席は辞退して、大急ぎで7時過ぎに事務所に戻る。

夕食後、花巻と「112神宮前」のサッシと階段の打ち合わせ。新しい断面のサッシを使うので、取り付けの納まりに苦労する。なかなか収斂しない。鉄骨のスケジュールが迫っている。少々焦りを感じ始める。


2005年08月23日(火)

午前中、原稿スケッチ。ほぼ全体像が固まったが落としどころを思いつかない。
午後、大学行き。製図室では、再び院試設計製図の模擬試験をやっている。
1時半、ポルトガルのアルヴァロ・シザ事務所に勤める日本人の若い建築家が来研。先日、研究室を訪れた京都工繊大卒の建築家と知り合いで、彼の紹介で僕の研究室を知ったとのこと。ポルトに完成したOMAの音楽ホールの完成見学会の際に知り合ったらしい。東北大を卒業してから、3年間日本で実務を行った後、ロンドンのAAスクールに留学。修士過程終了後、シザの事務所に入所。AAスクールではサステイナブル・デザインを学び、シザ事務所でもサステイナブルな仕事に携わっているという。しばらくは海外で仕事と研究を続けるらしいが、帰国してからの方向について相談を受ける。実務を続けながら論文をまとめるやり方ならば、僕の研究室に受け入れる意向を伝える。
3時、アルミ建築構造協議会が来所。エコビルド展で放映するアルミ建築に関するビデオ取材。約1時間、アルミ建築について話す。取材後、普及版アルミエコハウスも「箱の家」の展開型として展開させねばならないことを考える。
事務から院試の受験者リストが届く。相変わらずデザイン系への志望者が多い。去年よりも狭き門になりそうだ。
8時、事務所に戻る。鎌倉のグループホームのスケッチ。敷地の広さに比べて要求条件がヘビーである。あれこれ模索する。

『科学革命の構造』(トーマス・クーン:著 中山茂:訳 みすず書房 1971)を読み終わる。クーンは、科学の進歩は累積的な発展ではなく、パラダイムの転換による不連続な進化であることを主張している。ポパーは科学の本質を「反証可能性」に見たが、クーンはその考え方を退けた。パラダイムは反証されないからである。一方、ファイヤアーベントはクーンの考えを極限まで推し進め、科学の発展は「Anything goes(何でもあり)」によってもたらされ、決まった法則などないと主張した。ウィトゲンシュタインの「言語ゲーム」の焼き直しである。確かに革命には法則はない。というか法則がないから革命なのである。クーンのパラダイム論の意義は、むしろ通常科学と異常科学を区別した点にある。ファイヤアーベントの主張には通常科学の概念はない。
クーンは科学の不連続で創発的な発展に焦点を当てたわけだが、にもかかわらず科学の進歩はつねに累積的に見えるというトリックがある。その理由は、歴史学と同じように、科学も自らを事後的に振り返るからである。新しいパラダイムは古いパラダイムを無視し、科学の歴史はあたかも自らに向かっては歩んできたように主張するから、必然的に累積的な記述になるのである。実に分かりやすい主張である。これに比べるとフーコーのエピステーメーの不連続な転換はずっと分かりにくい。人文科学には自然科学のように一方向的な進化がないからである。


2005年08月22日(月)

午前中は事務所。住宅のスケッチ。「114表邸」のトップライトのディテール・スケッチ。
午後、大学行き。製図室はやけに静かだ。COEレクチャーのレポート採点。いくつか面白いレポートがあったが大部分は幼い。とくに貧しい知識にもとづく批評は悲惨だ。学生の間は学ぶことを最優先して欲しいものだ。
引き続き学会の応募論文の査読。新しいジャンルなので評価の基準がない。パイオニアとしての努力を買うことにする。原稿スケッチ。少しずつ書きためていくしかない。今週中に何とかまとめよう。合間を見て、雑誌の論文や対談を読む。上野千鶴子のインタビューを読みながら「箱の家」のコンセプトの展開について考える。まずは高齢者社会における「箱の家」を考えることが必要かもしれない。既に1,2軒あるけれど。

Architectural Recordの表紙にマキシミアーノ・フクサスのミラノ展示場が掲載されている。波打つラチスシェルのガラス屋根がFLUX STRUCTUREのように見えたので、急いで雑誌の中味を見たら、あちこちを樹状の柱で支えたインチキFLUX STRUCTUREなのでがっかりした。柱なしだったらデジタルなFLUX STRUCTUREになったのだが。これでは単なる形の操作に過ぎない。
8時、事務所に戻る。再び原稿スケッチ。新しく届いた何冊かの本を拾い読み。


2005年08月21日(日)

8時半起床。10時に自宅を出て事務所へ。午前中、原稿スケッチ。1時過ぎに事務所を出て有楽町の東京フォーラムへ。ガラスホールの会議室で「MUJI+INFILL木の家」のレクチャー。聴衆はクライアント(候補?)とパートナーの工務店である。まず金井専務が無印良品のコンセプトについて約1時間のレクチャー。1980年の創立から現在までの無印良品の歩みについて概観。聴衆はやや退屈気味だが僕には勉強になった。その話を受けて僕は「MUJI+INFILL木の家」の開発プロセスについて約1時間話す。その後、何人かの質問を受けて4時半に終了。

話しながら「箱の家」と「MUJI+INFILL木の家」の違いについて説明することの難しさを痛感する。「MUJI+INFILL木の家」のシステムは僕が開発したものだが、今や僕の手を離れて独立の歩みを進めている。コンセプトは一般化されれば間違いなく当初の単純明快さを失っていく。それは商品化の宿命だといってよい。だから僕の視点から見れば「箱の家」のシステムの方が優れているに決まっている。しかしそれをこのような場で指摘することはできない。それよりも僕にとって大きな問題は「MUJI+INFILL木の家」が、構法だけでなく一室空間住居というライフスタイルまでも標準化している点である。両者は重なる部分があまりにも多いのだ。今、僕がすべきなのは「箱の家」のコンセプトを反復することではなく、それをさらに先へ進めることだけである。このレクチャーを通じて、そのことをあらためて思い知らされた。

短いレクチャーだったが予想以上に疲れたので、そのまま自宅に戻り一休みする。
夕食までの時間『科学革命の構造』を読み続ける。クーンのパラダイム論を読んでいて「箱の家」のコンセプトは、住居に関する新しいパラダイムではないかというアイデアがひらめく。近代的な個人の自立が一室空間住居とどのようにつながるのか。これが「箱の家」のコンセプトの中でもっとも理解されにくい点である。個人の自立と個室とを結びつける常識的な論理に対し、「箱の家」はまったく逆の論理を提示している。一室空間住居のコンセプトが主張しているのは、個人の自立は空間を越えるということである。「箱の家」に大人は家族の一体感を期待するが、子供は一室空間の中で見えない壁を作り出す能力を身につける。もしこれが新しいパラダイムでないとすれば「箱の家」は家族の解体に対して抵抗するだけのプレモダンで反動的な住居でしかない。その点を理解してもらえるかどうかが「箱の家」のコンセプトが新しいパラダイムになりうるかどうかの分岐点である。


2005年08月20日(土)

9時、事務所行き。午前中、明日の「MUJI+INFILL木の家」レクチャーのスライドショーを編集。
午後、中川がまとめた「110大橋邸」の実施図面チェック。引き続き、鎌倉グループホームのスケッチ。まだ方針が見えてこない。井上がまとめた逗子の住宅ビルのチェック。これはかなり方向性がはっきりしてきた。来週中には構造のチェックができそうである。
4時、大橋さんが来所。「110大橋邸」の実施図の説明。基本的な方針は決まったので、残すところは最後のつめである。来週は見積を出す工務店を当たってみよう。

『科学革命の構造』(トーマス・クーン:著 中山茂:訳 1971)を読み始める。大学院の時から4回目の再読である。概略はおおよそ頭に入っているが、新しい発見もいくつかある。ルードウィッヒ・ウィトゲンシュタイン、カール・ポパー、ポール・ファイヤアーベントといった哲学者たちの著作を思い起こしながら読む。建築にも当てはまる論理がありそうだ。

7時半、帰宅。久しぶりに家で食事。夕食後、NHK・BSでドキュメンタリー番組を見る。60年代後半にアメリカ西海岸のサーフィン・ミュージックを先導した「ビーチボーイズ」というグループがいたが、そのリーダーであるブライアン・ウィルソンが、60歳を過ぎて返り咲いた経緯を描いた番組である。彼はビートルズとほぼ同世代で、ポップスからプログレッシブ・ロックへと展開し、その音楽性はレナード・バーンスタインも認める先進的なものだった。しかしイギリスと違って、アメリカ西海岸には急進的な音楽を受入れるような土壌がなかったため、彼のアルバム製作は途中で挫折した。そのアルバム「SMILE」を30年後に若いメンバーの協力を得て再製作し、ツアーも大成功したという話である。最初のコンサートはロンドンのロイヤル・フェスティバル・ホールで開催された。聴衆のほとんどは僕と同じ団塊の世代だった。60年代後半から70 年代にかけての音楽シーンを思い出しながら、同世代としてさまざまなことを考えさせられた番組である。数年前に再結成された「イーグルス」も同じ西海岸出身で団塊の世代だった。団塊の世代の高齢化に伴って、おそらく同じようなリバイバル現象はこれからも頻繁に起こるだろう。


2005年08月19日(金)

午前中は事務所にて仕事。京成元山の住宅の第2案をスケッチ。南北に長い敷地だが、間口もそれなりにあるので設計の自由度は高い。北側道路だから「箱の家94」に条件は近いが、駐車場の取り方が問題である。

午後、大学行き。製図室では院試の設計製図試験の模試が行われている。
遅れていたCOEレクチャーのレポート採点。100人余りのレポートに目を通すのは大変である。留学生もかなり多いので英文レポートも読まねばならない。皆、幼い論文ばかりである。半分採点したところでダウン。合間に院生のコンペのエスキス。4時から専攻会議。その後、千葉さんと事務的な打ち合わせ。

6時過ぎ事務所に戻る。再び、住宅のスケッチ。なかなか突破口が見つからない。
そろそろ『ディテール・ジャパン』の原稿を書き始めねばならないが、これもとっかかりがつかめない。


2005年08月18日(木)

午前中は事務所。井上が夏休みを終えて出社したので「108金澤邸」と逗子の住宅ビルの打ち合わせ。アルミエコハウスの技術解説を校正し「新建築編集部」へ送信。引き続き「MUJI+INFILL木の家」レクチャーの準備と『ディテール・ジャパン』の原稿スケッチ。
昼過ぎに事務所を出て浅草の「二天門消防支署」へ。浅草は猛暑である。1時半から現場連絡会議。建築、設備、電気のすり合わせ。ギリギリの納まりについて話し合う。
4時過ぎに事務所に戻る。中川と「110大橋邸」実施図面打ち合わせ。『ディテール・ジャパン』特集号に掲載の建築詳細図の資料を精査し傾向を探り出す。少しずつイメージが湧いてきた。

『近代とは何か』(『都市・建築・歴史』(鈴木博之+石山修武+伊藤毅+山岸常人:編 東京大学出版会 2005)第7巻)を読み続けている。まず本書全体が「近代」を西欧と日本の両方の視点から見る構成になっている点に成る程と唸らされる。鈴木さんの仕掛けだろう。
「第2章 建築における過去:日本近世ム近代における継承と転換の位相」(清水重敦:著)を読み終わったところだが、なかなか興味深い論文である。同じ明治期の建築観を扱っていながら、清水の主張は八束はじめの『思想としての日本近代建築』とは対照的である。
「むすび」で清水はこう書いている。

「近代日本における建築の過去への意識は、近世におけるそれを継承し、かつ転換することで明確な像を結んでいった(中略)。その転換の位相はきわめて自覚的なものであった。しかしその一方で、継承の位相については必ずしも自覚的なものではなかった。日本近代における建築の過去意識の特質は、この無自覚的な継承の部分にこそ読み込まれねばならない。」

さらに清水はこう結論づけている。
「こうしてみると、近世と近代の間には、建築の過去への意識のあり方に本質的な差異がないと考えることも可能である。過去への意識は、近代日本における建築思潮の主軸の一つであり続けたが、それは、近世における過去意識を無自覚に受け継いだ部分においてこそ、近代日本固有の情況を生む起源となりえたのであった。」

清水と八束が取りあげている資料は、かなりの部分が重複している。にもかかわらず結論は対照的である。とくに伊東忠太のテクストの読みがまったく異なるのが面白い。清水の言う「無自覚な継承」が、八束の言う「断絶」に当たるような気もするが判断は難しい。八束の立場から言えば、清水は近代以降の視点を近世に適用しているからこそ「連続性」が浮かび上がるのだと強弁できなくはない。しかし近世と近代の断絶を強調すれば近世への視点は失われる。それを避けるために、清水は注意深く建築に関する用語とその用法に焦点を絞って「継承と転換」を検証している。同時に具体的な歴史的建造物を取りあげることによってそれを傍証している。清水の周到な論文を読むと、近世と近代に建築概念の断絶があるという八束の主張には、やや無理があるように思えてくる。歴史観あるいはパラダイムの相違だといってしまえば簡単だが、それでは生産的ではない。ミシェル・フーコーでさえ(連続性を追求する)「思想史」と(断絶を探り出す)「考古学」との相違を明確に説明できなかったのだから(『知の考古学』)、両者の相違についてはもう少し考えてみる必要がありそうだ。


2005年08月17日(水)

9時、事務所行き。快晴で暑い。今日もスタッフ2人が夏休み。
昨日に続きストラグルしながら日本建築士会連合会作品賞の講評を3本書きあげる。通常、担当は1、2作品なのだが、なぜか今年は3作品を担当することになった。3作品は作風がまったく異なるので頭の切り替えが大変である。続いて図面と写真のレイアウトをスケッチし宅急便で送る。結局4時までかかってしまった。
引き続きアルミ建築の原稿に取りかかる。まずは図版の説明を大急ぎで書き上げる。巻頭論文は締切までに少し時間があるので、簡単なスケッチにとどめる。
『ディテール・ジャパン』の編集部から電話。原稿の進行状況の確認。こういうことをやられると思わず腰が浮いてしまう。勘所をわきまえたやり手の編集者である。直ちにスケッチを再開する。

原稿を書くには、最初のきっかけが決定的である。きっかけがないと、いつまでたっても書く気にならない。原稿の依頼を受けると、まずテーマについて考える。そして興味のあるテーマなら直ちに引き受けてしまう。しかし興味深いテーマであっても、それを文章にするには、いくつかのハードルを越えねばならない。僕の場合は全体のスケッチから着手し、資料を渉猟しながら当初のテーマを細部へと分化させていく。長い文章の場合は、そのために最低必要な時間がある。その間はあまり他のことを考えることが出来ない。最近はそのための時間を確保することが難しくなった。何とか他の方法を考えねばならない段階に来たような気がする。

ムジネットから電話。日曜日のレクチャーの確認。急いでスライドショーの編集を始める。「MUJI+INFILL木の家」のコンセプトと開発プロセスについて話す予定。

今日は一日中事務所にいたが、原稿に追われて設計に手を付けることが出来なかった。
鎌倉のグループホームのクライアント代理の弁護士から新しい設計条件に関するFAXが届く。新しい条件が提示されたので、またまた頭が混乱し始める。最初から仕切り直しのようだ。


2005年08月16日(火)

朝、天井の表面温度を測ってみたら32度だった。夜は冷房を消すので、躯体の蓄熱がそのまま放射されるようだ。明け方がもっとも寝苦しく感じるのは、そのせいかもしれない。

9時、事務所行き。10時、法政大学の学生がオープンデスクにやってくる。難波研の留学生も今日からアルバイトである。それぞれ『箱の家』の図面の整理とプレゼンテーション模型の製作を頼むことにする。

午後、大学行き。院試の製図のシミュレーションが本格的に始まっている。ちょうど終わったところなので、ざっと様子を見る。院生があれこれアドバイスをしている。
政府給費留学生の書類準備を始めようとしたら、今年からシステムが変わったことが判明。志望者にも十分に伝わっておらず、すれ違いになった。

夕方、事務所に戻り、日本建築士会連合会作品賞の講評を書き始める。人の作品について批評を書くのはあまり気分のいいものではない。知らず知らずの内に俯瞰的な視線になってしまうからだ。いつも同一レベルの目線で「もし自分だったらどうするか」というスタンスで批評を書くように努力しているが、共感できる作品ならまだしも、そうでない作品については、同じ目線を持つのは難しい。ともかく早く片づけてしまいたい。


2005年08月15日(月)

7時前に目が覚める。仮住まいのマンションで初めての夏を過ごしているが、夜間の暑さは尋常ではない。最上階の西側の住戸なので、昼間にたっぷりと躯体に蓄熱し、夜間にじわじわと放熱しているようだ。冷房をかけても空気温度が下がるだけで、どこからともなくやってくる放射熱には効き目がない。やりきれない暑さで夜中に何度も目が覚める。一度試しに、壁と天井の表面温度を測ってみよう。

9時、事務所行き。午前中はディテール・ジャパン原稿スケッチ。現代建築を近代建築の技術的進展のコンテクストに載せるストーリーを考える。
午後、花巻と「112神宮前計画」の鉄骨打ち合わせ。主要構造部は通常のフレームだが、サブ構造で熱を考慮したいくつかの新しい試みを行う。外断熱でありながら鉄骨造に見せる工夫である。ミースが試みた方法をさらに推し進めた構法といえばよいだろうか。
逗子の住宅ビルと鎌倉のグループホームのスケッチ。見えない中心の回りをグルグル回っている感じである。

伊藤毅さんから『水辺と都市』(伊藤毅+吉田伸之:編 山川出版社 2005)が届く。先日の『江戸の広場』に続く労作である。伊藤さんの専門は単体の建築史ではなく、それが集合した都市史だが、都市もアノニマスではなくインコグニートである。先日の北京ワークショップでも痛感したが、都市再生やサステイナブル・デザインはつまるところ都市史との対話である。建築単体に拘る限り社会基盤学科や都市工学科との共通言語を生み出すことはできないだろう。3学科連合のCOEプロジェクトの鍵は意外に都市史にあるような気がする。

8時、仕事を切り上げて最近オープンした小さなイタ飯屋へ。盆休みなのに出社してくれたことへの感謝。量が少ないのがちょっと不満だが、赤ワインをたっぷり飲むことができた。10時半終了。
帰宅し、室内の表面温度を測ってみる。冷房をかけているが、天井と壁は30度、床は28度。暑い筈である。僕の経験では表面温度23度あたりが快適な室内環境の目標値である(もっともこれは冬のことだが)。やはり外断熱と表面通気が不可欠である。「112神宮前」ではしっかり測定してみよう。


2005年08月14日(日)

8時半起床。午前中は読書。昼過ぎに家を出て大学行き。1時過ぎ、講評室に行くと10人余りの4年生が院試の設計演習をしていたので陣中見舞い。一般的な注意をアドバイス。その後、ひたすら読書。合間の気休めにタルコフスキーの『ノスタルジア』を観る。

7時前、娘が来研。早速、読書会。今回はミシェル・フーコーの『言葉と物』と『知の考古学』。前回の岡倉天心の読書会で、明治維新期における歴史観の不連続な転換を確認したが、その理論的な根拠を検証するために、改めてフーコーを読んでみることにした。僕は『知の考古学』を担当したが、この本はフーコーの研究の方法論についてまとめたものなので、具体的な研究内容が展開されておらず、ほとんど取り付く島がなかった。結局、翻訳者の長文の解説を読んで概要を理解することになった。言表、言説、集蔵体、識知、実定性といった翻訳用語はいろいろなところで眼にするが、今回、ようやくその具体的な意味内容が把握できた。フーコーによれば、歴史を連続的な発展と見る古典的な歴史観は、歴史を構成する主体=人間の温存を隠ぺいするトリックにほかならないという。僕の理解に引き寄せて言えば、フーコーが注目するエピステモロジーの不連続な転換は、突然変異と自然淘汰による生物やシステムの不連続な進化や、複雑系理論でいわれるカオスの縁に生じる創発的な現象に近いのではないかと思う。先日読んだ『思想としての日本近代建築』は、まさにフーコーのエピステモロジー論の実証編だといってよい。次回は、科学史において同じような歴史の不連続性を明らかにした古典的な名著『科学革命の構造』(トーマス・クーン:著 中山茂:訳 みすず書房 1971)を取り上げる。


2005年08月13日(土)

ゆっくり寝て、10時過ぎに事務所に行く。昨日の雷雨のせいでやや涼しい。
午前中はいくつかの雑用。スタッフのうち二人が今日からお盆休み。
「113鈴木邸」「114表邸」の確認申請が認可されたので、本格的な実施設計に着手する。
午後は「ディテール・ジャパン」の原稿スケッチ。現代建築の傾向を建築の4層構造で分析してみる。
逗子の住宅ビルのスケッチ。ボンヤリと方向が見えてきた。鎌倉のグループホームスケッチ。まだ暗中模索である。お盆中に何とか見通しを立てたい。

『室内』からの原稿依頼が届く。先日「青本往来記」に固有名を書くことに関して意見を述べた。それを読んだ編集部から、その点を含めて「青本往来記」を書き続けることの意味について原稿を求められた。2002年9月に書き始めてすでに3年になるが、HPに日記を書き続けることの功罪について時々考えることがある。いい機会なので気になる問題を整理してみよう。

ムジネットから「MUJI+INFILL木の家」のカタログに僕のインタビューを掲載する依頼を受けた。しかしいろいろ考えた末、インタビューは断わることにした。思い返せばムジネットはシステム開発の段階では『ブルータス』誌に開発者の顔写真を大々的に掲載し、デザイナーの名前を全面に押し出して宣伝した。しかし「MUJI+INFILL木の家」第1号が完成し、本格的な販売が始まった時には「無印良品」というブランドとして、デザイナーの名前は一切出さないという方針に転換し、「MUJI+INFILL木の家」第1号のメディアへの発表の形式について僕はかなり妥協せざるを得なかった。それが今度はカタログに僕の名前を掲載するという。この3年間でムジネットの方針が二転三転したことになる。販売戦略上の方針変更というのはこういうものなのかもしれないが、僕としてはいちいちそれに付き合うことはできない。あるいは現代における住宅の商品化について、僕が自分の主張を雑誌に発表したことも一因かもしれない。しかし僕が述べたのは個人的な意見ではなく、現代における商品化住宅の在り方に関する客観的な分析である。ムジネットはその点を考慮に入れて「MUJI+INFILL木の家」のカタログをつくり「無印良品」の基本的スタンスを貫いてもらいたいと思う。


2005年08月12日(金)

9時起床。雨の音で目が覚めた。頭が少し痛い。ゆっくりと朝食をすませ、部屋に戻って昨日の最終講評について考える。
今回は清華大の学生も先生もほとんど参加しない変則的なワークショップだった。東大の学生達はそれなりに学ぶことはあったろうが、相互交流がなかったことは何を置いても残念である。清華大の先生方ももう少し積極的にコミットして欲しかった。中間講評と最終講評だけの参加というのはあまりにも淋しい。これでは会場を借りて自分たちだけのワークショップをやるのと同じである。僕としては与えられた条件で出来るだけのことをやるというスタンスで望んだが、次からは同じ轍は踏まないようにしたい。

11時半にホテルを出てタクシーで空港へ。空港の手前で自然渋滞となり1時間以上かかる。金曜日の昼間で出発便が混んでいるせいだが、これでは2年後のオリンピックが心配である。とはいえもうひとつのターミナル(設計:ノーマン・フォスター)を建設中だという。滑走路から建設中のターミナルが見えた。
チェックインカウンターで東京便の遅れを告げられる。ゆっくり税関を通ってゲート近くで簡単な昼食。1時間遅れて3時半に機内に入るが、管制塔からの許可が出ず、結局2時間遅れで出発。成田に着いたのは9時過ぎ。成田エクスプレスで東京へ。地下鉄を出たところで土砂降りの雨になった。11時帰宅。


2005年08月11日(木)

7時半起床。9時過ぎまでメールチェック。ここ数日の間にペルーからの政府給費留学生と何度かメールで話し合ったが、行動力のある学生なので受け入れることにする。ペルー国籍だが、生まれ育ちは英国で、英国の大学と大学院を出た後EUのあちこちで働き、ペルーに戻って政府給費留学生に応募したらしい。リマのスラムを対象に建築家が果たすべき社会的役割について研究したいという。思わず1970年代初めのアレグザンダーやメタボリズムのリマのプロジェクトを思い出す。

9時半、建築学院行き。何だか蒸し暑く、空気全体が淀んだスモッグ気味の天気である。学生達は徹夜だったのだろうか、椅子に座ったままで眠っている学生もいる。
千葉さんからメールが届き、仕事の都合で最終講評に参加できないという。やむを得ない事情とはいえ、建築家と大学教員を兼業する人間としては、最も避けねばならない状況である。学生達に事情を説明し陳謝する。
一旦ホテルに戻り、原稿スケッチと読書。『知の考古学』と格闘する。相変わらずフーコーの言葉は不透明だが、記号論について論じていることが見えてきた。

1時半、大学行き。大急ぎで会場を片づけ、プレゼンテーションの準備。2時過ぎからスタート。1人発表が5分、クリティークが10分のペース。1人だけのプロジェクトだからプレゼンテーションの物量は少ないが、考え方はそれぞれユニークである。既存のコンテクストに対して、対比的な建築を差し込もうとする案が多い。しかし清華大学の先生にはそのような批評的なコンセプトが良く理解できないようだ。結果、一様に「建築としては面白いが、既存のコンテクストを良く理解していない案がほとんどである」という総評となった。僕にとっては歯の浮くようなベタ褒めに次いで面白くないクリティークである。その裏には「地元の自分たちは既存のコンテクストを良く理解している」という主張が隠されているからだ。これは地域エゴである。外国から来て2週間そこそこで理解できるコンテクストは高が知れている。それを望む方が非常識というものだ。清華大学の学生が参加しなかったので、東大の学生が自分たちの眼を相対化できなかったのは確かだが、僕の見るところ、東大の学生たちはそれぞれコンテクストの核心的な「部分」を把握している。それは「他者」にしか見えない「部分」である。清華大学の先生たちはコンテクストの総合性に囚われて、「部分」を見抜く他者の眼を失っている。しかし建築家ならば、他者が見る「部分」に最も敏感でなければならないはずだ。外国でのワークショップの意義はそこにしかないといってもよい。ともかく今回のワークショップを通じて、強力な歴史的コンテクストと格闘することがどんなことか、東大の学生達はよく分かっただろう。僕としてはその点が去年の同済大学ワークショップ以上の成果だと思う。

5時半終了。6時まで学生は会場の片づけ。僕たちは清華大学の先生と隣室で歓談。来年のワークショップについて話す。6時過ぎタクシーでワークショップの敷地に近い四合院をコンバートしたレストランに向かう。清華大学からは張さんと鄒さんが参加。おいしい東南アジア料理をいただきながらビールとワインで歓談。二次会は近くの雲南人が経営するバーへ。11時を過ぎたあたりで記憶が消えた。


2005年08月10日(水)

10時、工務店と「112神宮前」の打ち合わせ。設備と電気の施工図が届く。鉄骨図は既に届いている。現場溶接に関して簡単な指示。サッシの打ち合わせは午後なので花巻に任せる。

昼食後、地下鉄、京成線を乗り継いで成田空港へ。今日は空港も空いている。早めにチェックインし、待合室で読書。5時半成田発、8時過ぎ北京着。9時過ぎにホテルにチェックイン。部屋に荷物を置いて、直ちに建築学院のワークショップ会場へ。みんな静かに作業している。1階の模型室では数人の学生が模型制作中。中間講評とここ数日のスタディの結果だろう、案はかなり変わっているようだ。10時前、山代さんと教室を出て、近くのレストランでビールと簡単な食事。ここ数日の様子を聞く。11時前にホテルに戻る。


2005年08月09日(火)

午前中、逗子の住宅ビルと鎌倉のグループホームのスケッチ。要求された部屋のヴォリュームを把握し、法的な条件を頭に叩き込んだ上でプランと構造をスタディする。敷地条件はまったく異なるが、両者の規模はほぼ同じである。いつものように複雑な条件を単純なシステムに統合することをめざす。しばらくの間はこうした試行錯誤を続けていこう。

午後、浅草の二天門消防支署の現場へ。2時半から定例会議のオブザーバー。現場での変更が多く会議は紛糾する。小さな空間に沢山の機能が詰め込まれているので取り合いが大変なようだ。4時半過ぎ、ゼネコンと東京消防庁を交えてルーバーについての話し合い。設計の方針は出たが、コストと施工条件が大幅に変わった。早急に対応策を考えないと現場がストップしてしまう。お盆前に代替案を絞り出さねばならない。

夜、再度、設計のスケッチ。中川と「110大橋邸」の実施図面の打ち合わせ。単純明快であるだけに、納まりに気を遣う。何とかスカッとしたキレのいいデザインにまとめたい。

『からごころ:日本精神の逆説』(長谷川三千子:著 中公親書 1986)を読み終わる。今までに読んだことのないタイプの書物である。単純に言うと「右寄り」なのだ。しかし考えさせられる点は多い。
第1章「からごころ」は、小林秀雄の本居宣長論を参照しながら、宣長の「漢意(からごころ)」について論じたものだが、いままでの宣長論とはひと味違って、さらに一歩踏み込んでいるよう思える。著者によれば、漢意とは、中国の漢字を訓読と仮字(かな)に変換することによって漢字本来の音と文化(言霊)を換骨奪胎し、かつその変換自体をも忘却した「無視の構造」であるという。つまりその変換はきわめて不自然な作業であったにもかかわらず、日本人はそれをやり抜き、かつその不自然さを忘却したのである。

「一口に言えば、我々が現在のやうに日本語を読み書きすることが出来るといふことそれ自体が、この「無視の構造」に支へられてゐる。それが及ぼした影響から言っても、またそれの根をなす事柄の深さから言っても、これは単なる「国語表記の諸問題」などといった、少数の専門の人々だけにかかはりのある問題ではない。この「無視の構造」は、まさに小林氏(小林秀雄)の言ふ「私達の文化の基底に存し、文化の性質を根本から規定してゐた」我々の祖先の言語体験の本質である。そして漢意とは、実はこのことに他ならないのである。(中略)漢意は単純な外国崇拝ではない。それを特徴づけるてゐるのは、自分が知らず知らずの内に外国崇拝に陥っているといふ事実に、頑として気付かうとしない、その盲目ぶりである。」

さらに著者は、この「無視の構造」は宣長の言う古意(いにしえごごろ)でもあり、この逆説こそが宣長理解の難しさであり、日本精神の「おぞましさ」なのだという。
第2章「やまとごころと『細雪』」は谷崎潤一郎の『細雪』に関する世の批評家の酷評に対して詳細に反論したものだが、そのなかで「やまとごごろ」に満ちた日本社会の融通無碍さと、日本家屋の空間の同型性について論じている点に興味を持った。八束さんが『思想としての日本近代建築』の中で、村野藤吾と谷崎潤一郎を対照させて論じていたが、そこで引用されていたのはこの部分である。

「まづはじめに「個人」といふものがあり、それがより集まって「社会」といふものを形造ってゐる、といふ考え方からは「世」といふものは解らない。「世」といふ言葉は一国の一代のことを言ひ、人と人とのつながり合って暮らす全体のことを言ふと同時に、ひとりの男とひとりの女の間柄のことでもあり、また人ひとりの生涯のことでもある。人はすでにみなそれぞれに「世」といふ在り方をしてをり、それが集まってやはりまた「世」といふものになってゐるのである。この融通無礙の人の姿を思ひ浮かべるのには、われわれが昔から造り住んできた家の形を思ひおこしてみればよい。これは多くの閉ざされた部屋が集まって構成した家ではない。全体が一つの大きな空間とも言へて、けれどもそこに様々に仕切る障子や襖や屏風は、それぞれ時と場合に応じて、それをどのやうにも切り取ることができる。そしてまた、家と外はあの縁側といふものによって、途切れるでもなく、つながるでもなくして続いてをり、嵐がくればわれわれは忽ち雨戸を閉ざすーーさうした家に住むうちにわれわれの造りもそれに似てきたのだか、それとも人はもともと自らに似たものしか造らないのだか、すでに知ることはできないが、ただ、われわれがさういう形をしてゐると言ふことは忘れてはならないことである。」

あまりに単純で分かり易い論理なので、思わず成る程と頷いてしまいそうだが、しかし半分は正しく、半分は明らかに間違っている。社会組織と空間とが一対一で対応しないことは今や常識である。社会が自分に似せて空間を組織することはあっても、必ずしもそれがうまくいくとは限らないし、さらに出来上がった空間は多様な機能と解釈を許容するからである。


2005年08月08日(月)

9時前、事務所へ。今日も暑い。10時過ぎまでいくつかの雑用。8月のスケジュールをまとめて送信。
11時前、金原さんから電話があり、すぐ近くにいるという。設計契約の締結に来たというので直ちに契約書をプリントアウト。11時過ぎ事務所にて「115金原邸」の設計契約締結。早速、確認申請の書類作成に着手する。
三河安城の住宅は第4案でようやく収斂した。正方形プランに屋外室を取り込んだ新しいタイプの「箱の家」である。お盆明けに模型製作に着手する。
愛知県額田群の住宅は、第1案に部分的な修正を加えて収斂した。これも大量の本棚を組み込んだ新しいタイプの「箱の家」になるだろう。

1時半、大学行き。ステンレス建築の原稿にとり組む。締切をとっくに過ぎていたが、催促がないのですっかり忘れていた。「EXマシン1990」でステンレスを本格的に使ったことがあるので、それに関する原稿を大急ぎで5枚弱にまとめ、必要書類を添えて送信。
3階演習室に顔を出す。お盆前のせいか居残っている学生は少なく、まだ危機感は漂っていない。昨日もらったクッキーを配って労をねぎらう。

夕食後、龍光寺と鎌倉グループホームのスケッチ。まずは全体のヴォリュームを抑える。何とか3階建てで納めたいが、要求されたヴォリュームが大きく、はみだしそうである。SIとダブルスキンのシステムは何とか実現させたい。

郵政民営化法案が参議院で否決されたので、小泉総理は衆議院本会議を召集し解散を宣言した。衆議院選挙は、公示が8月30日(火)、投票は9月11日(日)の見通し。いやはやドタバタの悲喜劇だが、問題の核心が今一よく分からない。衆議院選挙によって政治的な地盤変動が生じたら一体どうなるのだろうか。小泉総理の8月15日前後の行動が見物である。
このニュースを北京の山代さんに送信。何しろ日本のニュースはインターネットでしか見ることができないのだ。


2005年08月07日(日)

9時までゆっくりと寝て疲れをとる。10時半に家を出て久しぶりに大学へ。日曜日だが学生達が来ている。院試の準備である。
1時、後藤一家が来研。1年程前に計画した「103後藤邸」の再開の打ち合わせ。後藤夫妻に改めてプログラムを確認したが、とくに大きな変更はないようだ。来年3月までに実施設計をまとめて工務店を決めればいいので、スケジュール的には余裕がある。細かな条件を確認し、再来週に再度打ち合わせをすることにして2時終了。
2時半、石山修武研究室の秘書・太田厚子さんが来所。事務的な打ち合わせ。3時終了。

その後、原稿スケッチと読書。『近代とは何か』の鈴木博之さんの序文を読む。いくつか気になる文章があった。
「社会が近代化するときには、当然ひとびとの生活が変化する。そして都市のあり方も変化する。それらの器である都市や住宅地がそれを受入れ、その変化を先取りして将来像を示すのは、当たり前のことかもしれない。建築家とは、そうしたヴィジョンを示す存在だった。近代における建築と建築家のすがたは、住宅と住宅地を軸にして動いていったと見えるのである。宗教建築や首都のモニュメントを舞台とする建築から、郊外住宅地に舞台が移ることこそが、近代という時代の変化の本質を教えてくれる。」
「近代とは、都市のなかで誰が何を所有し、支配し、変化させるかという動きの主体が圧倒的に複雑化する過程であった。格子の概念、都市への参加の意識、その結果生ずるデザインのすべては、こうした複雑化の過程を辿るのである。」
八束さんの『思想としての日本近代建築』においても田園都市に関連して、建築としての住宅の成立が論じられていたが、鈴木さんの主張は、さらに広く社会現象を含む視点から近代と住宅の関係を見ようとしている。同時に鈴木さんは近代と前近代の不連続性を、モダニティ、モダニズム、モダナイゼイションという3つの言葉によって明らかにしている。僕も同じようなことを考えていたので、学ぶところ大である。

アマゾンに頼んだ『からごころ:日本精神の逆説』(長谷川三千子:著 中公親書 1986)が届いていた。八束さんの本のなかで引用されていた文章が気になったので取り寄せたのだが、読みはじめたら面白くてやめられなくなった。フーコーは一休みして、しばらくこちらを読んでみることにする。


2005年08月06日(土)

5時起床。5時半にホテルをチェックアウトしタクシーで空港へ6時着。出国前に200元の税金を払うのを知らずに、チェックインカウンターの入口でしばらく足止めを食う。朝が早いのでタックスフリーの店は開いていない。ゲート待合室でしばらく仮眠。東京行きの便は中国人中学生の団体で一杯である。約15分遅れで8時半出発。成田着13時。

京成成田線の特急で上野まで行き、地下鉄銀座線で外苑前へ。3時過ぎ事務所着。いくつかの雑用。龍光寺と上野毛の住宅とコンペの打ち合わせ。岩堀と「二天門消防支署」の打ち合わせ。お盆前に決めねばならない案件が多いので来週火曜日の定例会議に出席することにする。5時半に事務所を出て帰宅。久しぶりに家族3人で食事。ちょっと疲れていたが、赤ワインを飲むと元気になった。

飛行機の中で『知の考古学』(ミシェル・フーコー:著 中村雄二郎:訳 河出書房新社 1971)を読み始める。30年以上前の修士1年の時に購入し挑戦したが、途中で挫折した本である。翻訳はいいとしても、僕にとってはフーコーの言葉は依然として不透明である。言葉が独り歩きし、指示する対象がよく分からないのだ。これを「テクスト」の自律性というのだろうか。指示対象のない抽象的な意味が、おぼろげに脳裏に浮かび上がるばかりだ。

1週間、事務所を開けている間に、いくつかの本が届いていた。シリーズ『都市・建築・歴史』(鈴木博之+石山修武+伊藤毅+山岸常人:編 東京大学出版会 2005)の第7巻『近代とは何か』は満を持して発行されたシリーズである。僕は第9巻『材料・生産の近代』の中に「メタル建築論」を書いた。楽しみにしていたシリーズなので、じっくり読んでみるつもりである。
『X-Knowledge HOME 特別編集』のNo.5『昭和住宅メモリー』が届く。これには「住宅の原体験:建築家が育った家」のインタビューが掲載されている。僕は柳井の町家と池辺の住宅についてインタビューを受け、「箱の家」の起源について話した。南泰裕さんのエッセイは菊竹清訓、原広司、僕の住体験を貫く「近代」というテーマを読み込んでいる。これもじっくり読むべき本である。


2005年08月05日(金)

9時半にワークショップ会場へ。学生達に再度エスキスが必要かどうかを聞いたが、昨日の今日なので大きな発展はないようだ。今夜の中間講評を見てフィードバックすることにし、5時からのスタートを指示して作業に集中する。山代さんと一緒に建築学院を出たところで岸田さんに会う。昨日は万里の長城ツアーに行ったらしい。自分だけで学生のエスキスを見たと言っていたが、一緒にディスカッションしながら見なければ意味がない。どうもワークショップでの学生への対応の仕方をよく分かっていないようだ。

山代さんとタクシーで4環道路を東へ回り、空港高速を北上して「798」へ、1950年代の工場団地をアートギャラリーへコンバージョンした有名な建築である。道路近くは高層住宅に再開発され、奥の方がギャラリー群になっている。まだ操業している工場も残っている。ハイサイドライトを持つRC造の広大な工場を仕切ってギャラリーやレストランにコンバートしている。既存の機械や配管をそのまま残しているのがオブジェのようで面白い。夏休みで休業のギャラリーが多かったが、ともかく興味深いコンバージョンである。RC造であることと空間が巨大であることが、この種のコンバージョンがうまくいく条件のようだ。
工場内の中華レストランで昼食。高い空間を3層に分け真ん中に吹抜をとった立体的な空間である。ビール、中華麺、炒飯で16元(240円)である。

工場前で山代さんと別れタクシーで3環道路を南下して「建外SOHO」(設計:山本理顕)へ。「建外SOHO」は3環道路と建国門外大街の交差点にある。周辺は高層ビルの建設ラッシュで「建外SOHO」も増築中である。「建外SOHO」が周囲の高層ビルと際だって異なるのは正方形プロポーションの構造グリッドを明解に表現していることと、足回りにヒューマンな公共空間をつくり出している点である。外部に表現された構造体は灰白色の左官仕上でサッシとの取り合いは水切りなしのコーキング納めである。中国の施工レベルに会わせたローコストな納まりだろうが、日本では考えられないことである。そのせいか既に各所で左官仕上げが膨れ上がりポーチの鉄骨が錆び始めている。足元回りの公共空間は東雲の集合住宅と似ているが人の集まりはこちらの方がずっと多い。歩いている人たちの年齢や身なりが他の場所とはずっとオシャレな感じがする。しばらく周辺を歩き回る。1ブロック離れた一画にも同じようなビルが建設中だ。オリンピック前には、この地域は完全に生まれ変わるだろう。

4時半にワークショップ会場に戻る。5時から中間講評。千葉さんが戻り、松原弘典さんが参加。清華大学からは助教授と学生数人が参加。まず調査結果の報告を30分間行った後、各人がコンセプトを発表。昨晩のエスキスを様々な形で発展させていたが、現状の観光地化と都市居住との併存をどう発展させるかについて、皆大きく揺れ動いている。僕が主張した高密度コンパクトシティ化がインセンティブになって、全体としてその方向へ進んでいるが、松原さんや清華大の先生達のクリティックは、そういう方向に対しては批判的である。詰まるところワークショップのとらえ方の違いでもある。清華大の先生達は北京の固有性を生かすように主張し、僕は自分たちの問題にひき寄せろと主張しているわけである。ともかく明日は一日敷地をじっくり観察し、コンセプトをリセットすることを提案し8時過ぎ終了。
その後、松原、千葉、岸田、山代さんと中華レストランで会食。北京の建設事情について歓談。10時過ぎ店を出ると、学生達がたむろしている。松原さんの話を聞きたいというので、後は松原さんに任せてホテルに戻る。


2005年08月04日(木)

7時半起床。晴れ。やや涼しい。ここのところ腹の調子が悪い。食べ物のせいかもしれない。
9時半にワークショップ会場へ。学生達は三々五々集まり始める。10時から敷地調査結果の報告。3班に分かれて調べた結果を詳細に説明。第1班は胡同(路地)のネットワークの調査。第2班は街並のシークエンスの調査。第3班は四合院内部の調査を行う。大きなスケールから小さなスケールへと調べたことになる。この情報を全員が共有し、各個人でリノベーションのコンセプトを考える。夜7時半からエスキスを行うこととし、正午過ぎ解散。

皆で自転車に乗り学生食堂へ。初めて自転車に乗りキャンパスを縦断したが、やたらとでかいのに驚いた。約15分でようやく学生食堂に着く。オープンキャンパスで学内はごった返している。巨大な食堂でセルフサービス。たらふく食べて6元(約80円)。驚くべき安さだ。

その後、山代さんとタクシーで什刹海地区へ。途中で山代さんと別れ、再度ワークショップの敷地を約1時間歩き回る。昼過ぎになると蒸し暑くなってきた。池に面したファサードは完全に安物の看板建築だし、胡同に面したファサードも比較的新しいモルタルかタイル仕上げである。残っているのは胡同の輪郭だけだといってよい。ツーリストは胡同の中世的なスケール感に惹かれるのだろう。

4時過ぎ、急に雷雨の土砂降りになった。急いでタクシーに乗り清華大学に戻る。6時半過ぎ、学生達と夕食。腹の具合が悪いのでうどんを食べる。
8時前からエスキス開始。10人の学生のコンセプトについてコメントとディスカッション。まだ生な状態だが多様なアイデアが出てきた。皆頭を絞っているらしい。明日一日かけてコンセプトをまとめ、夕方5時から中間講評である。

昨夜『思想としての日本近代建築』(八束はじめ:著 岩波書店 2005)を読み終わる。500ページを越える大著で内容も充実している。日本の近代建築を広大な歴史的・文化的コンテクストの中に位置づけた力作といってよい。明治時代に「日本史」が「日本」を生み出し、「建築史」が「建築」を生み出した経緯はスリリングである。今となってはこの倒錯が意識されることはない。エピローグは「国民建築家」としての丹下健三で終わっている。錯綜した議論だったが、最後あたりになって輪郭が明確になった。しばらく時間をおいて再読し、頭を整理してみよう。


2005年08月03日(水)

7時半起床。昨日とは打って変わって雨である。気温も低い。やや2日酔い気味だが頑張って朝食をとり、メールチェックした後ワークショップ会場へ。学生達は皆集まっている。昨日の議論を継続しながら什刹海地区のリノベーションに関するワークショップの基本的なスタンスを確認する。現状を綿密に調査することは重要だが、そこから自動的にプログラムは出てこないこと。つまり現状の趨勢をそのまま外挿しても仕方がないこと。しかし北京の人口が今後急激に増加することは明らかであり、その趨勢を否定することはできないので、それを認めた上で什刹海地区の再開発に取り組むこと。ともかく現状に対する明確な批評性を持った計画を提示することが肝要であることなどをアドバイスし、僕としては観光と高密度居住を融合したコンパクトシティのプロトタイプを期待する旨を話す。
今日は一日かけて調査の計測と結果のまとめを行い、明朝、調査結果をプレゼンテーションし、その後調査結果についてディスカッションした上で、明後日の中間講評までに再開発計画のコンセプトをまとめることになった。

山代さんが回復したので会場の監督を任せ、僕は一旦ホテルに戻る。メールチェックし返信。
「二天門消防支署」の問題は何とか解決したらしい。「112神宮前」は地業工事が始まったようだ。横浜山手の住宅は基本方針が固まったので設計契約を締結することになった。「箱の家115」となる「金原邸」は「106結城邸」に似ているが、敷地条件を生かしたコンパクトな「箱の家」である。

昨日、譚先生にもらった『アジアの大都市5:北京・上海』の第9章「北京の都市計画」を読む。著者は譚先生自身で、昨日のレクチャーがそのまままとめられている。北京の起源がそもそも外敵から守る城塞都市であったことと、中庭を囲み街路に対して閉じた四合院のプランはおそらく無関係ではあるまい。ならば現代に四合院プランをそのまま再生させるのはノスタルジア以外の何者でもない。もちろんそれが都市の記憶として残り、観光地化することは否定できない。したがってその条件と現代の生活をどう結びつけるかが最大の課題である。

7時半から建築学院住宅計画研究所所長の張杰(Zhang Jie)教授のレクチャー。北京の戦後のハウジング計画を概観し1990年の社会主義市場経済化以降のプロジェクトを紹介してくれた。レクチャー終了後、北京中心地区の都市計画について議論。什刹海保存地域に関する意見を聞いたところ、張教授は1階建てのままの歴史的保存についてはきわめて批判的な考えを持っているので驚いた。日本で聴講した邵磊(SHAO LEI)助教授とは対照的な考え方である。少なくとも今回のワークショップに対しては強力なアドバイスをもらった感じだ。9時終了。学生達は明日の調査結果報告のために教室に残る。9時半にホテルに戻る。


2005年08月02日(火)

7時半起床。快晴である。山代さんは相変わらず調子が悪いらしい。9時、建築学院のワークショップ会場へ。学生達も集まりが悪い。昨日だけでは調査が終わらなかったので、今日も再度敷地に向かうという。午後2時からレクチャーがあるので、それまでに帰ることを確認して解散。

僕はしばらく原稿をスケッチした後、11時過ぎタクシーで天安門へ向かう。夏休みのせいか、広場は人でごった返している。紫禁城の入口では観光客が記念写真を撮り合っている。中へ入り、故宮博物館に向かうが、人が多すぎでとても入る気になれない。やむなく西門から城を出て城壁の外周を歩いて回る。半周歩いたところでダウン。一休みし西の道を北へ向かう。途中、小さな食堂でビールと焼きそばの昼食。タクシーでホテルに戻る。部屋に荷物を置き出たところで山代さんに合う。依然として顔色が悪いので休むように指示。

2時からワークショップ会場で建築学院城市規刹系(都市計画)の譚(Tan)助教授のレクチャー。北京の都市史と都市計画史を要領よくまとめた分かりやすいレクチャー。北京は中国の他の大都市と違って、大きな河に接していないこと、しかも上海のように周囲に多くの小都市を控え、集中する人口を分散することもできないことが特徴だという。つまり北京は一極集中的な都市なので、今後予想される人口集中にどう対処するかが最大の問題なのだという。ワークショップの対象敷地で、高密度なコンパクトシティのプロトタイプをめざすことの一つの根拠を見出したような気がする。その点についてしばらく議論したが、学生達は現況の観光地化に引きずられて戸惑っている。何とか再開発の方針を明確にする必要がある。

6時半、ホテルのロビーに集合。山代さんも加わり、近くの中国料理店で夕食。熱中症でダウンした学生も出てきたので、中休みが必要かも知れない。二次会に少し顔を出し、10時半にホテルに戻る。


2005年08月01日(月)

ワークショップ2日目である。朝7時に山代さんから電話。昨夜はひどい嘔吐と下痢に襲われたという。千葉さんも同じ症状だったが、何とか朝一番にホテルを発ったらしい。僕も同じものを食べたが、ちょっと腹が痛くなった程度で大事には至らなかった。朝食で岸田さんに会ったがとくに何もなかったという。何がこの違いをもたらしたのか不可思議である。ともかく部屋で休むように指示し、午前中は岸田さんと僕で対応すると伝える。

9時前にロビーで旭さんと待ち合わせ、岸田さんと2人でキャンパス内の清華大学設計院へ。設計院は大学付属の設計事務所でオフィスは建築学院の裏にあり、中央に吹抜のある巨大なグリーン・ビルディングである。院長の庄惟敏(Zuang Weimin)教授と副院長の候建群(Hou Jianqun)教授を表敬訪問。清華大学と設計院の関係、最近の仕事、東大との今後の関係などについて話し合う。清華大学設計院は大学の研究と実務設計を結びつけることが主たる役割で、最近のメインテーマはサステイナブル・デザインだという。中国も世界の動向に敏感なのだ。庄教授は千葉大学の服部岑生研究室の卒業生で建築家、候教授は構造エンジニアである。昨日会った建築学科長の朱文一(Zhu Wenyi)教授ともども清華大学のトップは皆40代の若さである。去年ワークショップに行った上海の同済大学も同じだった。このあたりにも1960年代末の文化革命の影響が色濃く残っている。文化革命は中国社会を完全にリセットした。中国が急激なグローバリズムに向かっているのは、文化革命による急激な世代交代に起因するのかも知れない。この歴史的問題は一考する価値がある。

10時過ぎに建築学院のワークショップ会場に戻る。学生達はテーマについてスケッチ中。現地調査のテーマを3つに分け、担当のチーム分けを行ったらしい。まずワークショップの課題である什刹海地区再開発計画の基本的方針について話し合う。設計院長の庄教授の話では、将来この地区は歴史保存地区として観光産業化し、人口も現在より少なくする方針だという。しかしその方針をそのまま踏襲したのではワークショップの課題にならない。ワークショップでは北京全体の都市像を踏まえながらカウンター・プロポーザルを行うことを提案。要するに四合院の建築的伝統を踏まえつつ、北京にふさわしい高密度な都心居住のあり方を提案するということである。現状では建物に関する厳しい法的制約があるが、基本的にその規制も外して考えることにする。11時過ぎチーム毎に分かれて調査に出発する。

僕はワークショップ会場に1人残り原稿のスケッチと読書。途中、教師用休憩室で簡単な昼食とコーヒー。ワークショップの会場は20坪程の正方形の部屋で暗転ができる会議室である。ソファが備わっているのでゆっくりと休みながら読書ができる。
『思想としての日本近代建築』は第3部の半ばまで来た。第3部では1930年代以降のモダニズムとファシズムとの関係について論じている。これまであまり取りあげられることのなかった満州における建築と都市計画にも焦点を当て、戦後モダニズムを担った建築家・都市計画家たちの戦時の活動を紹介している。前川國男、坂倉順三、高山英華らの満州での仕事は、戦後との関係で複雑な意味を持っている。戦時体制のなかでは西山卯三の活動も揺れている。

3時半過ぎ、博士課程の鄒暁霞(Zou Xiao Xia)さんが帰ってきたので山代さんに電話。相変わらず調子が悪いらしい。鄒さんに頼んで胃薬をホテルに届けてもらう。4時前、学生達が戻ってくる。調査結果をまとめるために皆、寮に戻るという。明日の9時に報告会を行うことを約して解散。5時半過ぎホテルに戻る。
7時前、山代さんが戻ってきた。鄒さんに連れられて病院に行ってきたという。案の定、食中毒だった。一晩休むようにいって、1人で夕食に出かける。近くのレストランで岸田さんを見かけたので一緒に食事。東大の設計製図のカリキュラムについてディスカッション。10時前に部屋に戻る。


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