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箱の家 PROJECT 青本往来記
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コンパクト箱の家

2002年11月30日(土)

7時半起床。8時半に事務所に出る。丹羽さんから先日送った「83丹羽邸」の第2案に対するコメントが届く。早速、回答をまとめて返信。質問がほとんど詳細に関わるものばかりなので、基本計画は承認されたと考え、設計契約書の案文を作成して添付する。そろそろアルミ構造の検討を構造コンサルタントに依頼したいのだが、それには何らかの保証が必要だからである。

午前10時、MUJI-netの西川氏一行が来所。NCNの田鎖氏も一緒だった。良品計画の会議で来年2月からMUJI-HOUSEをネット公開する予定が決まったので、コンセプトの確認をしたいという。コスト、構造、仕上げ、設備の最小限の条件について話し合い、プロトタイプ第2案を12月一杯にまとめることを約する。第1案より面積を押さえた最小限住居をめざす。コンセプト策定と基本計画について、ようやく業務委託契約を締結できる段階になった。いよいよ「箱の家」の商品化に向けて第1歩を踏み出すわけだ。完全な工業化は難しいだろうが、ともかくシステムを徹底的に単純化しローコストを狙う。

午後一杯は、なおび幼稚園の見積図面のコピーに潰される。『近代建築』誌の「サステイナブル・デザインとコンバージョン」の原稿スケッチ。「86神宮前計画」のスケッチ。どうもSOHOの確保は難しいようだ。

6時に事務所を掃除して仕事を終える。今日は山内が芦澤邸の現場に行ったので、その写真を見る。外壁に断熱パネルを張り終え、アルミサッシが取り付けられた段階である。3階の書斎からは壮大な相模湾が眺められる。年内には外壁を張り終えたいところだ。

7時前に娘が出ていった。7時、妻と鍋で夕食。『ニーチェ』を読み続ける。ニーチェのフルネームはフリ−ドリッヒ・ウィルヘルム・ニーチェである。少年時代はフリ−ドリッヒを縮めてフリッツと呼ばれていた。彼が通ったギムナジウム「プフォルタ学院」は地域の秀才が集まる英才学校だった。高校生になったニーチェは少しずつ天才ぶりを見せ始める。ワグナーの音楽に出会って震撼し、ヘルダーリンの詩に魂を揺さぶられている。当時まだ若かったワグナーは音楽家としては認められていなかったし、ヘルダーリンは既にこの世を去っていたが、奇異な詩人と見なされていた。ニーチェはそうした二人に共振したのだといってよい。ニーチェはまたゲルマンの神話にも魅せられる。しかし彼はそうした感情の高まりを決して外に表すことなく、依然としてエネルギーを蓄積し続けている。


2002年11月29日(金)

8時起床。9時までメールチェックと返信。堺市に住むエンジニア(40代、新日鉄勤務)から、自宅の設計を依頼したいというメールが届いた。4人家族で、敷地は大阪市大に近い堺市の三国ケ丘である。「エネルギー制御装置としての箱の家」が気に入っているという。さすがにエンジニアらしい発想だ。僕が大阪市大で教えていることを当然知った上での依頼である。一度、顔合わせをしたいと考え、12月4日(水)の課題講評後、研究室に来てもらうことになった。

9時半に事務所を出て東京消防庁へ。担当者から二天門消防支署の予算を増やすことを都へ正式に申請することになり、現在、関係官庁と交渉中だという報告を受けた。最終決定ではないが、役所のやることだから、ほぼ決定した段階でないと、こうした情報は公表しないだろう。とはいえ、万が一ということもあるので、その場合のことも考えておいてほしいと釘を刺された。ともかく一歩実現に近づいたということである。来週、コンサルタントを交え、プロジェクトの再スタートの打ち合わせを行うことになった。

いったん事務所に戻り昼食をとった後、永田町の全共連ビルの「甍賞第1回審査委員会」に行く。仙田満、出江寛以外に20名程度の瓦産業の関係者が出席していた。さらに国土交通省と経済産業省の役人、日経アーキテクチャー編集部もいた。まず、審査委員長に仙田満氏を選出した後、審査委員の挨拶から始まる。仙田氏は瓦と地域性の関係に注目したいと述べ、出江氏は長年の瓦に対する想いを披歴した。僕は今までにない瓦の可能性を追求した作品に注目したいと述べた。そうでなければ僕が参加する意味はないと考えたからだ。さらに、今後は屋根だけでなくランドスケープヘの展開の可能性が大きいこと、新築だけでなく増改築においてこそ伝統的な瓦は生きてくる可能性があるという点も強調した。去年の当選作品集を見ると、関西の作品が圧倒的に多い。瓦に関するかぎり、西高東低の傾向があるようだ。

4時終了。4時半に事務所に戻る。「85三原邸」の第1案に関するコメントのメールが三原さんから届いていた。やはり予算が問題だという。予算を抑えた第2案を検討してみる旨の返信メールを送る。花巻がアルバイトに来ていたので、三原邸のメールをコピーして渡す。もし設計契約が成立すれば、彼女の最初の担当にする予定である。しかし面積を縮小しながら、追加の注文を取り入れるのはかなり難しい。駄目元でトライアルするしかないだろう。

大阪市大から「オープン・ラボラトリー」実施の要請が届く。開催日は来年の5月30日(金)。その頃までには、ある程度コンバージョン・ケーススタディがまとまっているだろうから、それを発表することにしよう。2月20日(木)には大阪府建築士会のコンバージョン講演会・展覧会があるので、少しずつ発展させていけばいいだろう。

「85神宮前計画」のスケッチ。住戸のプランが気に入らない。40平米という面積は広いようで狭い。ソーホーを取り込むことは難しそうだ。明日、もう一度試みることにして10時終了。

帰宅してしばらく『ニーチェ』を読む。ニーチェの少年時代は突出した秀才だったらしい。父は地方の高名な牧師である。ドイツの知識人の多くは牧師を父に持っている。ハイデガーもそうだ。明確な規則によって育てられた人間が、それに対抗して新しいものを生み出すという近代的な構造が読み取れる。ニーチェの少年時代は、後年の爆発を生み出す潜在的な抑圧、対抗すべき伝統文化を内面化している段階である。


2002年11月28日(木)

7時半起床。昨夜から西尾幹二の『ニーチェ』を読み始める。ニーチェが死んだのは1900年だが、本書はニーチェ死後から第2次大戦までのニーチェ受容の変遷を辿ることから書き起こされている。日本でも早いうちからニーチェ論が書かれているらしい。代表的なのは和辻哲郎や阿部次郎である。ヨーロッパと日本のニーチェ受容がほとんど並行しているというのは興味深い。日本の近代化が、文化的な側面でも急速に進んでいた一例だろう。本書が、日本人が書いた本格的なニーチェ論であることはまちがいない。しばらく付き合ってみよう。

9時過ぎに我孫子着。昨日も今日も自転車で大学に行く途中で寺山に会った。僕が乗る電車は決まっているので、寺山もその時刻に合わせているのだろうか。

10時50分から建築デザイン特論。今回はミースとカーンである。『テクトニック・カルチャー』のもっとも中心的な2章だといってよい。しかし担当した学生は、本文の文章を断片的に引用し読み上げるだけで、自分なりの解釈をまったく示そうとしない。これではとても大学院のレクチャーとはいえない。ほとんど受験勉強と同じである。彼らはミースとカーンに関するフランプトンの特異な解釈を、ほとんど理解していないように見える。ミースとカーンに関してさえ、この程度の理解では、他の建築については推して知るべしである。残念ながら、大阪市大の建築学科のレベルは、かなり重症だといわざるをえない。

昨日「78鈴木邸」の工期に関して、クライアントの鈴木さんからクレームがついた。群馬では1,2月は気温がきわめて低くコンクリート工事が難しいので、着工は3月に延期せざるをえない。実施設計が遅れた上に工期も遅れ、竣工は半年遅れになってしまう。こうなったのは僕たちの見通しの甘さのせいだが、起きたことはしょうがない。結果に関して陳謝し、契約前に基礎工事だけを発注することを提案したが、鈴木さんは3月着工で認めてくれた。早速、お礼のファックスを送るように龍光寺に指示する。

昨日、寺山が「83丹羽邸」第2案を送付したので、その報告メールを送る。それにしても、ちょっと検討の期間が空きすぎた。基本計画段階で対応が遅れると、問題が振り出しに戻ってしまう。案を前に進めるには、クライアントの思考を集中させなければならない。そのためには、できるだけ迅速なレスポンスを心がけることが肝要である。杉村から「77桑山邸」第2案が届いたが、これも間が空きすぎてしまった。大急ぎでコメントをまとめ手送付しなければならない。

金沢の馬場弘勝君からメールが届く。「74並木邸(富山)」の工事を担当する山手さんが「36三皷邸(富山)」を施工した坂本工務店に、技術的な問い合わせに行ったらしい。山手さんが事情を詳しく説明しなかったために、坂本さんが心配しているという連絡である。問題のないことを伝える?宮本佳明氏から電話で、大阪芸大の設計課題の講評に来てほしいという。彼には大阪市大の非常勤を頼んでいるから、やむを得ないかと思ったが、頼まれた12月14日(土)は糸川邸の上棟式の予定である。ほぼ決定済みのスケジュールなので、事情を話して辞退する。

3時から北梅田コンペの打ちあわせ。しかし依然として単調なアイデアの集積である。唯一面白いと思ったのは、エネルギーをテーマにした川崎剛明のアイデアである。これをさらに展開させて、北梅田に小さな都市をつくることを考え、これまでとは異なるサステイナブルなエネルギーの入出システムを、総合的に検討してみるのというのはどうだろうか。北梅田をケーススタディとすれば、これが修論のテーマにもなりうる。エネルギー・システムの提案が、具体的な空間にどう結びつくか分からないが、都市再生に関するユニークな提案になることは確実だろう。

5時からの安井事務所とワークショップ。彼らは1000分の1の模型を持ってきてくれた。彼らの提案は、依然として近代的な都市計画の方法を踏襲した、かつての丹下健三の東京計画1960のような壮大な案である。とても共有することは難しい案だが、かといって僕たちに代案があるわけではない。消極的だが、僕たちが提案する都市は、少なくとも以下の条件を満足していなければならないだろう。1)一挙に建設される都市ではなく、徐々に形成される都市。2)単一の原理で統合された都市ではなく、多様な機能と空間が複合し絡み合ったセミラチスな都市。3)しかしながら、自然発生的でカオティックな都市ではなく、何らかの全体像を持った都市。こうした問題について議論をするうちに、僕の中に一つのイメージが浮かび上がってきた。まず、残す必要のある西側の線路、先に売却される敷地の範囲、既存の周辺道路といった条件を、可能なかぎり抽出し、それによって敷地をいくつかのテリトリーに分割する。この作業はできるだけ客観的に行う必要がある。スケールも正確に把握しなければならない。でないと出発点が共有できないからだ。次に、それぞれのテリトリーを別々の人間が異なるアイデアでまとめ、それを並列させる。そしてテリトリー相互をつなぐジョイント空間を、また別の人が別のアイデアでまとめる。こうしてでき上がった都市空間は、一見カオティックに見えながら、部分的には計画性があり、徐々に建設が可能で、多様な重なりを持ったものになるのではないだろうか。この方向でシミュレーションを試みてみよう。

7時半になったので後を任せて、大学を出て新大阪へ向かう。8時53分ののぞみに乗り、11時半東京着。12時帰宅。風呂に入り、『ニーチェ』を読みながら1時就寝。


2002年11月27日(水)

7時半起床。昨晩、少し飲みすぎたようで頭が痛い。ウイスキーを飲みながら『チョムスキー』を読んでいたら止まらなくなり、読み終わったときには午前1時を過ぎていた。2001年9月11日以降のチョムスキーの講演を集めた本書は、通常では僕たちの知らないデータで溢れている。チョムスキーによるテロの定義が興味深い。それは、自国(西側諸国)の軍が行う殺戮はテロではなく、他国(イスラムや第3世界)の軍が行う殺戮がテロであるというものだ。第2次世界大戦後にアメリカを中心とする西側諸国がしかけた数多くの戦争(たとえばアメリカによるベトナム戦争、ソヴィエトによるアフガン戦争、最近では米英がNATO軍と称して行ったコソボ空爆など)は、ほとんどテロと同じ行為だったが、それは一度もテロとは呼ばれたことがない。テロとは西側諸国に対する、それ以外の国からの攻撃を言うのである。つまりテロの定義に、アメリカ政府の歴史的欺瞞が読み取れるというわけだ。こうした言葉のトリックが西側諸国の殺戮を正当化している。そのような欺瞞的な定義を取り払い、事実を冷静に見つめることが必要である。そうでなければ現在の状況は打破できないというのがチョムスキーの主張である。このような意見があるということ自体が、僕にとっては一つの驚きである。この本を読んで、僕たちがいかにジャーナリズムの情報に洗脳されているかを、あらためて自覚した。すべての情報を批判的に検討しなければならない。チョムスキーはそう警告しているように見える。

9時半大学着。10時50分から建築デザイン1レクチャー。18世紀末の啓蒙主義建築から第2次大戦直前のモダニズム運動までの歴史をスライドで概観する。技術、機能、表現の3層のズレが隠されたテーマだが、2回生に理解ができただろうか。次回はアメリカにおけるモダニズムの展開について話そう。

杉山氏と昼食。来年の4回生の最初の設計課題(コンバージョン)を環境都市と共同でやってくれないかという相談を受ける。もちろん引き受けることに異論はないが、環境都市の学生が建築学科のペースについてくることができるかどうかが問題だろう。チーム設計だから役割分担を明確にすればいいかもしれない。

午後、3回生の設計課題4の課題説明。課題は去年と同じ『エコロジー住宅』。和歌山大の本多友常さんに非常勤をお願いし、環境コースの西岡教授と梅宮講師にも参加してもらう。ビデオ『理想のエコロジー住宅』を見せた後、本多氏に少し話をしてもらう。3回生最後の設計課題なので、気合いを入れて取り組むようにハッパをかけ、3時半終了。来週には早くもコンセプト・プレゼンテーションを行う。

正午に4回生の卒論を受け取る。3人とも頑張ってまとめているが、まだ修正の余地は多い。池田知余子の論文は結論部分のコンバージョン・ケーススタディが抜けていて尻切れトンボだ。條昌子の論文は概ねまとまっているが、タイトルや目次の日本語を修正しなければならない。山口陽登の論文は、テーマも研究方法も突っ込まれやすい性質があるので、論理構成をさらに明確にしなければならないだろう。とはいえこれからの課題は、この研究を卒業設計にどう生かすかである。建築デザイン研である以上、研究をまとめるのが目的ではなく、その結果を具体的な提案に結びつけることが最終的な目標である。卒業設計は卒業論文の「検証」なのだ。

5時からゼミ会議。コンバージョン・ケーススタディの対象ビルの探索が難航している。あちこちに手を回して何とか探しださねばならない。北梅田コンペのスケッチ。これも低空飛行である。明晩、安井事務所との第2回目のワークショップがある。それまでに各人がスケッチをまとめるように指示する。その後、卒論の1次提出を祝して鍋で会食。寒い季節は鍋に限る。川崎に日本酒を頼んだら瓶のデザインを見間違えて焼酎を買ってきた。たしかにラベルはいかにも日本酒のように見える。焼酎メーカーのデザイン戦略にまんまと引っ掛かったのだろうか。鍋をつつきながら「方法論」というジャンルの怪しさについて話す。ニーチェは確かこう言っていた。「方法は最後に来る」。10時半終了。


2002年11月26日(火)

7時半起床。昨夜の僕は相当寝ぐせが悪かったらしい。シーツと布団がバラバラになっていた。かなり疲れていたのだろう。妻が朝4時まで眠れず、睡眠薬を飲んだので、朝起きてこなかった。

8時半に事務所に出てから銀行に行き、コンサルタント料などの経費を振り込む。その後、午前中は「86神宮前計画」のスケッチに集中したが、なかなか収斂しない。法的な条件をもう一度詳細に調べる必要がある。北側斜線制限と高さ制限によって3階のプランが大きく変わる可能性があるり。調査を河内に依頼する。つづいて「67大塚邸」のスケッチ。3m幅のストライプ3列の案に収斂してきた。中央の列が2層吹き抜けで共有空間。西側の列が車のゾーン。東の列が水周りのゾーンという明快な構成である。2階も中央の吹き抜けを挟んで、親と子のゾーンに分ける。うまくいけば新しいタイプの「箱の家に」なるかも知れない。しかし延べ面積を計算すると40坪を越えていた。工事費が問題になりそうだ。

久しぶりに天気がいいので、昼食はスタッフと一緒に原宿に出掛けて魚定食を食べる。午後、再び「86神宮前計画」のスケッチに集中。あれこれ試行錯誤し、夕方までにおおよその輪郭が見えてきた。住戸の面積を40平米程度にして、ソーホーつきのスタジオ住戸でまとめてみよう。最上階もスタジオ住戸を試みよう。もう少しスタディしてから構造の相談をすることにする。

東京消防庁から工事予算が増額になりそうだという知らせが届く。29日(金)の午前中に打ち合わせをすることになった。28日中に大阪から帰京しなければならない。安井事務所との北梅田コンペワークショップに参加できるかどうか怪しくなった。

夕方6時前に佐々木構造計画の多田君が来所。「84関口邸」の構造の打ちあわせ。それほどアクロバットをしなくても可能な構造を提案してくれた。しかし地盤が悪いので杭を打たなければならない。工事予算の問題は残るが?とか実現したい案だ。

6時半過ぎに事務所を出て東京駅へ。予定の新幹線に乗れないことが分かったので、予約を変更した後、八重洲ブックセンターへ立ち寄る。車内で読むつもりで、昨日から読みはじめた『住宅はいかに可能か』を持ってきたのだが、今一気分が乗らない。建築書としては久しぶりなので期待していたのだが、著者が若くて肩に力が入っているせいか、あるいは原広司の悪影響か知らないが、やたらと漢字が多くて読みにくい。大したことを言っているわけでもないのに、文章だけは大袈裟なのだ。こんな本に二日間も付き合わされてはたまらない。何か他に読むものはないかと探すうちに、目にとまったのが次の3冊である。早速購入する。1)『ノーム・チョムスキー』(ノーム・チョムスキー:著(株)リトルモア2002¥1,000)2)『ニーチェ』1、2(西尾幹二:著ちくま学芸文庫2001各¥1,500)1)は一昨日読み終わったチョムスキー・インタビューの続きのような本で、今年ニューヨーク州ブロンクスで開催された講演の記録である。2)は気になっているニーチェについて、日本人が書いた本格的な評伝である。著者は右翼寄りの保守派で有名な人だが、そのこととニーチェへの興味とがどうつながっているのも興味あるところだ。1970年代末の出版で、僕が建築学科に進学した当時はかなり有名な本だったことを、かすかに憶えている。最近はニーチェの解説本がやたらと多く出ているが、じっくり付き合ってみるに値する本は少ないように思う。やはり読むのであれば、本格的なものに限る。

10時半に新大阪着。11時にアパートに着き、しばらく建築デザイン1のレクチャー・スケッチ。明日は19世紀末から第2次大戦前までのモダニズム最盛期の建築史を概観する。


2002年11月25日(月)

7時半起床。小雨で寒い日だ。8時半に事務所に出て、メーター類を調べてから銀行に行き、給与その他を振り込む。11時に龍光寺と事務所を出て、地下鉄千代田線で北千住へ行き、東武伊勢崎線の特急りょうもう号に乗り換え、終点の赤城着午後2時前。鈴木さんの車で矢内木材へ。社長の矢内勝巳氏はまだ若いひとだが、京都の専門学校で大工の修業をしたという。卒業製作として描いた薬師寺東塔の軒詳細図と方広寺の断面図が壁に貼ってあった。「78鈴木邸」の見積用図面一式を渡し、概略を説明した後、矢内氏の仕事場を見せてもらう。製材と大工の作業場が一緒になっており、設計、素材、加工が一カ所でできる仕組みである。矢内氏は集成材が苦手だというが「箱の家」に興味があるのでやってみたいという。いずれにせよ見積結果次第である。

3時過ぎに終了。3時半赤城発のりょうもうで帰京。事務所着6時。なおび幼稚園の神保理事長から電話で、見積依頼をするゼネコン3社を決定したことを知らされる。僕の同級生の山内君が勤める大成建設は、今回のようなプロジェクトには巨大すぎるという理由で外された。

7時過ぎ、スタッフの皆と弁当で夕食。8時に田口電気設備の田口徹氏来所。なおび幼稚園の電気設備の最終打ちあわせ。9時に終了。

昨日、冨永邸ヘの往復と夕方までの時間で『チョムスキー世界を語る』を読み終えた。とくに大きな発見はなかったが、全体主義国家においてよりも民主主義国家における方が、プロパガンダ技術は巧妙になるという知見には、なるほどと思った。チョムスキーが抉り出そうとするのは、大資本と政治との表面に出てこない情報操作である。ほとんどが米国における例だが、歴代の大統領の悪行を列挙するさまは壮観である。日本でいえば、最近の拉致家族と北朝鮮に関する報道には、何となく胡散臭いものがあるし、高円宮の急死に関する報道には不自然な偏りが感じられる。何時でもそうだが、ある情報に焦点が当てられるときは、必ず他の情報が隠ぺいされていることを忘れてはならないということだ。最近のテレビ番組が、不自然なほど馬鹿馬鹿しいのも、何か理由があるに違いない。すべてに疑心暗鬼になるのもどうかと思うが、それに対するカウンターバランスがチョムスキーの次の言葉である。「ひとが述べることがらは、それが現実と対応している場合に、真なのです。真実を述べる際に、その述べ方をあれこれと練って、洗練された、巧い言い回しにするのは容易ではありませんが、それはまた別の問題です。正確な説明に接するとき、ひとは真実に接するのです。」まさにウィトゲンシュタインが『論理哲学論考』において追究したテーマである。


2002年11月24日(日)

7時半起床。8時半に事務所を出て、地下鉄半蔵門線、南北線、埼玉高速鉄道を乗り継ぎ、戸塚安行駅へ。冨永邸着9時50分。お茶を飲む間もなく審査員一行が到着する。ほとんど知り合いの建築家ばかりだが、何だか不思議な雰囲気なのは、審査する側とされる側の立場の違いから来るものだろう。皆、神妙な顔をしている。審査委員長は東工大の坂本一成だが、いつも通りのポーカーフェイスで話しかけにくい。岡部憲明(R.ピアノ事務所で関西国際空港の設計者、神戸芸工大教授)、元倉真琴(槙事務所の代官山集合住宅の担当者、東北工大教授)、飯田善彦(谷口吉生事務所出身の建築家)の三人は顔見知りなので、いろいろ質問してくれた。三宅理一(建築史家、慶応大学教授)は終始ニコニコしていた。その他の審査員は、名前は知っているが初対面の人たちで、和田章(構造家、東工大教授)、服部紀和(竹中工務店常務取締役)、瀧川公策(坂倉研究所東京事務所長)、石野久弥(設備研究者、東京都立大教授)という錚々たるメンバーである。小嶋一浩(東京理科大・シーラカンス)はスケジュールが合わず、別の日に審査するとのこと。僕としては「22冨永邸」だけで応募したつもりはなく、「箱の家シリーズ」のうちの1軒として見てもらいたいこと、したがってシリーズ全体を審査の対象としてほしいと説明した。建築学会の規定によれば「学会賞は一連の作品は審査の対象としない」という原則になっているが、「箱の家シリーズ」は共通のコンセプトによって設計したものなので、一つの作品と見なすことができるというのが僕の主張の根拠である。何人かの審査員は怪訝な顔をしていたが、おそらくそこが判断の分かれ目だが、それは審査員が判断することだ。約1時間で現地審査は終了。本当に疲れた。しばらく冨永夫人と話してから、12時前にお暇する。戸塚安行駅まで歩いて帰る途中で、娘から「仏検を合格した」という知らせが入った。僕も合格ならいいのだが、ともかく後は「まな板に載った鯉」だ。なるようになるしかない。1時に事務所に戻ると、龍光寺が来て仕事をしていた。明日の「78鈴木邸」の追い込みだ。2時前には平山も来た。ミライド・パシフィック・マネジメントのPR誌『L&PFILE』の原稿「コンバージョンによる都市再生」を書く。家族3人で食事をしたかったが、娘は友達と約束があるという。しょうがないので、妻と二人で寿司を食べに行く。久しぶりにゆっくりと話し合った。


2002年11月23日(土)

8時半起床。今日は祝日なので、事務所は休みである。9時半に事務所に出て「新建築」2003年1月号のアンケートの回答をまとめる。「環境とデザインの関係」について問うたアンケートだが、地球環境やエネルギー問題に焦点を絞ろうとする視点を、批評的にとらえることが回答のポイントである。どんな場合でもそうだが、特定の問題に注目することは、それ以外の問題の隠ぺいをともなっている。しかし建築は総合的な存在である。だから僕は建築の問題をつねに「建築の4層構造」を通じて総合的なコンテクストでとらえるように心がけている。とはいえ建築家にとって、操作可能な範囲は限られている。その意味で、技術的な可能性に注目するのはやむを得ない。ヴィジュアルな回答を求めているが、これにはコンバージョンのケーススタディで答えるのがいいだろう。

昨夜、リュック・フェリーの『ホモ・エステティック』を読み終わった。今朝、全体をもう一度ざっと読み通してみた。決定的な文章を引用しながら、概略を紹介してみよう。まず本書が書かれた目的とは、この著作の目的は、民主主義的個人主義の歴史あるいは近代的主体の歴史における重要な概念的契機を辿り直すことにある。フェリーは近代の問題を個人主義の進行としてとらえている。そしてこのテーマを明らかにするのに最も有効な方法は「美学=感性」(つまり建築の第4層)の歴史を辿ることであるという。美学は近代とともに(18世紀に)誕生し、近代の根底を支えてきたからである。美学は、近代を特徴づける世界の主観化によって提起される諸問題が、いわば化学的に純粋な状態で観察されうる典型的な場をなしている(中略)。この美学の歴史の中に、肯定的な仕方で「近代」を構成する主体性のさまざまな概念が書き込まれているばかりか、個人と集団の関係という抑圧されてはいたものの常に根底にあった問いと、これらの概念が斬り結ぶ、最も強い緊張が書き記されているのである。こうした問題意識のもとに、フェリーは古代から近代にいたる美学の歴史を辿り、近代になってはじめて美学=感性が、認識=理性から自律したことを明らかにする。両者を明確に分離したのがカントであり、その分離を究極まで推し進め、理性を解体に導いたのがニーチェである。思考の歴史においては『純粋理性批判』において、はじめて叡知的なもの(註:プラトンのイデア、近代における理性)に対する感性的なもの(註:プラトンのイドラ、近代における感性)の根本的な自律性哲学に基礎づけられる。かくして『判断力批判』の理論的な空間(つまり美学)が切り開かれるのだ。最後に、ニーチェによって叡知的世界が無条件に除去されることになる。これはカントにおいては、いまだ必要な理性理念の地位を保持していたのであるが、ニーチェは(中略)本来的に人間の世界である感性的な世界を、唯一無二の世界(その上この世界は砕け散って、無限のパースペクティヴとなった)というそのありようにおいて確認した。ニーチェは「真の存在」(プラトンの叡知的なもの、キリスト教の彼岸)を解消することで、感性的世界を仮象へと還元する形而上学の意図をも解消した。真理は寓話になったのである。そうである以上、哲学は芸術家に席を譲らなければならない。ここに美学が始まる。」こうしてニーチェが理性=科学よりも感性=美学を優先させたところから、モダニズムのアヴァンギャルド(前衛)芸術が生まれる。前衛がそこで賞賛する価値は、革新性、独創性、伝統との断絶といった価値であり、要するに「白紙状態」という新デカルト主義的な価値である。フェリーは、こうした状況を支えているのは、個人主義を徹底した「ハイパー個人主義」と、それによって無限の視点が並列して存在するという「ハイパー相対主義」であると言う。しかしそれは現在では、その反動が生じている。それがポストモダニズムである。われわれは陽気にではなくても断固としてポスト前衛主義、あるいは建築家たちが言う「ポストモダン」の時代に突入しているのである。革新は鉄則であることをやめ、失われた伝統への回帰、「復古主義」がある程度の正当性を獲得する。これと並行して、もはや現実的なものが、混沌、破砕、差異、不調和、不協和として体系的に定義されることはなくなる。フェリーは最終章で、バラバラになった個人をつなぎ、相対主義を克服するためには、「外」(伝統や宗教)に基準を求めるのではなく、徹底して個人の内部に沈潜し「真正さ」を追求するしかないと主張する。それはいわば個人主義的な「倫理」の追求である。まず、本質的なこと、それはもはや課題を与える外的なさまざまな規範に立ち向かうことではなく、自分自身の人格の表現、自己の開花を達成することである。(中略)他方、真正さの倫理は「自分自身であれ」という自己愛を、他者への寛容と尊敬という付け足しによって償っている。「他者性」は、今日すべてのうちで最も確かな価値、避けて通ることのできない、疑いを入れない合言葉である。かくして、フェリーはこう結論づける。個人が個人として現れるためには、個的であると同時に、しかも一般化可能な内容を豊かに持つことが必要である。いささか「反・ニーチェ」的な主張だが、少なくとも建築デザインにおいては有効な結論だろう。

本書を読んだ最大の収穫は、第4層=美学の自律性が歴史的な根拠を持っていること、そして近・現代においては、その美学が最も大きな力を持ってきたことが明らかにされている点である。しかしフェリーはそれだけでは世界はバラバラのままだと言う。そしてバラバラになった世界をつなぎとめるのは、個人主義的な「倫理」であるとフェリーは主張する。近代から現代への流れを図式化すれば、理性(科学)→感性(美学)→価値(倫理)というわけである。しかし果たしてそうだろうか。科学(第1層)、美学(第3層)、倫理(第2層)はそれぞれ次元が異なる。答えは三者を統合することにあるように思うのだが、どうだろうか。

8月に買った『ホモ・エステティック』をようやく読み終わったので、午後、久しぶりに青山ブックセンターへ行き、以下の3冊の新刊本を買った。1)『住居はいかに可能か:極限都市の住居論』(南泰裕:著東京大学出版会2002¥2,900)2)『チョムスキー世界を語る』(ノーム・チョムスキー他:著田桐正彦:訳トランスビュー2002¥2,200)3)『〈民主〉と〈愛国〉:戦後日本のナショナリズムと公共性』(小熊英二:著新曜社2002¥6,300)1)は建築文化の連載時から気になっていた論文を集めたもの。著者は東大の原広司研究室出身である。本のタイトルは明らかに原広司の『建築に何が可能か』をもじっている。2)は前から気になっていたので思い切って購入した。インタビューなので一気に読んでみよう。3)は腹に応えるテーマである。池辺陽や丹下健三の生きた時代背景との関連に注目して、じっくり読んでみよう。

今夜は、妻は外泊である。夕食は彼女が作っておいてくれたカレーを娘と一緒に食べる。明日は、娘は仏検の試験。僕は建築学会賞の現地審査である。


2002年11月22日(金)

7時半起床。8時半に家を出て国分寺へ。10時からなおび幼稚園の見積直前の打ち合わせ。気温は10度以下なのに、子供たちはみんな半袖で、中には上半身が裸の子供もいる。これがなおび幼稚園の特異な幼児教育である。園長が休みなので、神保理事長一人との打ち合わせ。前回の打ち合わせからの変更点を確認し、さらにいくつかの点について変更の指示を受ける。ゼネコンへの現場説明は12月3日(火)に決まった。最後に僕たちの概算見積を説明する。かなり大幅な予算オーバーなので気が引けたが、神保理事長はあっさりと受けとめた後「いざとなれば2階の多目的室を全部やめますから」と爆弾発言。いやはや思いきりのいい人だ。大きな変更なのに、ちっとも嫌な気分にならないのは、これまでも何度か同じような揺さぶりがあって、その度に案がクリアになってきたからである。2階が消えるの可能性は五分五分だが、そうなればもっとシンプルなシルエットになるだろう。

12時に終了。国分寺で昼食をとった後、僕は事務所に帰り、河内と平山は23日の学会賞現地審査のための準備に「23冨永邸(東川口)」へ向かう。午後2時過ぎに花巻が来て「84関口邸(溝の口)」の模型をつくりはじめる。山内、岩堀と大塚邸のエスキス。岩堀の案が明快なので、それを洗練する方向で進める。3時、田中会計士事務所の渡瀬氏が来所。昨年度の決算と納税書を持ってきた。スタッフの年末調整用書類を渡す。

4時クロワッサン編集部来所。僕の顔写真を撮ろうとしたが、断る。写真を撮る場合は、前もって知らせるのが礼儀だろう。「58並木邸(杉並)」について取材を受ける。明日、取材をするそうだが、これも前もって見ていないのに取材とは笑止千万である。こんなやり方で雑誌を作るとは、いい加減なものだ。

夕食後、龍光寺と「78鈴木邸(大間々)」の実施最終打ち合わせ。25日(月)に現地に行き、工務店に図面を渡す。9時から事務所全体の打ち合わせ。担当者から、それぞれの現場の進行状況を聞き、設計中のプロジェクトの年末にかけての予定を確認。最後にメトラムニ・シェルターをはじめとする基本計画中のプロジェクトについて話し合って、10時過ぎ終了。明日は久しぶりに、何もない休日だ。


2002年11月21日(木)

7時半起床。9時に我孫子に着き、自転車で大学に向かう途中で寺山に会う。一緒に歩き9時半に大学着。メールチェック。アラップ・ジャパンから契約見積書類が届いていたので、高柳氏との打ち合わせ結果を伝えるメールを返信。

10時50分から「建築デザイン特論」。『テクトニック・カルチャー』の第4章「フランク・ロイド・ライト」と第5章「オーギュスト・ペレ」のレジメ発表。フランプトンの議論は、相も変わらず煩瑣で錯綜しているが、つまるところ、この二人の建築家のモダニスト(プレ・モダニスト?)としての仕事を、表現や空間からではなく、技術的な側面から分析したものだといってよい。ライトの建築の環境制御技術面における特異性をとり挙げていないのは片手落ちの感があるが、テクトニクスがあくまで構法と「目に見える空間」との結びつきに焦点を当てるテーマである限り、やむを得ないのかも知れない。僕としては、テクトニック・カルチャーをカントの三批判との関係からとらえると、フランプトンの問題意識を理解しやすくなることを指摘しておきたい。第1層=『純粋理性批判』=事実認識(真・誤)=科学技術=構法、第2層=『実践理性批判』=倫理(善・悪)=社会性=機能、第3層=『判断力批判』=美学(美・醜)=形態・空間、というふうに図式化してとらえる。僕としては、第1層を「物理性」と「エネルギー性」に分け、全体を4層構造としてとらえたいのだが、ここでは置いておく。柄谷行人によれば、3つの層がそれぞれ自律していることを、初めてはっきりさせたのが、カントの三批判である。このようにとらえれば、テクトニックス(結構術)は、第1層と第3層の関係を問題にしていることが分かる。モダニズム運動も、この3層において展開し、層の間には矛盾やズレがあった。たとえば工業化(第1層のモダニズム)に反対し、装飾(第3層におけるプレモダン)にこだわり続けたウイリアム・モリスが、モダニズムのパイオニアとみなされるのは、デザインの社会性(第2層におけるモダンな倫理)を主張したからにほかならない。

午後1時半から工学研究科教授会。大学の独立法人化について長々と議論がされた。「純粋な研究者」としての大学人は(そんな人がいるとは思えないが)独立法人化にたいして一種の恐怖を感じるようだ。法人化されれば自分で稼がなければならないからである。僕は2年前までは(もちろん実質的には現在もそうだが)自分で稼いでいたから何とも思わないが、たしかに学問だけで稼ぐのは難しいだろう。しかし議論を聞いていると、何だか既得利権を守ろうとしているようで、いささかセコイ印象を受けるのは否めない。徹底的に民営化されれば、利権だけで生きているような学者は、まちがいなく淘汰されるから、僕には必ずしも悪いとは思えないのだ。ただ、すぐに成果を望めない長期的な研究にとっては厳しい環境になるかも知れない。しかし時代はまちがいなく独立法人化に向かっている。単純にその流れに抵抗するのではなく、もっと具体的な対応を考えるべきだと思う。

5時半に終了。直ちに都市系教授会。助教授人事が承認されたが、僕の提案は完全に無視された形になった。その理由についての説明ももらっていない。この大学の事なかれ主義には呆れるばかりだ。僕としては今後の態度を決めねばなるまい。

寺山と「83丹羽邸」の打ち合わせをして、6時半に大学を出る。新大阪で夕食を食べ、7時53分ののぞみに乗車。11時半東京着。12時過ぎに帰宅し、風呂に入って1時就寝。


2002年11月20日(水)

7時半起床。9時過ぎに大学に着いたが、寺山が来ていないので、院生室で本を読みながら待つ。机の上にあったパンフレットを何気なく手に取って目を通すと、中谷ゼミの論文のレジメである。数寄屋建築の施主が表現に及ぼした影響を調べた論文で、かなりマニアックなテーマである。誰の論文か聞いたら、4回生の岡田の卒業論文だという。修論でもおかしくないテーマなので、中谷ゼミはずいぶん手の込んだテーマを追求しているので驚いた。

9時半過ぎに寺山着。今日の建築デザイン1のレクチャー・スケッチ。とはいってもミースの話しだから、資料も話題も山ほどある。まず、一般的に、建築に関する学問の中で、歴史学が果たす決定的な役割について話し、ついで建築家・デザイナーであることの条件が「歴史意識」にあることを指摘。したがって建築デザインに関する理論は歴史的視点がなければ成立しないこと。僕が近代建築史にこだわる理由もそこにあるという話しからはじめる。ミースのビデオを見せ、ル・コルビュジエとは逆に、近代建築の「無意識」を表現した建築家であることをコメントする。ビデオを見ながら、あらためて昨今のミニマリスムがミースをまったく越えていないことを痛感する。

午後1時半から3回生の設計課題『小学校のリニューアル』の最終講評。講評を受ける学生が三々五々やって来るので、まったく盛り上がりに欠ける講評会になった。それでも自分を鞭打って毛穴を開き、いつものようにアグレッシーブなコメントを出すように努めたが、学生の反応は今一。今年の3回生はやけにクールで醒めている。トンガッタ学生は2、3人しかいない。完全に放棄している学生もいる。まあ今のような不景気な世の中で、デザインに夢を持てというのが土台無理なのかも知れない。それでも講評が終わったのは6時だった。

直ちにゼミ会議。コンバージョン連絡会議の報告をして、ケーススタディの難しさをあらためて自覚すべきことを確認する。船場のケーススタディの対象ビルもなかなか収斂できない。都市公団の反応も鈍く、打開策を考えないとケーススタディも展開できない。ともかく可能性のありそうなビルに、駄目元で当たって見ることを指示する。ミライド・パシフィック・マネジメントについても紹介。世の中は本格的にコンバージョンに注目し始めている。北梅田コンペは来週のゼミ会議までに、再度各自がスケッチを持ち寄り、28日(木)の安井事務所との2度目のワークショップの準備をする。

セミ会議後、いつものように会食。話題はやはり今日の講評会に集中した。昨日とは対照的に、何か身体全体の力が抜けるような一日だった。11時、山口と一緒に大学を出て、12時前に帰宅。そのままベッドに倒れ込む


2002年11月19日(火)

8時起床。昨晩はやはり寝たきりの母が泊まっているために、家族全員が眠れなかった。夜中に3人で母の身体の位置を変えた。床ずれを防ぐためである。妻は一晩中母のそばに付き添っていた。もう一泊する予定だが、寝たきりの介護は本当に大変である。しかし、僕は今夜、大阪に行かねばならない。心残りだが。

9時に事務所に出てメールチェック。寺山から「63糸川邸」の現場監理と「74並木邸」の見積状況の報告が届いている。糸川邸はようやく現場が軌道に乗りはじめたが、現場監理を依頼した多田事務所と工務店の菅組の施工計画がシビアなので、寺山はやや戸惑っているようだ。並木邸の見積も、工事を担当する山手さんが必要以上に細かなことを聞いてくるので、その対応に振り回されている。どちらも、相手が「箱の家」というブランドに過敏に反応しているだけである。しかし「箱の家」はそんな特殊な住宅ではない。その点を肝に銘じて、相手のペースに嵌まることなく、設計者としてのコンセプトを伝えればいいのだ。

10時、内山設備の内山道明さんが来所。なおび幼稚園の実施設計の最終打ち合わせ。設備配管の経路と建築との絡みに、数多くの問題が未解決のまま残っていることが分かった。実施に入る前に一通りチェックしておくべき問題ばかりである。実施設計の最終段階の今頃に、それが出てくるようではしょうがない。構造にもフィードバックが必要であることが分かり、全体をもう一度調整しなければならなくなった。担当の平山はどうも細部が見えていないようだ。各種工事の調整と統合という建築家の役割を意識しないと駄目である。そのためには一つの問題を建築全体のネットワークとしてとらえる視野を持たねばならない。打ち合わせの途中でイゼナの前田誠一さんが加わる。なおび幼稚園では温水を使ったアクアレイヤー・システムを試みるので、建築との絡みがいつも以上に難しい。工事範囲の指定をはっきりしなければならないだろう。12時終了。内山さん、前田さんとマイセンで昼食。雨水の利用法について話す。前田さんは守備範囲を少し広げようとしているようだ。

1時半、事務所を出て渋谷のアラップ・ジャパンへ。2時から高柳氏、高柳医院顧問の中村氏を交えて「メトラムニ・シェルター」プロジェクトのチーム編成、契約方式、設計見積内容について話し合う。まずアラップ・ジャパンとしては、あくまでエンジニアリング・コンサルタントとしてプロジェクトに参加することを確認。したがって僕の立場は、高柳氏のアドバイーザーであると同時にプロジェクト全体のディレクターということになる。しかし不確定な条件の多いプロジェクトなので、当面は基本設計までの契約とし、界工作舎とアラップ・ジャパンが、それぞれ別々に高柳氏と契約を締結することになった。僕が作成した具体的なプログラムを見て、アラップ・ジャパンの責任者がリアリティのあるプロジェクトであると判断し、GOサインを出したらしい。2003年8月まで基本設計、2004年2月まで実施設計、2004年8月までに製作、という具体的なスケジュールまで示してきた。設計見積の内容についても基本的に承認する。次回の打ち合わせは12月3日(火)。それまでにコンサルタント契約を締結し、プロジェクトは本格的に始動する。

3時半終了。その後、愛宕山に移動し、高柳氏の顧問弁護士・柏木秀一氏に面会。柏木氏は医療関係が専門の弁護士だが、大手ゼネコン数社の顧問弁護士も勤めているという。物腰が柔らかく愛想のいい、それでいて洗練された都会的な紳士である。こういう人なら皆、顧問弁護士を頼みたくなるのだろう。すでに高柳氏が僕のことを紹介していたので、話しは直ぐにプロジェクトに集中した。まずアラップ・ジャパンとの話し合いの結果を報告し、プロジェクトヘの取り組みに関する諸注意について話し合う。要は、明確な契約を締結すべきだというアドバイスである。

5時終了。直ちに事務所に戻り、進行中の「なおび幼稚園」の構造の打ち合わせに参加。二期に別れる工事区分の決定、午前中の設備打ち合わせからのフィードバック、構造コストの再検討などについて伝える。

6時に事務所を出て、6時53分ののぞみに乗車。9時半新大阪着。10時にアパートに入り『ホモ・エステティックス』を読む。第5章「ニーチェ」を終え、第6章「アヴァンギャルドの没落」にさしかかる。今日はほんとうに疲れたが、公私共に充実した一日だった。12時就寝。


2002年11月18日(月)

7時半起床。9時半に家族が病院に母を迎えに行く。9時に事務所に出てメールチェック。しばらく「86神宮前計画」のスケッチ。スタジオ・タイプの住戸を最低10戸は確保したいのだが、駐車場との関係が難しい。地下の使い方も考えねばならない。やはり事務所は地下だろうか。地下であっても、せめて自然採光にはしたい。敷地の方位が傾いているので、北側斜線の処理も考慮しなければいけない。建ぺい率制限が60%だから、40%の外部空間が生じるが、それをまとめて半外部空間にしたい。こうしたことすべて統合するのは、なかなか難題である。

10時半、母が特別車で帰宅。準備したベッドに横になる。呼びかけたら笑ってくれた。庭を見て自分の家だと分かったようだ。しばらくすると眠ってしまった。ホッとしたのだろうか。ときどき帰宅して話しかける。家族が交互に面倒を見ている。食事は口から食べることができないので、直接、胃に流し込む。ちょっと痛々しいが、口から食べると咽に詰まって窒息の恐れがあるのでやむを得ない。

午後、平山、河内と、なおび幼稚園の打ち合わせ。明日のコンサルタントの打ち合わせと、今週末のなおび幼稚園との最終打ち合わせの準備。設計は大方まとまってきたが、明らかに予算オーバーなので、コンサルタントにはコストダウンの可能性を検討してもらい、僕たちはコストダウンのための代替案を検討する必要がある。性能を変えないでコストダウンするには、外構、内装、家具などを仕様変更するしかない。

3時過ぎ、事務所を出て「64柳田邸」の上棟式へ行く。既に屋根が終了し、外装の断熱パネルを張り終わったところである。4階で御浄めをした後、1階で祝宴。久しぶりに柳田一家に会った。年末ギリギリの12月27日(金)に引渡の予定だから、あと1か月余で仕上げねばならない。かなりきついスケジュールだが、やるしかない。6時過ぎ終了。7時前に事務所に戻る。

家族と夕食。母が寝ている部屋が、僕たちの部屋と別なので、落ち着いて食事ができない。2日間だけだから、やむを得ないだろう。夕食後、再び「86神宮前計画」スケッチ。本の少し光が見えてきた。


2002年11月17日(日)

8時半起床。妻は明日の母の帰宅の準備に、娘は英検準1級の試験を受けに出かけた。

午前中は『ホモ・エステティクス』を読む。ヘーゲルからニーチェに進んで、だんだん面白くなってきた。かつてヘーゲルの『美学講義』を読んだとき、建築がやけに低く見られていることに驚いた。ヘーゲルによれば、建築は芸術の歴史の中でもっともアルカイック(古代的)な段階にある。その理由は、諸芸術の中で、建築がもっとも「物質性=現実の空間」にとらわれた芸術だからである。ヘーゲルが考える最高の芸術とは、物質性からもっとも離れた「音楽」であり「詩」である。その視点で、ヘーゲルは芸術の進化を「非物質化=Dematerialization」への進行としてとらえている。これはフランプトンの『テクトニック・カルチャー』との関連を調べてみたい視点である。物質にとらわれた芸術としての建築にとって「非物質化」とは何だろうか。これは僕の『メタル建築論』とも関係が深い問題である。とはいえ、ヘーゲルは「芸術の歴史」を「精神(宗教)の歴史」へと止揚し、最終的には芸術を否定する。そしてニーチェはそうしたヘーゲルの芸術論に真っ向から対峙する。ニーチェはヘーゲル的な「体系性」を否定し、すべての人間活動を多様な芸術に還元すべきだと主張する。ニーチェの論がこれからどのように展開するか楽しみだ。

午後一番に、龍光寺が事務所に来た。「78鈴木邸」の実施設計の締切りが、あと1週間に迫っている。再来週の月曜日に大間々に赴き、工務店に直接図面を割らす予定。さらに「82谷端邸」の骨組みとサッシ詳細のまとめも急がねばならない。

「メトラムニ・シェルター」のプロジェクト・チームあり方について、アラップ・ジャパンに質問メールを送る。送ったメールを、そのまま高柳さんにもファックスする。要点は、プロジェクト全体を一括して請けるつもりかどうかという質問である。多分アラップ・ジャパンには、それだけのキャパシティはあるだろう。しかしプロジェクトをまとめるには、エンジニアだけでなくディレクター=建築家が必要である。アラップ・ジャパンにその人材がいるかどうかが問題の核心である。その点を確認しなければならない。とはいえ界工作舎には、残念ながらエンジニアがいないし、研究開発を進めるだけのキャパシティもない。本来なら大阪市大のデザイン研究室で請けたいプロジェクトだが、研究室の体制はまだまだ弱小である。したがってアラップ・ジャパンとどのようなコラボレーションが可能か、難しい問題なのである。

この問題を含めて、東京の界工作舎と大阪市大デザイン研が、今後向かうべき方向について、あらためて考えるべき時期に来ている。そこで、まず現在のプロジェクトを整理してみることにする。現在、工事中のプロジェクトは「59坂井邸(新潟)」「60大宮邸(葉山)」「62荒川邸(新宿)」「63糸川邸(高松)」「64柳田邸(江東区)」「68藤井邸(鳩ケ谷)」「71青木邸(調布)」「72芦澤邸(横須賀)」「73大川邸(板橋)」「81村越邸(川間)」「82谷端邸(大田区)」の11件である。実施設計中のプロジェクトは「74並木邸(富山)」「78鈴木邸(大間々)」「なおび幼稚園(小平市)」「二天門消防支署(浅草)」の4件である。

基本計画中のプロジェクトは「67大塚邸(あざみ野)」「77桑山邸(厚木)」「83丹羽邸(岩倉市)」「84関口邸(溝の口)」「85三原邸(花小金井)」「メトラムニ・シェルター(釧路)」「MUJI-HOUSE(無印良品)」「86神宮前計画」(界工作舎事務所+自宅を、集合住宅へ建て替える計画)の8件である。これ以外に、準備中のプロジェクトが数件ある。さらに研究開発として「アルミエコハウス解体移築計画」がある。大阪市大デザイン研は「コンバージョン・ケーススタディ(船場)」と「北梅田コンペ」に取り組んでいる。これらをまとめると、かなり多数のプロジェクトに取り組んでいることになる。これでは落ち着いて考える時間が取れないわけだ。

しかしやみくもに仕事を進めてもしょうがない。取り組むべき課題を整理する必要がある。それは以下のようになるだろう。「箱の家シリーズ」は今まで以上に仕様の標準化とシステム化を推し進めていくつもりである。その方向で集成材造シリーズを「MUJI-HOUSE」ヘと展開させていこう。そのためには、標準部品への分解をさらに追求する必要があると思う。「なおび幼稚園」と「二天門消防支署」は「箱の公共建築」へ向けての第1歩である。サステイナブル・デザインを基本コンセプトとして、フレキシブルで高性能な「箱」をめざすつもりである。「86神宮前計画」は「45ビレッジヒル」の延長上で外断熱と屋上緑化を取り入れながら、さらに住戸の内部空間をもっと充実させたデザインをめざす。できればスタジオ・タイプの住戸を実現したい。「メトラムニ・シェルター」は、高柳さんのスチールハウスのインフィル部品として位置づけるとともに、スケルトン・インフィル・システム研究の一環として集合化ヘと展開させるつもりである。「アルミエコハウスの解体移築計画」は、アルミハウスの普及化へのケーススタディと展開させて、何とか「83丹羽邸」に結びつけたいところだ。「コンバージョン・ケーススタディ」と「北梅田コンペ」は、以上のプロジェクトがめざしている「サステイナブルな都市像」の提案であることをはっきりと確認しておきたい。そのためには「建築の4層構造論」を基にして、構造・構法やエネルギーの条件だけでなく、社会的・経済的条件や空間的・文化的条件も考慮した統合的な視点を持たねばならない。僕にとって、それぞれのプロジェクトは独立して存在するのではなく、サステイナブル・デザインというコンセプトによって結合されたネットワークの「節点」として存在している。それぞれのプロジェクトが特異点となり、ネットワーク全体に対して、サステイナブル・デザインに関する独自のメッセージを発することが、僕がめざしている理想的な仕事の進め方である。

以上で、これからのヴィジョンは整理できたように思う。次に、当面取り組まねばならないプロジェクトの具体的な課題について整理しておこう。「なおび幼稚園」と「二天門消防支署」はコスト・コントロールを中心課題にして仕様を収斂させていく。さらに、これからスタートする「箱の家」では、今までとは異なる仕様を試みる。そのためには、いくつかの代替案を研究しなければならない。「メトラムニ・シェルター」ではアラップ・ジャパンのノウハウを可能なかぎり吸収する。エンジニアリング・オリエンテイドなデザインは、どのように進められるものなのか興味あるところだ。「コンバージョン・ケーススタディ」では、リアルでありながら夢のある都市居住と街並再生を、「北梅田コンペ」では、100年くらいの時間スパンをみすえながら、ブッ飛んだサステイナブル都市のヴィジョンを提案したい。そのためにはデザインに対する多面的なアプローチが必要である。

このように仕事は錯綜しているようだが、中心的な課題は意外と少ない。ヴィジョンを見失わないように、少しずつ着実に進み続けるしかないのだ。


2002年11月16日(土)

7時半起床。8時半に事務所に出る。9時前に事務所を出て、地下鉄千代田線、東武伊勢崎線、野田線を乗り継ぎ「川間駅」へ。北千住で山内夫妻と会う。さらに川間駅近くで村越さんに会い、現場へ車で送ってもらう。10時45分から「81村越邸」の略式の地鎮祭。僕が仕切り15分で終了。その後、玄関まわりの設計変更について話し合う。実際に計測してみると敷地のレベル差が予想以上に大きかったので、地盤から玄関テラスまで1m程度の階段が必要であることがわかった。そこで側壁の門扉を中止し、道路側から鉄骨階段でテラスに直接上がるように変更。こうすれば駐車場2台分がゆったりとれることになる。

近隣挨拶を済ませた後、合田さんの車で小川共立建設が建設中の「アトリエ天工人」の住宅を見学。鉄骨造で構造を担当したのは池田昌弘君だという。中央に正方形平面で2層吹き抜けの共用空間を置き、その四囲に個室を浮かせたダイアグラマティックなプランだが、構造やディテールが無茶苦茶である。構造体はほとんど仕上げに隠れるので、完成すれば見た目はコンセプチュアルな空間になるかも知れない。それにしても「張りぼて建築」である。軽量鉄骨を使った構造システムも中途半端でいただけない。きっと池田君はまともに取り組んでいないのだろう。これに比べれば、遠藤政樹君の建築の方がずっと明快でキレがある。断熱塗料だけに期待している点も眉唾ものである。性能データをちゃんと押さえた上で使っているとは思えない。「アトリエ天工人」は現在売り出し中の建築事務所らしいが、この住宅を見るかぎり、論理も倫理も持っていない、ただのトンガッタ設計屋でしかない。合田さんもこんな仕事を引き受けて大変だろう。

12時前に川間駅を発ち、北千住で昼食をとってから、地下鉄日比谷線、JR山手線,東急池上線を乗り継いで「雪ケ谷駅」へ。2時から「83谷端邸」の略式地鎮祭。村越邸と同じく、僕が仕切り15分で終了。周囲の建て売り住宅にはどんどん入居している。小川社長によれば、売値は7〜8千万円だろうという。ひどいデザインだが、立地がいいので直ぐに売れるらしい。谷端邸は単純な箱だから、さぞかし周りから浮いて見えることだろう。しかし近くに清家清邸があるから、分かる人には分かるに違いない。近隣挨拶をすませて3時前に現場を発つ。事務所着4時前。

高柳芳記氏からアラップ・ジャパンの「メトラムニ・シェルター」プロジェクトの進め方の提案に対する回答が届く。今までに類のないプロジェクトなのでチーム編成が難しい。僕の立場をどう位置づけるかも不確定である。僕としては、高柳氏のエージェントに徹するか、あるいはアラップ・ジャパンとチームを組んで仕事に取り組むか、選択のしどころである。「メトラムニ・シェルター」は、高柳氏のヴィジョンのワン・ステップだから、やはりスーパー・ヴァイザーの立場を選択すべきかも知れない。ともかく19日(火)に」アラップ・ジャパンで話し合うことにしよう。

4時半過ぎに三原一家が来所。「85三原邸」の模型と図面をプレゼンテーション。いつもそうだが、クライアントはみな模型を見て喜び、工事費概算を見て「固まる」。今回は予算があまりに厳しいので、予算オーバー覚悟で提案した。案の定、三原夫妻は工事費概算を見て目が点になった。しかし第1案には夢を持たせねばと思う。ともかく資料を持ち帰り検討してもらうことにした。30分余で終了。

久しぶりに石山修武の『世田谷村日記』を読む。安藤忠雄の京都賞のことも書いていあったが、京都を訪れたついでに鈴木博之さんと「聴竹居」を見たらしい。僕に声をかけてくれないとは残念至極。やはり前もって問い合わせておくべきだった。石山さんは相変わらず活発に動いている。元気そうで何よりだ。

7時、妻が来週の母の一時帰宅の準備を終えて帰ってくる。労をねぎらうために、娘と外に食べに行くことを提案したら「ロイヤル・ホスト」でいいという。早速、青山のロイヤル・ホストに行き、食事とワインを注文する。赤ワインが「カステル・デル・モンテ」から「モンテ・プルチアーノ」に変わり、ミニボトルではなくデ・キャンタとフルボトルになっていた。ちょっと迷ったがフルボトルを注文。何と980円。半信半疑で飲むと、これが意外といけるので驚いた。ワインの値段とは一体何だろうと考える。ロマネ・コンティとモンテ・プルチアーノでは50倍の差がある。

8時半に帰宅し、母の帰宅の準備。明日は一日休みだが、いくつかの仕事のスケッチに集中しよう。


2002年11月15日(金)

7時半起床。今日は妻の誕生日だ。月曜日の母の帰宅について話し合ってから、僕も手伝うことを約して、9時に事務所に出る。

9時半に事務所を出て、コンバージョン連絡会議のために東大の松村研へ。今月からケーススタディが本格的に動き始める。分科会の成果をケーススタディに反映させるシステムについて話し合ったが、設計資料をいくら列挙してもデザインは出てこないだろう。やはり具体的なケーススタディを提案し、それを分科会の成果によってチェックし、フィードバックをくり返すことによって収斂させるしかないと思う。六本木、日本橋の二つの建物に関する設計が紹介されたが、案の定、切れが悪い。みんな現実の条件に引きずられて、リアリティはあるけれど、主張のないデザインばかりである。しかし厳しい条件だからこそ、インパクトのある明快なデザインが必要なのだ。そうしないと社会は理解してくれない。そのために重要なのは、技術的知識よりもライフスタイルの想定である。つまり、どんな人が、どんなふうに住むか、明確な設定がないと、技術をいくら積み上げてもインパクトのあるデザインは生まれないのだ。どうもコンバージョン研究のメンバーは、設計条件の分析と技術的な知識は豊富に持っているが、ライフスタイルに関するイメージが貧しすぎるように思う。大阪市大も同じことだ。「他山の石」としよう。

12時半終了。その後、研究メンバーの安藤正雄さん(千葉大)、石塚さん(積水ハウス)と正門前のカレー屋で昼食を食べていたら、鈴木博之さんが技官の加藤道子さんと一緒に入ってきた。早速、日曜日の京都賞の表彰式の話をしたら、鈴木さんも出席していたそうだ。詳しいことは聞かなかったけれど、火曜日のワークショップは石山修武さんが加わって、ひと騒動あったらしい。僕の方は、大阪市大の近況や「ウィトルウィスの建築論」に関する鈴木さんの論文の感想を話し、1時過ぎに別れる。本郷三丁目の駅では、久しぶりに都市史の伊藤毅さんにも会った。一昨年「4横張邸」のお披露目パーティ以来である。去年、息子さんを亡くして意気消沈されていると聞いたが、ようやく元気を取り戻されたようだ。

1時半に銀行に行き、消防署の1回目の設計料をようやく受け取ることができた。それにしても預金を引き出すのに30分も待たせるとは、かえすがえすも官僚主義である。

2時過ぎに事務所に戻り、明日のプレゼのために「85三原邸」の設計要旨を作成する。三原さんの予算には納まりそうにないが、やむを得ない。第1案はこれで提案するしかないだろう。岩堀が「84関口邸」の第1案をまとめたので打ち合わせ。関口さんは集成材の軸組構造を希望しているが、鉄骨造案も検討したいので、代替案をつくってみることにする。

カーサブルータスの「池辺論」を書く。昨日、第1弾を書いて送ったが「池辺に対する思いが込められていない」と突き返された。しかし僕が池辺から学んだのは「自分の思いを直接表現するのはダサい」ということである。少し書き方を変え、池辺が生きていたら何をやろうとしたかを書いて送ったら、今度は受け取ってくれた。ジャーナリズムは何でもスキャンダラスにしようとするので、付き合うのが大変である。

夕方から夜にかけて「83丹羽邸」に関する丹羽さんからの長大な質問に対して回答をまとめ、メール送信。ほとんどが収納に関する質問で、基本線に変更はない。明日は、午前中は村越邸、午後は谷端邸の地鎮祭。夕方、三原邸のプレゼである。


2002年11月14日(木)

7時半起床。やや二日酔い気味。昨夜は不思議な夢を見た。僕は亡くなった冨永さんの友人とその家族を誘って海に行こうとしている。海に潜ってカワハギやフクを採るのが目的らしいのだが、バスがなかなか来ないので苛々している。冨永邸の学会賞現地審査が近いのと、芦澤邸のクライアントである芦澤泰偉さんのカワハギ漁の話が結びついたのかも知れない。しかしなぜこの二つの話なのだろう。カワハギは釣りなのに、なぜ潜るのだろう。なかなか来ないバスは何を意味しているのだろう。そんな風に夢の中で自問自答しているところで目が覚めた。夢の中に夢が埋め込まれているという錯綜した夢だった。このような本格的な夢を見たのは久しぶりである。

8時半にアパートを出て9時半大学着。『東阪往来記』送った後、メールチェック。「85三原邸」の三原さんから返信メール。第1案のプレゼが11月16日(土)に決まった。「83丹羽邸」のクライアント丹羽さんから第1案について長大な質問状が届く。第1案を基本的には気に入っているようだが、細部に関する疑問が述べられている。じっくり検討して返事を送ろう。

10時50分から建築デザイン特論。『テクトニック・カルチャー』の第3章「結構の登場」。いつものように水野のレジメにしたがって僕がコメントしながらのレクチャー。18世紀から19世紀にかけての啓蒙主義時代のドイツ建築の展開。カント、ヘーゲルの芸術論と建築との関係。シンケルからゼンパーを経てワグナーヘと至る建築の展開。カール・ベティヒャーによって集大成されるテクトニックス(結構)論といった話題について話す。ゼンバーは建築の原型となる4要素「炉、基礎、枠組み/屋根、囲いの被覆」を提唱している。炉=設備、枠組み=スケルトン、被覆=カーテンウォールと捉えれば、これはまさにミースの建築である。この意味でゼンパーは近代建築の寸前にまで辿りついていたといってよい。しかし彼は被覆を「石化=物質化」すべきだと主張することによって、あるいは屋根に拘ることによって反動的な建築家にとどまった。「建築の4要素」を突きつめれば「水晶宮=非物質化」に至ることは明らかであるにもかかわらず、その手前でとどまろうとしたわけである。それはフランスやイギリスから一歩遅れて国民国家統一を成し遂げようとしたドイツの歴史的矛盾の表れである。そしてこれは本書におけるフランプトンの議論の核心であると同時に、僕の考えでは、フランプトンの建築論の限界を示している。近代技術や社会組織は自律的に進展するが、文化(=人間の感性や美意識)はおいそれとは変化しない。そこには常に巨大なズレがあるのだ。来週からは作家論に入る。最初はライトとペレーである。議論の構図は明確になった。後はそれを作家を通して検証する作業である。

午後2時、ミライド・パシフィックマネジメントの社長・阿部浩史氏と村井基輝氏の二人が来研。ミライドとは「未来度」のもじりだそうだ。この会社の仕事は、まさにコンバージョンである。先日のコンバージョン・セミナーに参加し、僕のプレゼンテーションを見て連絡したという。阿部氏はまだ33歳で、この会社を興したばかりだそうだが、これまでにいくつかのコンバージョンを手がけている。彼らの仕事は主に飲食店へのコンバージョンである。大阪で仕事を展開するにあたり、僕の研究室との連携を図りたいという。ちょっと怪しいが、野心のありそうな人なのでしばらく付き合ってみることにする。手始めにミライドが発行している冊子に原稿を書くことを約束する。阿部氏は大阪市大の学生とはまったく異なる人種なので、機会があれば、研究室のメンバーにかれの話を聞かせてみると面白いかも知れない。

山口と條の卒論の目次と梗概をチェックする。主に文章に手を入れ、論理展開を明確にした。これで全体の構図ができ上がったので、後は中味を詰めていく作業だ。

6時前に大学を出て、6時53分ののぞみに乗車。9時半東京着。10時に事務所に戻る。花巻が「85三原邸」の模型を仕上げていた。明日は設計要旨をまとめることにしよう。


2002年11月13日(水)

7時半起床。8時半にアパートを出て9時15分大学着。建築デザイン1レクチャー最後のスケッチ。10時50分から建築デザイン1レクチャー。まず安藤忠雄とル・コルビュジエの関係を、マルクスの『ルイ・ボナパルトのブリュメール18日』の最初の有名な書き出しでコメントすることから始める。すなわち「ヘーゲルはどこかで、すべての偉大な世界史的事実と世界史的人物はいわば二度表れる、と述べている。彼はこう付け加えるのを忘れた。一度は偉大な悲劇として、もう一度はみじめな笑劇として、と。」京都賞が笑劇であったかどうかは分からないが、安藤忠雄は明らかにル・コルビュジエを再演している。しかしル・コルビュジエは死ぬまでアカデミズムを拒否し続けたが、安藤忠雄はすべてのアカデミズムを受け入れている。続いて日本の近代化のシンボルとしての夏目漱石とル・コルビュジエの関係(無関係)を指摘し、時代感覚を伝える。モダニズム直前のヨーロッパと明治維新直後の日本との平行関係である。その後、久しぶりに『ル・コルビュジエ』のビデオ第3巻を見る。マルセイユのユニテ、シャンディガールのカピトール、ロンシャン教会、ラ・トゥーレット修道院、そして未完に終わったフィルミニの教会。すべてがコンクリートによる彫塑的な表現だ。日本の戦後建築がいかにこれらの建築から大きな影響を受けてきたことか。しかしあらためて考えてみると、前川、坂倉、吉阪がル・コルビュジエの直接的な影響下にあったのに対し、丹下の香川県庁舎は明らかにそこから超出している。あらためて丹下の凄さを実感する。来週は、鉄とガラスの建築、ミースについて話す予定。

新建築から新年号のアンケート依頼が届いた。テーマは『シリーズ:環境とデザイン』で10の質問項目に応えるものだが、建築と環境の関係についてヴィジュアルな回答を求めている。箱の家シリーズも一つの回答だが、むしろ大阪市大のコンバージョンの方が説得力があるかも知れない。カーサブルータスからも池辺陽の記事に関する解説を求められた。「鹿児島宇宙ロケット打ち上げ場」を取材したらしい。明日までに書けという。気の早い注文だが、量も少ないのでレクチャーの間に試みよう。クロワッサンは「箱の家シリーズ」の取材を求めてきた。まず希望を聞いてから応対しよう。これまでクロワッサンを見て二人のクライアントがやってきた。「7神保邸」と「64柳田邸」である。クロワッサンは読者層がクライアントに近いので、ちゃんと対応する必要がある。

午後2時から4回生の卒論エスキス。目次と梗概のチェック。いよいよ最終的なまとめの段階である。コンパクトでクリアな論文にするには、文章も練り上げねばならない。それにしても、論文を書くとなると、学生達の文章は硬くて持って回った論文調の文体になるのはなぜだろうか。

17時から河田剛の「イタリア・フィンランド旅行報告会」。1週間で北イタリアとヘルシンキを回るという強行軍で、ブルネレスキ、パッラーディオ、アルバー・アールト、アルド・ロッシ、スティーブン・ホールを一気に紹介してくれた。観客は少なかったけれど、ショートレクチャーを挟んだ有意義な会だった。月に1回くらいこういう会があってもいいと思う。

19時から食事をしながらゼミ会議。コンバージョンの本格的な再始動に向けて、いくつか準備が必要である。できればコンバージョンの対象となるビルのオーナーの承認を得ること。船場地域の計画について、年公団との連携を図ることなどである。リアリティのあるケーススタディを提案するには、これらの条件が不可欠だ。早速動き始めよう。ワインとグラッパで盛り上がりかなり酩酊。11時終了。何も持たずにアパートに戻り12時就寝。


2002年11月12日(火)

7時起床。8時に事務所に出て、しばらく『漱石まちをゆく』を読む。漱石は相当神経質だったが、野心はあったらしく、結婚した後34歳で英国に留学する。しかし英国社会にまったく馴染めなかったらしい。20世紀初頭のロンドンを彷徨する漱石が目に浮かぶようだ。3年弱の留学の間にとうとう神経衰弱になりかけ、ほうほうの体で帰国する。『吾輩は猫である』で文壇デビューするのは帰国した後の明治37年(1904)、漱石が37歳の時である。この年には日露戦争があった。

9時半に事務所を出て、半蔵門線から田園都市線へ乗り継いで「たまプラーザ」着10時。大塚さんと待ち合わせ、車で「あざみ野」の敷地へ行く。敷地は小高い丘の尾根にあり、南面道路で南側が丘の頂上である。尾根にあるため東西北面はすべて視界が開けており、隣地にまだ住宅が建っていないので、周囲を270度見渡すことができる。一帯は東急電鉄が開発した住宅地である。間口12m、奥行19mの約220平米、約67坪のゆったりとした敷地である。一通り写真を撮った後、たまプラーザ駅近くのの大塚さんのアパートに行き、奥さんを交えてしばらく話をする。大塚さんはNHKの音響エンジニアだが、英国車ロータス・コルティナが大好きな車狂いで、広いガレージが夢だという。奥さんはグラフィック・デザイナーだが、男の子が産まれたばかりなので自宅で仕事をされている。30代後半のオシャレな夫婦である。去年の6月にいきなりメールをもらい、いくつか候補の敷地を見て回ったが、なかなか決定的な敷地がなく、そのままになっていた。最近になってオープンハウスに何度か来ていただくようになったが、ようやく敷地を購入したので、計画を再開することになったのである。詳しい希望条件のリストをもらい、一通り説明を聞いた後、12時過ぎにお暇し、事務所に戻る。

花巻が来て「85三原邸」の模型をつくり始めている。立面図の変更を指示し続行。土曜日にプレゼの予定だが、三原さんからまだ返事が来ない。大塚邸のスケッチを始めるが、これまでのパタンばかりが脳裏に浮かび、なかなか突破口が見つからない。4時、事務所の皆と打ち合わせ。「67大塚邸」と「84関口邸」について説明する。「関口邸」は敷地条件が厳しいので逆にコンセプトを出しやすい。「大塚邸」はゆったりとした敷地なので切り口が難しいのだ。何か突破口がないか考えようと呼びかけて1時間で終了。皆疲れているようだ。

6時に事務所を出て東京駅へ。6時53分発ののぞみに乗る。『漱石まちをゆく』を京都あたりで読み終わる。明日の「建築デザイン1」のレクチャーで感想を話してみようか。漱石は明治維新直前の1867年生まれ、ル・コルビュジエはパリ万博10年後の1889年生まれだから20歳近くの差がある。漱石がロンドンに行く途中に立ち寄った1900年のパリには、ル・コルビュジエはまだいない。スイスの片田舎ヌーシャテルの美術学校にも入っていない。まだ父親の時計工房を手伝っていた頃だろう。ル・コルビュジエがパリに来るのは1920年代である。しかしいずれにしてもモダニズムはまだ姿を現していない。

9時半、新大阪着。10時アパートに着き、しばらく明日のレクチャーのスケッチをしてから、11時半就寝。


2002年11月11日(月)

7時半起床。8時半に事務所に出て、メールとアルミエコハウスの資料をチェック。

9時半に事務所を発ち、10時にアルミ建築協議会に着く。「アルミハウス解体移築研究会」の第5回である。前回の会議でNEDOの審査基準が実用化のテーマに重心を置いたものになるとの情報が入ったので、解体移築だけにテーマを絞るのではなく、実用化のための実験研究をも盛り込むことになった。今回はテーマを実用化研究へと拡大しながら、解体移築の具体的なテーマに絞り込むためのブレインストーミングを行う。実用化研究で、建築要素をすべてアルミでつくることを目指すのは非現実的である。この点では意見が一致した。しかしながら構造体だけがアルミで、それ以外はすべて別の構法でつくるのも、われわれの意図に反している。ではどこまでアルミでつくるのか。これは「アルミ建築とは何か」という定義の問題とも関係しているが、法的な定義よりも、一般の人がアルミ建築に対して抱く印象、あるいはイメージの問題である。だとすれば、構造体がアルミで、なおかつシェルターもアルミというのが正解だろう。内装はアルミでなくても印象は変わるまい。まずそのあたりをはっきりさせておいてから、実用化のために技術開発に取り組むことが重要である。一昨年に界工作舎では「箱の家シリーズ」の展開型として、アルミ造と集成材造の構法・性能・コスト比較を行った。シェルターはその資料に基づいて展開していけばよいだろう。外壁や屋根はアルミ・サイディングを用いたダブルスキンで対応すれば、輻射にも有効である。清家研の大学院生が解体移築の際の形態バリエーション・スタディを行ってきた。その中で典型的なものを選び、部材の転用可能性を検討することにする。次回は12月9日(月)。12時終了。

アルミ建築協議会からアルミ・コンペの計画書をもらった。事業の規模はやや縮小してはいるが、少しずつ実現に向けて動き始めた。思い切って踏みきれないのは、アルミ協会内部にも賛成派と反対派がいるからである。建築だけが突出することを快く思わない人たちがいるらしい。アルミの適用範囲は広いのだが、業界自体は意外と狭いようである。

花巻が描いた「85三原邸」の図面をチェックする。経験がないのだから無理もないが、彼女が描いた図面にはまだリアリティがない。多分、図面が具体的に現実とどう対応しているかが把握できていないのだと思う。自分の描いた図面と現実の建築とを、実際に対照してみないと分からないのかも知れないが、それ以前に、図面から空間が想像できているかどうかが問題である。これは僕の信念だが、ある縮尺の図面を描いている時、その図面を通して現実の空間を想像できることが、建築家の才能だと思う。イメージの中で自分の身体を縮め、図面の内部に身を置き、空間を仮想体験できる能力である。その能力は訓練を通じて伸ばすことはできるが、潜在的な能力が大きいような気がする。ともかく山内にプレゼ用の図面を修正してもらい、明日は模型に着手しよう。

龍光寺が急ピッチで「78鈴木邸」の実施設計をまとめている。途中の図面をチェックしたが、「箱の家1」の改訂版の感じである。プラニングは「箱の家1」に近いから、構造と構法を徹底的に単純化し、システムを見せることで差異を浮かび上がらせることにしよう。北面ファサードのデザインがポイントである。

『ホモ・エステティクス』は第4章「ヘーゲル的契機」で難航している。『漱石まちをゆく』を読んでから、もう一度戻るつもりだが、第1章「趣味の革命」を読み返していて面白いことに気がついた。コリングウッドの『自然の観念』もそうだが、『ホモ・エステティクス』も第1章が全体のまとめになっているのだ。『歴史の観念』の目次を見たら、案の定、序論が全体のまとめになっている。あらためて手元にある何冊かの本を調べてみたら同じだった。本格的な論文では、最初に全体のエッセンスを述べ、その後で詳細な検証をしている。これまであまり注意していなかったが、こうした構成が分かりやすい論文の書き方なのである。卒論や修論を書く上では、ぜひ学ぶべき教訓だろう。


2002年11月10日(日)

8時起床。猫がやけに鳴くので目が覚めた。昨晩、娘はオールナイトを見るといって帰ってこなかった。妻も外泊なので、猫のえさがなくなっていたせいだ。しょうがないので起きて餌をやり朝食をとる。寝巻きのまま9時に事務所に出て『丹下健三』を読んでいたら10時過ぎに龍光寺が来た。「83谷端邸」の施工図と「78鈴木邸」の実施図面の締切が迫っているので休日出勤だという。慌てて着替えに帰る。

10時半過ぎに家を出て東京駅へ。少し時間があるので八重洲ブックセンターに立ち寄り、2冊の本を買う。『歴史の観念』(R.G.コリングウッド:著小松茂夫+三浦修:訳紀伊国屋書店1970刊2002復刻¥3,200)『漱石まちをゆく:建築家になろうとした作家』(若山滋:著彰国社2002¥1,800)の2冊を購入。前者は先日読み終えた『自然の観念』と同じ著者の本。11月3日の『東阪往来記』にも書いたように『自然の観念』はつまるところ「自然の観念の歴史」であり、コリングウッドの真骨頂は「歴史」のあることが分かった。だから、どうしても彼の『歴史の観念』を読みたいと思ったのである。しかし目次と訳者あとがきを読むとなかなか手ごわそうだ。いずれじっくり取り組もう。後者は僕の最大の興味である日本の近代化プロセスを全身全霊で受けとめた明治人・夏目漱石が、建築家志望であったというのだから読まないわけにはいかない。こちらは楽しみながら読めそうだ。

11時53分ののぞみに乗車。京都着14時15分。地下鉄で京都国際会館(設計:大谷幸夫)へ。大学院の時以来、久しぶりに訪れたが、相も変わらず芝居じみた建築である。当時は「コンクリートでつくった宇宙船」みたいだと思った。つまり素材と表現が完全にズレているのである。丹下健三や菊竹清訓も同じような表現の建築をつくっているが、ずっと洗練されている。要するに表現が過剰なのだ。日本的意匠をまとった表現主義といえばいいだろうか。ともかく時代錯誤なモニュメンタリティは、僕の趣味にまったく合わない。

午後3時から京都賞授賞式。メインホールは約2000人の出席者で一杯だが、有名人以外は知っている顔は見当たらない。受賞者はアメリカの生物学者(レロイ・エドワード・フッド)、ロシア人の数学者(ミハエル・レオニドヴィッチ・グロモフ)、安藤忠雄の3人である。グロモフ博士の研究は「あらゆる多様体がつくる〈空間の空間〉の内部に距離構造を持ち込むことによって、多様体の性質を調べる新たな俯瞰的方法を考案した」というもの。何のことか分からないが〈空間の空間〉という言葉がイメージを喚起する。グロモフ博士の風貌も魅力的でいい。安藤さんはやや緊張気味にサステイナブルな建築の重要性を主張していた。最後に小学生の女の子達が壇上に上がり「浜辺の歌」と「荒城の月」を合唱したら、審査委員達が涙ぐんでいたのには苦笑した。イベント企画者にとっては美味しい反応だったろう。

5時前に終了。6時から宝ヶ池ホテルに場所を移して晩餐会が開かれる。早めに行ってロビーを通り過ぎる参加者の顔触れを見たが、まったく知り合いがいないので、出席を取りやめ、早々に帰京することにする。それにしても建築関係者が一人もいないというのは、ちょっと異常な事態である。もしかするとこの授賞式は京都の財界と文化人の閉じられた会なのかも知れない。

8時半東京着。9時帰宅。家族に授賞式の報告をしてから『漱石まちをゆく』を読みながら12時就寝。


2002年11月9日(土)

7時起床。8時に事務所を出てメールチェック。寺山からの糸川邸の報告を読み返信。8時半に事務所を出て、半蔵門線と埼玉高速鉄道で鳩ケ谷へ。そこから歩いて15分で「68藤井邸」の敷地に9時45分着。すでに縄張りがしてあったので、建物配置を一通りチェックする。10時から藤井夫妻、藤井さんの母上、山崎工務店の専務と住宅課長、岩堀と僕の7人で略式の地鎮祭。進行は岩堀が担当し、15分で終了。その後、近隣挨拶を済ませて10時半にお暇する。正午前に事務所着。スタッフの皆と昼食を食べる。

なおび幼稚園の概算結果が出た。案の定、予算を30パーセント以上オーバーしている。現段階ですべての仕様を再検討することは不可能だから、ある程度押さえた仕様で実施設計をまとめ、年末に出る最初の見積を見てから、来年初めに根本的なフィードバックを行わねばならないだろう。

岩堀が作成した二天門消防支所の予算追加資料をチェックする。ルーバーや外断熱などライフサイクル・エネルギーを下げるために必要な仕様のコストを提出するためだ。これらの仕様によって可能になる省エネの試算も要求されているが、設備コンサルタントの内山さんは、いつも安全側を見ようとするので、思い切った判断は出てこないだろう。来週初めに消防庁へ資料を提出し、最終的な判断を仰ぐ予定。

菅組から糸川邸の施工図が届いた。地中梁のスリーブ図、土間配管図、露出配管図、縦配管図、浴室タイル割付図など詳細な図面が出てきたのでびっくりした。これらの図面は?常は界工作舎が描くものだが、最近はその時間がないので、やむなく現場で直接指示している。今回は多田さんの指示もあって、本格的な施工図を描いてもらえるようだ。寺山にとっては願ってもない勉強の機会である。早速、詳細なチェックをするように指示する。

6時。谷端氏と小川建設が来所。「83谷端邸」の工事契約締結。計画が始まったのが6月だから5ヶ月で着工にこぎつけたことになる。竣工は3月末の予定。大船の「29中村邸」以来の最短期間だ。徹底した単純化と標準化が可能にした期間といってよいが、谷端夫妻があらかじめ「箱の家」を十分に理解しており、僕たちの提案にスピーディに対応してくれたことも大きい。来週土曜日、村越邸に続いて谷端邸の地鎮祭を行うことになった。最近のクライアントは皆そうだが、それだけに仕様を変えることが難しくなったことも確かだ。何とか突破口を探さねばならない。

7時、今夜は一人で夕食だ。久しぶりに表参道のスペイン料理屋に行く。カウンターで食事をしながら店員の話を聞くと内装設計は大江匡だという。一気に現実に引き戻され、細部を注視する。なかなかキレのいいデザインである。彼は何でもできる器用さを持っているが、それが限界である。結局、何を信じているか分からないからだ。どこの店に行ってもあれこれと考えさせられる。なかなか気休めはできない。明日は京都の宝ヶ池ホテルへ安藤忠雄さんの京都賞授賞式に行く。


2002年11月8日(金)

7時半起床。8時半にアパートを出て、9時53分ののぞみに乗る。11時半東京着。12時事務所に戻る。『室内』編集部から山本夏彦さんのお別れ会の案内が届いている。11月28日(木)に青山斎場でやるそうだ。池辺の葬儀と同じ会場である。無宗教の人は必ずここを選ぶ。28日は大阪市大で建築デザイン特論と安井事務所と2回目のコンペワークショップをやる日だ。どうしようか迷ったが、やはり大学を優先することにして、欠席と陳謝の返事を送る。

『近代建築』誌の編集部からコンバージョンに関する原稿依頼が届く。松村さんの振りである。12月初旬の締切だから約1ヶ月ある。できれば大阪の船場ケーススタディの途中報告をまとめてみたい。

1時過ぎに花巻が来たので、三原邸の清書を続行させる。小さな住宅だから一通りプレゼまでを担当すれば、住宅のまとめ方の練習になるだろう。岩堀は関口邸のスケッチを続けている。今日、最初に見せられた案は、敷地条件の読み込みが足りず、北への視界と南からの日射を生かしていない。たしかに厳しい敷地条件だが、その中からわずかな可能性でも引き出さねばならない。そのための基本コンセプトを提案して、第2案に向かうよう指示する。夜までには何となく可能性が見えてきたようだ。なおび幼稚園の図面一式をチェック。あちこちに気になる点がある。まだ建築・構造・設備システムの間にズレがあるが、それ以上に気になるのはコストである。構造は単純なシステムだが手間がかかりそうなのと、性能を重視した屋根や外装・ガラス面に予想以上にコストを食いそうだからだ。設備類もかなりヘビーだ。恐らく大きなフィードバックが必要になるだろう。

7時、久しぶりに家族と家で夕食を食べる。娘とホームページの話題になって、大阪市大の学生も彼女のホームページを見ているらしいという話をしたら、見るだけじゃなくて、ぜひ書き込みをしてもらいたいと伝えてくれという。そういえば彼女はデザイン研のホ新しいームページに対するコメントも書いていた。夜遅くまでパソコンの前に向かっているのは、書き込みをいちいちチェックして返事を書いているらしい。一人娘の淋しさだろうか。夕食後、彼女のホームページを見てからBBSに短い感想を書き込む。再来週に、母が病院から一時退院して、この家に帰ってくることになった。妻が自分の誕生日を期に意を決したらしい。この家の建て替えを計画していることを、母に伝えるいい機会だ。寝たきりだから世話が大変だが、手助けせねばなるまい。

明日は「68藤井邸」の地鎮祭と「83谷端邸」の工事契約である。早めに仕事を切り上げ、帰宅する。


2002年11月7日(木)

7時半起床。8時半に出て大学着9時15分。10時50分から建築デザイン特論。『テクトニック・カルチャー』がようやく第2章に差しかかる。18世紀から19世紀にかけての展開。ロージェ神父の『建築試論』からスフロのパンテオン、ピュージン、ラブルーストの図書館、デュクを経てショワジーの『建築史』までの歩み。ようやく「非物質化」の概念が登場する。次回は第3章「結構の登場」。18世紀から19世紀にかけてのドイツ、オーストリアの建築史に向かう。いよいよ本書の中心人物であるゴットフリ−ト・ゼンパーの登場である。レクチャーも少しずつ軌道に乗り始めたようだ。水野の説明は依然としてまどろっこしいが、それは彼だけのせいではない。フランプトンの議論も錯綜しているし、翻訳も硬い。とはいえ水野が作成した資料に付けられた註を見ると、彼が問題を的確に把握していることがよく分かる。多分、一番勉強しているのは彼だろう。

午後1時半から教務委員会。いよいよJABEE審査ヘ向けての教育体制の再編成が動き始めた。学生のアンケート調査もそうだが、講義に関する評価システムの構築も俎上に上っている。建築学科内で本当に相互評価システムを軌道に乗せることができるかどうか難問だが、避けて通ることのできないハードルだ。これからが正念場である。それに合わせて、履修案内、時間割、シラバスも本格的に書き直さねばならない。

3時から山口と條の卒論エスキス。論文の大枠が見えてきたので、来週のゼミ会議までに梗概を書くように指示する。まずはコンパクトに論文のまとめを作り、その後で詳細な本論を展開するというのが合理的だ。

菅組から糸川邸の基礎梁の変更にともなう鉄筋の追加工事見積が届く。これは本来なら地盤改良の追加工事と一緒に出すべきものだ。それを地盤改良の金額が確定した後から出されても、クライアントとしては承認できないだろう。手順が間違っていることを寺山に指示し、その旨をNCNに伝える。変更が生じるのは、やむを得ないが、泥縄式に見積を出すのは現場監理者としては失格である。

昨年、建築デザイン特論で読んだ『SOLARPOWER』を翻訳出版しようとワールド・フォトプレス社に連絡をとった。今年の初めに彰国社に検討してもらったが、結局、経済的に成り立たないということで断念した。今年になって建築関係の写真を多数載せた『シェルター』や『小屋の力』が出版され、結構売れているので、その出版社に連絡をとり、再度検討してもらうことにした。上條にレジメを作ってもらい、送付することにする。『SOLARPOWER』はサステイナブル・デザインの教科書のような本である。出版社が乗ってくれば研究室の主要な仕事として軌道に乗せるつもりだ。

4時過ぎに寺山が富山の「74並木邸」の見積用図面をまとめて送付した。どの程度の見積金額が出てくるか、いささか不安だが、ともかく一つの山場を迎えたわけだ。寺山がこれまで担当してきた一連の「箱の家」を、プロジェクトを含めてホームページに載せることを川崎に指示する。合わせて過去のコンペ応募作品も研究室の活動として載せることにする。

6時、寺山と大学を出て、並木邸の見積図面の打ち上げに、本町の美々卯でうどんすきを食べる。職員組合からもらったクーポン券を使ったのだが、そういえば去年は「50吉田邸」の吉田夫人とワインを大いに飲んだことを思いだした。その後吉田一家はどんな生活をしているのだろうか。9時過ぎ終了。地下鉄本町駅で寺山と別れ、9時半帰宅。しばらく『ホモ・エステティック』を読むが、疲れと酔いで集中できず。11時就寝。


2002年11月6日(水)

7時起床。30分ばかりレクチャーのスケッチをしてから、8時半にアパートを出て、9時15分大学着。メールチェック。10時50分から建築デザイン1レクチャー。まず「批評」の概念について、基本的なことを話す。批評とは対象の内部に入り込み、それを理解した上での作業であること。批評には批評に値するか否かの価値判断が先行すること。『デザインの鍵』は僕にとってもっとも批評に値する本だからこそ取り上げたこと。そして『デザインの鍵』で述べられていることは、ほとんどがデザインの「常識」に対する批評であること。したがって、それに対して常識の立場から逆批評しても無意味であること。しかしレポートに書かれた批判は、ほとんどが常識からの批判にすぎないことなどを話した。その上で、批評の頻度の大きい項目について、逐次、僕の意見を述べていった。最終的には「自由とルールの関係」「機能性と合理性の違い」「仮説の発見としてのデザイン」という三つのテーマに収斂した。久しぶりに1時間半話し続けたが、多くの学生が眠っていた。多分ほとんど分からなかったのだろう。暖簾に腕押しということか。来週は近代建築史第1弾ということで、ル・コルビュジエについて話すことにしよう。

午後2時からゼミ会議。まず、大学に対する僕のスタンスを話し、僕としてはデザインを通してしか大学と関係を持つつもりはないこと。したがってデザイン研としては、どんな研究であっても、最終的にデザインの提案として収斂させなければ意味がないことを確認する。コンバージョン、団地再生、環境制御、緑化などサステイナブル・デザインに関する研究すべてがそうである。北梅田コンペに対しても、サステイナブル・デザイン研究のケーススタディとして、研究の検証のつもりで取り組むことを確認する。その後、各人のコンペスケッチを提出し、それに関して議論する。まだまだ拙いアイデアばかり。中味についてのイマジネーションが足りないのと、何よりもイメージが単純すぎる。近未来都市が単一のイメージで成立するわけがない。もっと錯綜したセミラチスな空間をイメージすることが重要だろう。そのためには、とりあえず皆のイメージを重ね合わすことから出発するのがいいのではとアドバイスする。河田のイタリア旅行の小報告。来週のゼミ会議で映像を交えて話を聞くことにする。デザイン研だけでなく建築学科の学生皆に見てもらったらどうだろうか。

5時、安井事務所の人たち5人が来所。会議室にて北梅田コンペのワークショップ。コンペ要項と竹中案の分析をした後、研究室メンバーのイメージスケッチについて意見を聞く。都市デザイン部の山本勝彦さんは長年北梅田一帯の都市計画に関わって、今回のコンペの背景についても熟知しているようで、いろんなコメントをもらうことができた。取りあえず今回は互いに様子見といった感じで、安井事務所からは何の提案もなかった。7時から研究室に移り、皆で会食。9時過ぎまで大いに盛り上がる。彼らも大学の雰囲気を楽しんでいるようだった。安井事務所が帰った後、ゼミメンバーで河田のお土産であるグラッパとサケの燻製で締める。

界工作舎からのメールで、二天門消防署の予算が再検討されるという報告が届く。徹底したコストダウンの努力が、トップを動かし始めた。サステイナブルな消防署が実現できるかどうか、いよいよ正念場に差しかかったようだ。

10時半終了。山口と一緒に帰る。


2002年11月5日(火)

7時起床。8時に事務所に出る。大阪から北梅田コンペに関するメールが届いている。少しずつ始動しはじめたようだ。三原邸第1案を大急ぎでスケッチ。ともかく早めにまとめて結論を出そう。10時から事務所の打ち合わせ。先週末の工事契約について報告し、三原邸のスケッチを杉村に渡す。花巻に清書を頼む。香港旅行は12月20日(金)出発の2泊3日にしよう。ほとんどの香港ツアーがそのパタンのようだ。

甍賞の審査委員依頼の正式書類が届く。審査委員会に参加する建築家は仙田満と出江寛である。結構、大物なので緊張するが、胸を借りるつもりで当たってみよう。とりあえず竹原義二さんに『旅館・海椿』で応募したらどうか打診するファックスを送る。

正午に事務所を出て12時53分ののぞみに乗る。新大阪着15時30分。大学着16時15分。ただちに建築デザイン1のレポートを一通り読む。課題は「『デザインの鍵』を読み、疑問を抱いたか、あるいは賛成できない項目を挙げて、その理由を述べよ」というもの。2,3人の例外はあるが、ほとんどの学生が的外れな読み方をしている。本はどう読もうと自由だし、好き嫌いもあるだろう。しかしそれだけに、同じ本を読んでも、深い読みと浅い読みの間の格差はとてつもなく大きい。疑問を抱いたり、賛成できない理由のほとんどは、読みの浅さに由来している。本を批判的に読むことはたしかに重要だが、それは著者の意図を理解した上での、内部からの批判でなければ意味がない。批判するためには、まずそれを理解しなければならない。深い理解が深い批判を生むのである。本の価値は、そこからどれだけのことを読み取ったかに左右される。価値は本そのものに内在するわけではないのだ。批判の前提に「批判に値するかどうか」というハードルがあることも忘れてはならないだろう。明日のレクチャーは、そのことから話し始めるつもりだが、果たして学生は分かってくれるだろうか。

午後6時から池田知余子の卒論のエスキス。徐々にではあるが収斂に向かっている。残された課題は、結論となる「日本のコンバージョンの展望」である。続いてM1の3人と北梅田コンペの打ち合わせ。明日のワークショップの方針と各人のスケッチについて話し合う。スケッチは依然として拙い。寺山と「74並木邸」について短い打ち合わせ。明後日までには実施設計をまとめて、山手さんに送付する予定。

8時過ぎに大学を出て、中津駅の近くで夕食を食べ、9時半帰宅。明日のレクチャーをスケッチする。その後、読みかけの『ホモ・エステティックス』をふたたび読みはじめる。本当は『丹下健三』を読みたいのだが、かさ張りすぎて持ち運べない。やむなく2ヶ月前に途中で『ユーザー・イリュージョン』に乗り換えた本書を持参したのだが、これが意外と面白い。しばらく読み続けて、12時就寝。


2002年11月4日(月)

8時起床。急いで朝食をとり、事務所に出てメールチェック。桑山姉妹からお礼の連絡が入っていた。直ちにお礼の返事を書く。

9時に事務所を出て、地下鉄千代田線、北千住で東武伊勢崎線に乗り継いで、東武動物公園駅へ。タクシーで日本工業大学に着いたのがジャスト10時半。スライドをセットし、試写してから、コンペ表彰式に臨む。表彰式は学園祭のイベントとして実施しているらしい。キャンパスは高校生や父兄で一杯だ。

コンペの入賞者は関西の工業高校が多く、完全に西高東低だ。1等は兵庫県、2等は大阪府、3等は三重県の学生である。2等は大阪市立大学に毎年推薦入学で入ってくる大阪市立工芸高校の学生で、別の学生が奨励賞にも入っていた。表彰式の後「箱の家」のミニレクチャーをやり、続いてパワーポイントで作品を映しながら入賞案の講評を行う。学生達が自分の案に関するコメントをしたのは面白かった。たどたどしいが、しっかり自分の考えを述べようと努力する姿が微笑ましい。終了後、入賞作品を展示した会場に移り、各工業高校の指導教官も加わって歓談。希望に応じて、作品の前で個別の講評を行う。先生が熱心なところほど入賞者も多い。関西地方の入賞者達の進路を聞いたら、1、2等、奨励賞とも京都工繊大を目指しているという。京都工繊大には推薦入試に近い制度があり、コンペの入選回数が審査基準になるらしい。1等案に入った兵庫の学生は去年のコンペでも1等を取っており、指導の先生から京都工繊大への入学は確実だと聞いた。大阪市大の推薦入学とはずいぶん異なるシステムだ。デザインに特化した学生をとる最適な方法といってよい。なるほど京都工繊大のデザイン・レベルが上がるはずだなと、いささか嫉妬を感じる。入賞者と一緒に昼食をとり、そこでも学生や先生方と雑談をする。みんな『箱の家に住みたい』を読んでいると聞いてびっくりした。道理で応募案に「箱の家」に似たのが多かったわけだ。

入賞式が終わった後、学校祭のイベントとして建築学科の学生がやっているワークショップの講評に招かれた。2次元でも3次元でもない「2.5次元の空間とは何か」というテーマで、ポリスチレン断熱パネルで作った1辺90センチのキューブを加工し、いろいろなミニ空間を演出している。面白い企画なのでフラクタル幾何学を知っているかと聞いたら、何も知らないので驚いた。彼らがやろうとしているのは、まさにフラクタル幾何学の建築への適用なのである。シーラカンスのスペースブロックもそうだ。現代的なテーマを学生達は直感的に捉えているのだと思う。しかし直感だけでは案は展開しない。このテーマの面白さは、その展開可能性にあるのだから、理論的な分析が不可欠である。そのためには一般教養にもとづく幅広い視点が必要だ。工業高校出身の学生が大学で伸び悩む原因は、そのあたりにあるのかも知れない。いろいろ考えさせられる一日だった。

片道1時間あまりの往復の電車の中でリチャード・ロジャースの『都市;この小さな惑星の』を再読した。そのまま北梅田に適用することはできないけれど、コンペのアイデアソースとしては格好の本だと思う。読むうちにいろいろなアイデアがランダムに湧いてきた。まずサステイナブルな「コンパクト・シティ」の概念が軸になる。そのために必要な変数は、技術的には1)エネルギー供給をどうするか2)廃棄物をどう処理するか3)上下水道をどうするかといった問題がネックになる。機能的には1)生と死2)幼:若:老の混合3)生涯教育4)コミュニケーションモ−ド:テレコミュニケーションとダイレクトな対話5)車と徒歩6)フレキシブルな機能変化といったテーマがあり、北梅田固有の問題としては1)外周道路につながる2)駅につながる3)川につながるがある。さらに大阪固有の問題として1)緑と水2)平地と丘3)商いの街4)食い倒れの街といったテーマがある。さらに空間・形態的には1)静か:にぎやか2)人工:自然3)閉じる:開く4)高い:低い5)広い:狭い6)長い:短い7)平坦:凸凹8)高密度:低密度といった多くの変数がある。これらの変数を組み合わせて多次元マトリックスをつくり、それを北梅田に埋め込んでいくという方法をとれば、かなり密度の高い提案ができるのではないだろうか。ロジャースも言うように21世紀の都市は、単一機能の地域の組み合わせではなく、一つの地域に居住空間を含む多重機能の空間が重合した都市であるまちがいない。

夕方5時に帰宅。しばらく休んだ後、妻と二人で夕食。娘は友人と食事だそうだ。夕食後、なおび幼稚園の図面チェックを試みるが集中できない。少し頭痛がしてきた。明日は大阪だから、早めに休むことにする。


2002年11月3日(日)

7時起床。8時に家を出て、京王線調布駅へ。休日の朝早くなのに、やけに人が多い。連休だからピクニックにでも出掛けるのだろうか。あるいは府中の競馬場だろうか。9時前に「71青木邸」の敷地に着く。9時から工事契約の約束だが工務店が来ないので苛々する。ようやく9時半に社長が着いた。クライアントも設計者も約束の時刻を守っているのに、工務店が遅れるとはもっての外だ。おまけに契約書類の準備も不完全で、クライアントを前にして契約条件を書き入れている始末である。契約締結の作業を効率的に進めるために、青木夫妻に前もって契約条件を確認したものを工務店に渡してあるにもかかわらず、現場で書類を作成するとは、あまりにも要領が悪い。遅刻や手順の悪さから推測すると、工事の手順も悪いかも知れない。ちょっと要注意の工務店である。10時から地鎮祭。青木さんのご両親、青木夫人のお母さまとお祖母さまが臨席された。どちらの親も僕と同じ年齢だと聞いて、いささか考えさせられる。30分で終了。その後、皆で記念写真を撮り、しばらく歓談した後、11時前にお暇する。河内は残って近隣挨拶の予定。新宿でヨドバシカメラに立ち寄り、スライドファイルと乾燥剤を買って12時に帰宅。昼食をとった後、明日の日本工業大学のレクチャー・スライドの整理をする。30分程度のレクチャーの予定。残りの時間はコンペの講評だ。2時に小川共立建設の合田邦男さんが来所。少し遅れて村越史和さんが着き「81村越邸」の工事契約締結。地鎮祭は11月16日(土)の午前11時からに決まった。糸川邸の建方とバッティングするかも知れないが、早いものから決めていくしかない。7時に藤井夫妻と山崎工務店が来所。「68藤井邸」の工事契約。30分で終了。地鎮祭は11月9日(土)に決定。いよいよ糸川邸の予定が削られてきた。7時半に娘と一緒に夕食を食べに行く。明日は久しぶりに家で食事の予定。

R.G.コリングウッドの『自然の観念』をやっと読み終わる。以前も書いたように、本書は「自然」はどのようにとらえられてきたかを、ギリシア時代から歴史的にたどった「観念史」である。コリングウッドは大きく、ギリシア時代、ルネサンス時代、現代の三つの時代に分けて辿っている。ここで言う「自然」とは、基本的に「自然科学」がとらえた自然である。自然科学の定義はその時代によって異なるから、結果的に「自然科学の歴史」について論じることになるが、コリングウッドが注目するのは、自然科学そのものではなく、その背景にある、あるいは自然科学がもたらした「自然の観念」である。コリングウッドによれば、現代における自然の観念は「進化論的生物学」あるいは歴史をモデルとして、たえまなく変化する「過程」としてとらえられる。ホワイトヘッドの哲学がその代表である。(クリストファー・アレグザンダーもホワイトヘッドを引用していたので、僕も一時期、勉強したことがあるが。僕の考えでは、彼の思想はちょっと眉唾物だ。彼の『過程と実在』を仲間と読んだが、さっぱり分からなかった。翻訳が悪かったのかも知れない。)これに対して、ギリシア時代のそれは幾何学をモデルとして、静的なイデア(理念)が充満する世界としてとらえられ、ルネサンス時代のそれは物理学をモデルとして、「機械」のように組み立てられた世界としてとらえられる。コリングウッドは現代の自然の観念がもたらす帰結を、以下のような5つのテーゼにまとめている。1)変化はもはや循環的ではなく前進的である。2)自然はもはや機械的ではない。3)目的論が再び導入される。4)実体は機能に解消される。5)極微空間と極微時間が問題となる。この結論はとくに目新しいものではない。たとえばエルンスト・カッシーラは同じような議論をもっと精緻に展開している(たとえば『実体概念と関係概念』や『認識問題4』いずれも、みすず書房刊)。本書が書かれたのは第2次大戦中で60年以上も前である。その後の自然科学(生化学)の進展は、コリングウッドが定義する「機械」と「生物」の区別を取り払い、生物も一種の機械であることを明らかにした。あるいはコンピュータを中心とする情報科学(IT)の進展は、脳科学と結びついて、再びイデアを復活させようとしている。コリングウッドの主張をそのまま受け入れてもしょうがない。重要なのは彼が提示する「歴史の観念」である。本書は彼の「歴史の観念」を「自然の観念」に適用したものなのだ。したがって僕たちは、彼にならって、それを本書に適用すべきなのである。

次は、建築の本を読んでみよう。まずは藤森照信さんからもらった『丹下健三』を片づけねばなるまい。


2002年11月2日(土)

8時起床。9時に事務所に出る。

昨日の『東阪往来記』の最後に書いた断熱パネルの件について、寺山から質問が来た。今のところ結論は出ていないが、問題は以下の通りである。ポリウレタン、ポリスチレン、ポリエチレンなどの発泡断熱材を、朝夕、夏冬の温度差が大きい部位、とりわけ外断熱などに使うと、断熱材内部の独立気泡が膨張収縮を繰り返すうちに破裂して、気泡相互がつながっていき、長期には外部と連続してしまう。その後、再び収縮する際に外部の水蒸気や水を吸い込み、冬期にそれが凍りついて膨張し、最終的には断熱材が粉々になる可能性があるというのである。知り合いの設備コンサルタントが、コンクリートに打ち込んだ発泡断熱材を、何年か後に解体したとき、実際にそのようになったものを見たことがあるといわれた。北海道ではとくに被害が大きいという。しかし、この件について何社かの断熱材メーカーに問い合わせたが、明確な回答はもらえなかった。今後もさらに調査を続けるつもりだが、とりあえず次のように対応することにした。まず発泡ポリウレタンの断熱材は、とくに水に弱いので外部での使用を中止する。ボリスチレンを使っているAP断熱パネルは当面は使うことにするが、いずれはグラスウール断熱パネルに転換する。これは35kg/立米のグラスウール板を合板でサンドイッチした断熱パネルで、OMソーラーや秋山東一氏が開発したBe・houseに使われている。建築材料は当初の性能だけでなく、経年変化の条件を考慮して使用しなければならないという教訓である。これを機会に中空成形セメント板やガルバリウム鋼鈑など「箱の家」の標準仕様も再検討してみる必要があるかもしれない。こうした条件もデザインの転換に使えたらいいと思う。

先日からメールでやり取りしていた大塚宏朗さんから、正式に自邸の設計依頼が来た。早速、敷地調査の日時を連絡し11月12日(火)の午前中に田園都市線の「たまプラーザ」で待ちあわせることにする。次の駅が関口邸の敷地に最寄りの「溝の口」だから、うまく仕事を進めれば同時期の工事になって好都合かも知れない。昨日のシンポジウムでイゼナの前田さんからクライアント紹介の依頼をもらった。三原邸、関口邸なども含めて、着々と設計依頼が来ているが、事務所の対応が追いつかない。明日は3件の工事契約があり、工事が着工して一区切りがつくだろう。しかしその後には幼稚園と消防署が控えている。目の前の仕事を少しずつ片づけていくしかないが、もう少し将来の展開を考えないと、泥縄式でまずいかも知れない。

11時に田中会計士事務所の渡瀬さんが来所。今年は事務所の決算が黒字になったので、売上げと経費の仕分けを細かくする必要があるという。設計の仕事の手順と設計料の支払条件を説明したら、前期の会計年度に終えた仕事と継続中の仕事を分け、給与もその仕事によって仕分けすると有利らしい。なかなか難しい作業で、手間が増えるから、会計事務所へ支払いも増えるのだろう。それにしても僕がこれだけ働いても、事務所からはまったく報酬がもらえないのは不合理ではないかと主張したが、公務員ではしょうがないというそっけない返事だった。何か有効な経費の使い方はないかと考えたあげく、年末に界工作舎のみんなで研修旅行に行くことを思いついた。いくつか行き先の候補を検討したが、日本よりも暖かい香港に行くことに決定し、クリスマス直前の安いツアーを探すことになった。フォスターの新空港を見たいし、香港上海銀行や中国銀行も見たい。返還後の香港の変貌にも興味がある。建築と都市の勉強にはうってつけの研修旅行になるだろう。阿弥陀くじで旅行の幹事は平山に決まった。

「カーサブルータス」の西村由美さんから電話があり、池辺陽に関する原稿を頼まれた。今回は70年大阪万博のカウンターとして鹿児島の宇宙ロケット打ち上げ場を取り上げるという。なかなか面白い視点だ。

夕方6時、桑山姉妹が来所。「77桑山邸」第1案の図面と模型を見せる。1階がプライベイト、2階がパブリックな空間で、母親の部屋は2階にある。きわめてコンパクトで効率的な住まいなので、基本的な考え方は認めてもらえたように思うが、問題は工事費だろう。ともかく持ち帰って検討してもらうことにする。1時間程度で終え、マイセンで夕食。その後、マイセンの前のバーで食後酒を飲み、9時半に表参道の駅で別れる。桑山姉妹は僕の話しに丁寧に対応してくれるので、楽しい一時をすごすことができた。事務所に戻り、メールチェックした後10時に帰宅。しばらくぼんやりとテレビを見てから、11時半就寝。明日は、いくつかの工事契約が集中している。


2002年11月1日(金)

7時半起床。8時半に事務所に出て、少し三原邸のスケッチ。9時過ぎに事務所を出て建築会館へ。今日は夕方まで建築学会のシンポジウム『持続可能な社会における熱・光・空気のデザインと技術:バイオクリマティックデザインの現在』に参加する。10時スタート。小玉裕一郎さんがテーマの趣旨について説明した後、午前中は環境理論の研究者による研究報告。省エネ住宅の性能調査、パッシブ換気、温暖地の省エネ技術、ソーラー建築の動向、エクセルギー理論などが報告された。エクセルギー理論は以前から考え方の概要は知っていたが、今回の説明でよく理解できた。エクセルギーEXERGYとは有効なエネルギーのことで、ENERGYからの造語である。エネルギーは単独に測定できるが、同じ量のエネルギーでも、環境条件との関係で有効な場合と、そうでない場合がある。つまりエクセルギーとはエコロジカルな視点で見たときのエネルギーの質を測る尺度なのだ。それ以外の発表にはとくに大きな発見はなかった。相も変わらず、断熱と結露の関係が曖昧だし、環境制御の理論が面白い建築に結び着くとは限らないことを証明するような研究ばかりだ。はっきり言えば、デザインができない人は、面白い研究もできないのだ。デザインも研究も、仮説的な発想が必要である点では同じなのである。

山口陽登が遅れてやって来た。深夜バスが遅れたらしい。昼の休憩時間に会い、一緒に昼食を食べる。イゼナの前田誠一さんと、久しぶりに会った東京理科大の教え子の吉田由紀子もいた。彼女はヨーロッパ建築旅行にも一緒に行ったことがあるが、しばらく会わなかった。現在はつくばの環境研究所の研究員だという。大学のときにはトンガッタ学生だったが、しばらく会わないうちに見違えるよう立派になっていた。名刺を交換して、環境理論の研究情報を知らせてくれるように頼む。

午後は建築家と設備コンサルタントとのコラボレーション事例の紹介。アトリエブンクの「北方建築研究所」、日建設計の「地球環境戦略研究機関」、小嶋一浩さんと高間三郎さんの「ビッグハート出雲」をはじめとする一連の仕事、横河健さんと葉山成三さんの「埼玉環境科学国際センター」の4組の仕事が紹介された。いずれもシンポジウム向きのハイテック・ハイコストのエキサイティングな建築ばかりで、いささかヘビーデューティな感じだ。午前中の研究報告との落差がやけに気になった。4時から野沢正光さんの司会で、建築家とコンサルタント8人が参加したパネルディスカッション。野沢さんは頑張って話していたが、今一盛り上がりに欠ける。最後に僕に質問が来たので、安藤忠雄の「住吉の長屋」を引き合いに出して、サステイナブル・デザインの考え方を相対化することの重要性を指摘し、さらにガラス建築とサステイナブル・デザインの関係について疑問を提出した。建築家とすれば「まず透明空間ありき」で、そこから環境制御が始まるのだ。本来なら、そのような建築空間のあり方自体が議論されなければいけないのだが、シンポジウムの成否を考えると、どうしても派手な演出が必要になるかもしれない。そのあたりにサステイナブル・デザインの政治的正義に寄りかかった安易さが垣間見える。だから建築家に敬遠されるのである。小嶋一浩さんだけが相対的なスタンスを取った発言をしていたのは、そうした立場から身を引き離しておきたいと感じたからだと思う。その証拠に会場には建築家の姿はほとんど見えなかった。悲しい事態である。

5時半終了。その足で表参道のPNプローブで開催されている「手塚夫妻+池田昌弘のJIA新人賞受賞祝い」に行く。会場に入ったら、いきなり「難波先生!」と声をかけられた。まったく知らない人なので名前を聞いたら、今回受賞した「屋根の家」のクライアントの高橋夫妻だった。僕のことをやたらと知っているので思わず「どうして僕ではなく、手塚君たちに設計を頼んだのですか?」と問い質したら一瞬固まってしまった。まあ、依頼候補の一人に上がっていたらしいから、それだけでもよしとしよう。会場では佐々木睦朗、播繁、曽我部昌史、遠藤政樹、千葉学さんらと久しぶりに会った。高橋青光一さんも相変わらず元気そうだ。1時間ばかりいたが、人が多いだけのつまらないパーティなので、さっさと会場を出て、事務所に戻る。夕食を食べながら、界工作舎の皆に今日のシンポジウムについて簡単にコメントし、断熱パネルについての調査結果について報告を聞く。10時半終了。『自然の観念』をもう一度ざっと読み返し、12時就寝。


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